第二話
「ヤヤネさん、聖樹祭はご存知ですね?」
「え?
あ…もちろん……。
我々人間がこの島に辿り着き、魔術師様と聖樹様から島で暮らす許可を頂けた日を祝うお祭りです」
魔術師としての知識を問われた試験だと思ったヤヤネは真面目にそう答え、シビィはいつもの優しい笑顔で頷いた。
「えぇ、そうです。
その聖樹祭は五年に一度、数十人の魔術師の裾様方が連れ立って、聖樹様へご挨拶に出向く事はご存知ですか?」
ヤヤネは小さく驚愕の言葉を漏らし、そして更に小さく、知りません…。と申し訳なさそうに答えた。
シビィはそんなヤヤネに気にするなと言うように首を横に振り、言葉を続ける。
「いえ、五年前だとヤヤネさんはまだかなり幼い頃でしたし、聖樹祭を首都で過ごすか、聖樹様への道中の街以外に暮らす子供は知らないのが普通ですよ」
意地悪に感じたのならごめんなさい、とシビィは微笑み、そんな事は感じていないとヤヤネは何度も首を左右に振った。
シビィはそんなヤヤネを眺め、一呼吸空けてから、
「今年は、その五年に一度の聖樹様へご挨拶に行く年です。
そして、裾様方に順番にお声を掛けされていただくのですが…。
…、ヤヤネさん、貴方も立派な草と土の裾様です。
今回の参列にご参加なさいますか?」
ヤヤネは瞬きをした。
魔術師の裾となってから、魔術師協会からそういった誘いを受けるのは初めてだ。
今日の定期報告のように、〝必ず行うように〟と言われたものは幾つかあるが、催事に魔術師の裾として参加する話は今まで一度もなかった。
魔術師の裾として魔術師協会に登録されている者は三百人もいないらしい。
その中で、魔術師の裾は、平民と、領主や一部商人などの富裕層とで分けると、富裕層の方が多く登録されている。
魔術師の裾にとって最も大切であり、魔術師の裾たるを証明する魔道具は、使用可能な者が居ない場合は魔術師協会に保管されている。
そして、安くない金額を払えば自分に適応する魔道具があるかを調べる〝魔道具適正検査〟が出来る。
それが安くない金額なのは、魔術師協会への寄付金の代わりだ。
魔術師の裾への支援や魔道具の管理と、勿論、協会員への賃金など、魔術師協会は決して少額の金で賄える組織ではない。
平民でも払えない金額ではないが、魔術師の裾になれる可能性の低さを考えると、適正検査に手は伸びない。
だが、領主にとって魔術師の裾は大切な存在だ。
自分の領地を豊かに導く存在だからだ。
領地にとって魔術師の裾とは、代えのない人材。
だから、魔道具が増えたと聞けば領主は自分の子供に適正がないかと調べ、希望さえあれば使用人やその家族にも受けて貰う為に適正検査の代金を支払った。
そしてもし、魔術師の裾が明らかになれば、平民でも領主やその一族の養子になる提案をする事が一般的だ。
それは強制ではないが、平民にとってはとても素晴らしい提案だ。
豊かな生活を送れるし、様々な権利も得られる。
ただ平民の魔術師の裾として暮らしても受けれない恩恵。
更に、養子となれば元の家族と縁が切れるという訳でもなく、その家族もある程度、生活に援助が与えられるものだ。
だから、平民の魔術師の裾の多くは早い内に領主一族の一員となる。
それを断るのは、余程家族と別れて暮らすのが憚れたり、まだ幼すぎる子供だったり、など家族関係の理由が多い。
そして、ヤヤネは平民だった。
ヤヤネが魔術師の裾だと判明した時、ヤヤネの住む領の領主から養子の誘いがあった。
だが、ヤヤネは断った。
明確に言うと、保留という状態だが。
この島の領は、大陸でいう街か村程度の規模で、領主と領民は皆顔見知りだ。
ヤヤネも領主とは顔見知り程度だが知っていて、優しい方とも知っていた。
だが、その時のヤヤネは、養子とか、そういった事を考えられない状況で、領主も養子の件をヤヤネに伝えた時に、直ぐにでも受け入れられるし、時間が必要なら何年でも〝保留〟にしようと告げてくれた。
その時ヤヤネはその言葉に無言で頷くだけで、返事をしなかった。
それでも、優しい領主は意図を汲んでくれた。
だから、ヤヤネはまだ平民だ。
そんな平民のヤヤネに、魔術師の裾として催事参加の伺いがくるのは珍しいと、ヤヤネでも分かっていた。
富裕層を贔屓しているのではなく、魔術師の裾の催事というのは報奨金が出ないものであり、しかも数日から数週間掛かるものがほとんどなので、仕事を休んで催事に参加する事が平民達には金銭的に難しい問題があるからだ。
だからこの手の誘いは富裕層に最初に渡る。
勿論、数が増える分には魔術師協会としは歓迎なので、声が掛からなくても立候補するのは構わないが、前述した理由で平民達が参加に手を上げる事はまずない。
その話がヤヤネまで来るのは、何があったのかと、ヤヤネは考えた。
聞いていいのかどうか、とも。
考え込むヤヤネに、シビィはいつもと変わらない優しい声色で告げる。
「聖樹様へのご挨拶は、それぞれの魔術の属性を持つ魔術師の裾様方が向かいます。
けれど今回は…土の魔術師の裾様で、参加してくださる方が今はまだ居ないのです」
「土の裾が?」
「ええ、五年前に御参加なさった魔術師の裾様の内、十数名が長旅をするにはお年を召したと…。
その中の多くが土の裾様でして。
まだご高齢という訳ではありませんが、長く馬車に乗るにも腰や足が悪いとお辛いでしょうから」
「そう…ですよね…」
ヤヤネは、昨日絵本をくれた老夫婦を思い出した。
孫娘の結婚式にと首都に向かった彼らは、ヤヤネを共に誘ってくれた。
冠婚葬祭に魔術師の裾が参加するのは、主催者や親族にとってとても誇らしい事だからだ。
ヤヤネは孫娘も含め、その家族皆にお世話になっていたのと、結婚式の華やかさに憧れて喜んで参加した。
孫娘は裕福な商家に嫁いだので、村に迎えの馬車が来てくれて、老夫婦とその息子とヤヤネは、その馬車に乗って首都を目指した。
そして、その馬車は何度も休憩を挟んだ。
揺れる馬車で、腰の悪い妻はとても辛そうだった。
タロに比べてガタガタ揺れる馬車に、ヤヤネは少しお尻が痛かったが、妻は比較できない程に苦労して馬車で過ごしていたようだ。
タロの何倍も早い馬車が、タロに乗った時の何倍も時間を掛けて首都に辿り着いた。
結婚式の前日に着いて、妻と、妻程ではないが膝を痛そうに擦っていた夫は、結婚式までぐったりと寝込んだ。
この首都から聖樹までは、首都からヤヤネの村までの何倍以上も遠い。
ヤヤネには明確な数値は分からないが、そのくらいは分かっていた。
だから、足腰の悪い人がそんな遠くまで馬車でも徒歩でも向かうのは困難だと納得する。
「ヤヤネ様の他にも土の魔術師の裾様はいらっしゃいますが、今のところ声を掛けさせていただいた皆様は長く家業を離れるのは困難と仰いまして」
平民の人達だと、ヤヤネは理解した。
ある程度余裕のある暮らしだとしても、数週間収入がないのはかなり痛手だ。
特に家族が居て、自分が大黒柱なら尚更。
「勿論、他の方がお断りなさったように、ヤヤネ様もお断りする事が可能です。
どうか無理をなさらず、ご判断ください」
そう軽く頭を下げるシビィに、ヤヤネは考えた。
聖樹祭の日にちを考え、魔術の予約がないのを頭の中で確認する。
そして、ヤヤネの記憶にある聖樹祭を思い出した。
裾になる前にヤヤネが首都で聖樹祭を過ごした事はなかった。
だが、村でも聖樹祭は行われる。
その日は畑仕事を出来るだけ簡略化して早く終わらせ、皆一番良い服を来て、小枝や石、羽や魚の鱗、火の点いた蝋燭やランタンなど、〝魔術師と精霊〟の話に出て来る最初の魔道具に見立てた何かを持って、領主の館へ歩く。
領主の館の前の広場で、領主を始め、皆が持ち寄ったご馳走を楽しく談笑して食した。
ヤヤネも、一番お気に入りの服を着て参加した。
ヤヤネを始め、小さい女の子のほとんどは憧れの聖樹様を模したドレスを着ていた。
他の小さい子は、魔術師を模した服を着て。
皆で〝魔術師と精霊〟ごっこをして遊んだ。
それを、まるで劇のように眺めて大人達は笑っていた。
ヤヤネにとって、聖樹祭とはそういうものだ。
そして裾になってからは、領主の隣で領民をもてなす側だったり、首都の聖樹祭の様子を見学したりしたが、領では持ち寄っていたご馳走が、首都では出店になってるくらいの違いしかなかった。
だから、その時のヤヤネは、〝そういうもの〟と信じて疑わなかった。
疑う要素を、知らなかった。
「わたしで…勤まりますか?」
シビィは、ヤヤネの言葉に、いつものように笑った。
「勿論です。
ヤヤネ様、あなた様は魔術師の裾様なのですから」
「私は…草と土の裾で…両方とも、あまり強くありませんが…」
「風と火の方や、水と草の方、他に〝派生〟の方々もいらっしゃいますよ」
ヤヤネの胸はもう、期待でいっぱいだった。
聖樹祭はいつも楽しい。
その楽しい聖樹祭を、魔術師の裾である特権で更に楽しめるのかと思うと。
聖樹祭の前夜のように、畑の仕事を早く終わらせようとする当日の午前中のように、なんだかそわそわしてしまう。
焦るような気持ち。
でも、不快なものでは一切ない。
「私と…同年代の人もいますか?」
ヤヤネは裾になって二年経つが、この魔術師協会で会う裾はヤヤネより年上か、幼すぎてまだ魔道具を渡されていない子供しか見た事がない。
そもそも裾に会う事さえ珍しい。
ただ、ヤヤネと同年代の子も少なくないとは話に聞いていた。
「ええ。
確かあの方は…ヤヤネ様より一つ年上だったかと記憶しております。
それに、多少歳が離れますが、若い…まだ子供と言って差し支えない方々も御参加の返事を頂いております」
ぱっ、と、ヤヤネの顔が華やいだ。
同じ領内にはヤヤネと同年代の子も居るが、村には居ない。
そして、同じ裾で同年代の子と会うのは初めてだ。
ヤヤネは、友達になれるだろうかと、やはりそわそわとした。
男か女かと聞こうかとも悩んだが、どちらでも良いという気持ちが興奮と共にその悩みを呑み込んだ。
「さ…参加…したい、です…!
あのっ、そのっ、なにか必要なものとかあるんですか?
わたしにも用意出来るものですか?」
「大丈夫ですよ。
特別なものをご用意頂くことはございません。
魔道具と、魔術師協会のコート、後は長旅ですので気替えや他に個人的に必要なものの御用意をお願いしております。
もし必要であればそれらも協会から御用意の支援が可能です。
食事や移動の馬車、泊まる宿はこちらで用意致します」
「長旅…どれくらいですか?」
「二ヶ月から三ヶ月となるかと思います」
「三ヶ月!?」
数週間と思っていたヤヤネは思わずそう叫び、シビィは変わらず笑顔で言葉を紡ぐ。
「全ての領は回れませんが首都から聖樹様へ向かう道のりを、少し遠回りしながら出来る限りの領地にて聖樹様への供物を直接頂き、また、魔術師の裾様方のお姿を領民へお示し頂きます」
つまり寄り道をたくさんするのかと、ヤヤネは感嘆を漏らした。
そして、参加の可否にまた悩む。
数週間であれば、金銭的に問題がないと思っていた。
だが、三ヶ月となると考え直さなければならない。
ヤヤネの食事などの生活費は、その三ヶ月間必要ないとして、計算すべきはタロの費用だ。
食費や、もし世話を誰かに任せるには金銭が要る。
そして他の金額も、と、考え始めた時、ふと思い付いてヤヤネはシビィを見詰めた。
「タロも…連れていけますか?」
「確か…逞牛の、ですか?」
「はい…」
「それは…難しいかもしれませんね…。
移動は馬車か、護衛は騎馬となるので、逞牛とは歩行速度も違いますし…」
ヤヤネは、しゅん、と項垂れだ。
この催しに参加出来そうにない事に、ではなく、三ヶ月もタロと離れなければならない事が急に寂しさを訴えた。
シビィはそんなヤヤネの様子に少し間を置いてから、
「離れる寂しさはどうにもできませんが…その逞牛の、タロくんの食事や世話は魔術師協会で提供が出来ますよ」
「え?」
ヤヤネが顔を上げると、シビィはにこやかに頷いた。
「タロくんはヤヤネ様がご自宅からここまで、定期報告にお越し頂くのに必要な他、ヤヤネ様の魔道具も運ばれてますよね。
つまり、ヤヤネ様の魔術師の裾様としての活動に必要な存在ですから、その管理も、不足があるのなら支援の対象になります。
金銭での援助は致せませんので世話は魔術師協会職員が行うことになりますが、逞牛を含め牛や馬の世話の専門家もおりますから御心配なくお任せください」
ヤヤネは、顔に輝きと陰りを宿した。
聖樹祭に重要な役目として参加出来る喜びと、タロと離れる寂しさ。
何より、タロを見捨てて自分本位な欲に目が眩んだ行為であるような気持ちになって、罪悪感を覚えた。
タロは、ヤヤネにとって一番大切な存在。
幼い頃からずっと一緒に居る。
家族だ。
「適切な運動は行いますが、タロくんにとっても良い休暇になるかもしれませんよ」
シビィの言葉に、ヤヤネはハッとした。
タロは、ここ数年、ほぼ休まず働いている。
ヤヤネが裾になる前は、タロの負担もより大きかった。
勿論、ヤヤネもほぼ毎日働いているが、人が毎日働くのと、動物が毎日働くのは道義が違って思えた。
タロを休ませてあげたい。
だが、裾としての収入だけでは、ヤヤネとタロ双方を養えなかった。
だから、良い機会なのは確かだ。
それが数週間なら。
けれど、三ヶ月。
それはあまりに長い年月で、ヤヤネが何を恐れているのかと言うと。
タロが、ヤヤネを嫌うのではないかという事。
逞牛は頭が良いから、見捨てられたとか、そんな事を考えるかもしれない。
頭が良くとも、三ヶ月後に迎えに来るからゆっくり休んでね、なんて。
そんな言葉は通じない。
タロがヤヤネを懐疑的に見詰めてきたら、ヤヤネはきっと立ち直れない。
もしくは、協会に世話をされた方が快適だと感じたら。
ヤヤネと暮らすより、協会で暮らす方が好ましいとなって、タロが帰りたがらなくなったら。
暗雲のようだった。
太陽すら遮る暗く重い暗雲。
「ヤヤネ様、」
そんな暗雲を、払い除けるではなく、優しく掻き分けてくるようなシビィの声。
「ご無理なさらないでください。
お断り頂きましても、大丈夫ですよ」
ヤヤネは、シビィを見詰めた。
ヤヤネにとって、魔術師の裾という立場は、己を救うものだった。
魔術師の裾にならなければ、タロを養えず、手放さなくてはならなかったかも知れない。
もしタロを手放さずに済んでも、タロばかりに仕事をさせて彼に比べて細やかな事しか出来ない自分を疎んで、暗い日々を過ごしただろう。
ヤヤネにとって一番大切なものはタロだが、魔術師の裾という立場も大切だ。
初めてこんなお願いをされて、報いたいという気持ちも大きい。
だから悩んでいた。
家族と離れるには、三ヶ月という時間は、たったというには長過ぎる。
少なくとも、ヤヤネにとっては。
「保留でも構いませんよ。
他の土の魔術師の裾様にもお声掛け致しますが、御参加くださる魔術師の裾様の数が多い事は歓迎しかありませんから」
ヤヤネは、元気なく返事をした。
保留でお願いします、と。
その後、勉強の続きをして、いつものように魔術師協会の客室で一夜を過ごした。
客室といっても、遠方から訪れる魔術師の裾が宿を取らずに過ごせるようにという目的が主の部屋で、ヤヤネは何度も寝泊まりした流石に慣れたその部屋で目を閉じる。
夢は見なかったか、もしくは起きたと同時に忘れてしまった。
「ヤヤネ様、おはようございます」
魔術師協会に泊まった翌朝、帰り支度を終えたヤヤネにシビィが声を掛けてくれた。
「シビィ先生、おはようございます」
「昨夜はよくお眠りになられましたか?」
「はい!
いつも素敵なお部屋をありがとうございます」
そう頭を下げるヤヤネに、とんでもないと笑顔で手を振り、そしてシビィは笑顔ながらも少し真剣な表情で、
「ヤヤネ様。
昨日お伝えした聖樹祭の件ですが…」
「!」
ヤヤネは思わず、背筋を伸ばした。
昨夜悩みながら眠りに落ちたのに、結局答えを出せなかった問題。
つい、身構えてしまう。
身構えたって、特に意味はないのに。
「昨夜、あの後に確認を致しました。
五年前は私もまだここに勤めておらず…聞き苦しい言い訳ですが…聖樹様へ向かう日程を間違えておりました。
申し訳ありません。
訂正させていただきますと、日程は長くても二ヶ月、早ければ一ヶ月しない程度だそうです」
「えっ?
そうなんですか?」
謝罪として頭を下げるシビィに気にしないでくださいとヤヤネは頭を上げるように促し、更に言葉を続けた。
「一ヶ月しない程度から二ヶ月では…かなり不規則なのですか?」
「聖樹様への道のりで寄らぬ領地からの供物は、直接聖樹様へお供えをするか、ここ魔術師協会本部へ集めて、魔術師の裾様方と共に聖樹様へと向かいます。
ですがどの領地も、欲を言えば魔術師の裾様に直接供物をお渡しし、聖樹様へ運んで頂きたいと思っております。
しかし魔術師の裾様方の労力を考えますと、出来る限り直接のお受け取りは少ない方が良いでしょう。
…けれど、魔術師の裾様の威厳の為にも、その数があまりに少ないのは本望ではありません。
聖樹様へ感謝をお伝えするのが魔術師の裾様方のお役目でもありますしね」
ヤヤネはひとつひとつ頷いた。
魔術師の裾は、魔術師の代行者のようなものとされている。
魔術師の裾が島民に裾としての役目を果たすと有り難がられるが、逆に疎かになると皆の心は離れていく。
現金にも思えるが、人とはそういうものなのだと、魔術師の裾になった時にヤヤネは協会の職員から聞かされた。
魔術師の裾たるもの、過ぎた謙遜や遠慮は信用を失い、慢心や驕りには非難が与えられる。
だから常に胸を張り、矜持と懇篤を持ちなさいと。
あれを言ったのは、クリラだっただろうかと、ヤヤネは頭の隅でぼんやりと考えた。
「皆様の旅路は、そういった都合により変更されます。
中には魔術師の裾様方がここを出立してから、聖樹様へ直接お供えするか、皆様にお渡しするかが決まる領地もあるでしょう。
なので…かなり日程に幅があり、明言出来ずに申し訳ありません」
また頭を下げたシビィに、ヤヤネは慌てて頭を上げるように促した。
「いえっ、シビィ先生、わざわざ確認してくださってありがとうございます!」
ヤヤネは頭の中で、一、二ヶ月という言葉を繰り返し呟いた。
その期間なら、タロを休ませてやる為に預けてもいいだろうかと。
三ヶ月と聞いて悩んでいた身からすると、一ヶ月以上もの期間の短縮は、ヤヤネが危惧する障壁をとても小さなものに感じさせた。
「その……参加したいなと、…思っています…」
ポツポツと一滴ずつ落ちる水滴のように声を出すヤヤネに、シビィの顔がパッと華やぐ。
「誠に有り難いことです、ヤヤネさん」
「あっ、そのっ、まだ…確定でなくても…良いですか…?
ただ、あの、かなり前向きではあるのですが…、」
「ええ、前にも申し上げましたとおり、勿論構いませんよ。
ですが、前向きに検討してくださることが喜ばしいのです」
ポツポツと。
ヤヤネの中に期待と喜びが水滴に打たれた水面のように音を立てて波紋として広がっていく。
表面を薄く、そして広く覆い、不安や懸念を見えなくした。
ヤヤネはそのままシビィと別れの挨拶を交わし、受付のクリラとも別れの挨拶を行った。
そして魔術師協会から外に出ると、門番の一人にいつもの言葉を掛ける。
「少し街の見学をしていくので、もう少しタロをお願いします」
「はい、ヤヤネ様。
お任せください。
お気を付けていってらっしゃいませ」
にこやかな笑顔に一礼して、扉を挟んで反対に立つもう一人の門番にもお辞儀をし、ヤヤネは肩掛けの鞄だけを持って街中へと歩いた。
月に一度は必ず来る首都の街並みだが、毎回でなくとも定期的に目新しい物を見せてくれる。
ただ、今回は街の店々に珍しいものはなかった。
だがヤヤネは村や領地の街では買えないが首都でいつも買う定番と化した生活用品や食物を買いながら歩き、港の喧騒に目を向ける。
そこには、人集り。
そういえば大陸からの船が来ているんだったな、怖い人達だったのではないのかなと。
好奇心のまま、ヤヤネは近付く。
これで人集りがなければ怖かったかもしれないが、あの集まりの中ならば危険が少ないと、勝手に思ったのだ。
ヤヤネは彼らの背中を覗き込むように背伸びをした。
だが、体が小さくまだ子供であるヤヤネがどれだけ爪先を伸ばして立ったところで、大人達の肩より上に視線が通る事はない。
何人かは、ヤヤネに気付き、魔術師の裾である彼女に前を譲ってくれたが、皆が目の前の何かに夢中のようで、ヤヤネの目には中々何も映らない。
すると、
「もう少し、前に行く?」
優しく丸く暖かく、しかし凛とよく通る声色で、ヤヤネはそう語り掛けられた。
ヤヤネが隣を見上げると、すっきりと整った顔立ちの青年が、声色に見合う優しげな笑顔でヤヤネを見ていた。
彼の髪が風で揺れると、青空越しだからかキラキラと光って見えた。
ヤヤネは彼を見詰めたまま、小さく頷く。
いつもなら、ヤヤネは恥ずかしそうに俯いたり、大丈夫だと慌てて両手を振っていただろう。
だが、ヤヤネは彼に見
この自分でも意外な行動は、随分後になって気付いたが。
「ごめんね、みんな。
この子にもよく見えるように、前に行かせてくれないかな?」
彼がそう真っ直ぐ前を向いて告げると。
皆が振り返った。
しかしそれは、バッと音を立てて威圧感のあるような振り向きではなく、風に揺れた花が偶々こちらを向いたような、大勢なのに柔らかな振り向きだった。
そして皆は、ヤヤネに微笑み、お裾様どうぞ、とか、前に行かせてやってくれ、と他の者に言ったりして、ヤヤネは静かに前へ前へと進む。
あの青年は腰を曲げて、片手でヤヤネの手を取り、もう片手でヤヤネが人混みで躓かないよう適切な速度で進めるようにと、優しく背中を支えて押してくれた。
たからなのか、ヤヤネはこの時、足元を見ていなかった。
大人達が自分に道を開けてくれているのは、ヤヤネにとって稀有な光景ではない。
魔術師の裾に道を譲る者は、この島のほとんどだからだ。
それでも、ヤヤネの目の前のこの光景は、なんだか夢のようだった。
まるで、風の通り道を示す草原のように、皆が道を開けていた。
もしくは、地を分ける穏やかな小川の上を歩いているような感覚。
または、ヤヤネと青年が闇の中の蝋燭の火で、周りの皆が蝋燭の周りのぼんやりとした光か。
上手く、言えないけれど、何だか不思議な感覚だった。
そうしている内にヤヤネとその青年は人集りの一番前へと辿り着く。
静かにヤヤネの背中と手から青年の手が離れ、ヤヤネは青年を見上げる。
「あっ、ありがとうございますっ」
青年はやはり、柔和に微笑んだ。
彼の髪がまた、風に流れて光る。
そして、ヤヤネは彼のピアスを見付けて、わぁ…と感嘆を零した。
「ん?」
そんなヤヤネに小さく首を傾げて、どうかしたのかを問う彼に、ヤヤネは久し振りに自分らしい反応を返した。
「あっ、そのっ、…ピアス!
今日の空とお揃いですね」
ヤヤネの言葉に、青年は自分のピアスに軽く触れる。
すると、ヤヤネの言葉を聞いた周りの人々が青年のピアスを見付け、ヤヤネのような感嘆と共に嬉しそうな声を上げた。
「本当だな!
おめでとう!」
「ここまで空の色と瓜二つのピアスなんてそう見ないわ!」
「縁起が良いわね!」
「見れたこっちまで縁起がいいや!
ありがとうよ!」
そんな周りの皆に、青年は笑う。
「ありがとう。
皆のピアスも綺麗な色で微笑ましいよ」
ヤヤネの耳のピアスも、青年の物のように揺れた。
この島で生まれ育った皆のほとんどは、ピアスを付けている。
多少形は違えど似たような形で、色は様々だが全て〝空の色〟を模したピアスだ。
これは、魔術師の着けているピアスを皆が真似ているものだ。
魔術師は、その時の空の色をそのまま切り取ったような色の水晶の結晶のような形の宝石が揺れるピアスをしているらしい。
その為、この島に住む者は生まれた子供に魔術師と同じ形で、その子が生まれた時の空の色のピアスを送る。
そして大人になると、そのままのピアスの者も多いが、自分の好きな天気や時間の色のピアスを買う物も少なくない。
つまり島民のほとんどが、同じ形の違う色のピアスを着けているのだ。
そして、そのピアスと同じ色の空は、その人にとってとても縁起の良いものといわれており、それを見た者にも幸運が訪れるといわれている。
なので彼のように、今の空と同じ色のピアスを着けた者が皆から祝福の声を掛けられる事はよくある事だ。
ただ、そういった注目が苦手な者も居る。
「ごめんなさい…っ、注目をさせるつもりではなかったのですが…」
そうヤヤネは、自分が生まれた夕焼け色のピアスを揺らして青年に言う。
彼は楽しそうに笑ったまま、
「謝らないで。
僕はこういった楽しいことが大好きなんだ」
ヤヤネは彼の屈託のない笑みに安堵した。
すると、人集りの〝元〟中心から咳払い。
その音に、今や人集りの視線の中心となっていた青年から、皆が視線を向けた。
「えー…、それでは、新しくいらっしゃった方も多いようなので、もう一度お見せしますね」
そう笑う二人の男性の内、中年の男性が簡易的なテーブルの上に置かれた箱に注目を集めるように手を乗せる。
ガラス張りのそれの中心には、丸みを帯びたガラス玉と、細いバネのようなワイヤーと、下の方に金属が幾つかあった。
ヤヤネを含め、皆が興味深く眺めていると、もう一人の若い男性は、首から下げた大きな箱に付いているハンドルをグルグルと回して。
その箱が、黄色を帯びた色で輝いた。
それに皆から歓声が上がり、ヤヤネも声を上げる。
パチパチと、拍手も鳴っていた。
「どうですか?
これが〝電気〟というものです。
〝電気〟があれば〝火〟を使わずとも明かりが灯せてるのです」
皆から、曖昧な感嘆が零れる。
「それって…火よりも何か良いのか?」
「もちろんです!
火よりも明るく、煙も出ませんし、火傷や火事の恐れもずっと少ない!
火のように絶えず燃やし続ける資源や労力も要りませんし…、何より革新的でしょう!」
また、曖昧な感嘆。
「その箱のカラクリを誰かが回し続けなけりゃならないんでしょ?」
「いえいえ。
これは電気を発生させる装置、〝発電機〟というものですが、電気を作るのは普通、水車を使うんですよ。
今この島では電気を作る場所…〝発電所〟がないのでこのような人力で行っているだけです」
「水車を?」
「ええ。
きっとこの島にも小麦を挽いたり、木材の加工の為に水車をお使いではありませんか?
そういった水車に少し部品を足せば、発電所となるのです」
今度は、少し明確な感嘆が上がる。
「とても便利なものです。
我々〝新生宗教〟はこのような技術を多くの方に知って頂きたく、ここまで海を超えて伺ったのです」
皆が、顔を合わせる。
「…〝新生宗教〟?」
「はい。
我々は新生宗教の宣教師です。
我々はこのような技術と共に、我らの信奉するものの素晴らしさを皆様に説いて回っているのです」
ヤヤネは辺りを見回した。
人集りの皆は、全員が微妙な表情を浮かべていた。
子供が絵本の世界を断固信じて悪意なく役に成り切り、その対応に困っている時の大人の表情に似ていた。
「あー…、その〝宗教〟ってのに入らなきゃ、電気は使えねぇってことか?」
すると、宣教師の彼らは静かに首を横に振る。
「いえいえ、そんなことはありません。
ただ、そういった叡智の技術には我らが〝新生宗教〟の神、〝アウルエイオ様〟のお導きの賜物によるものなのです」
また、曖昧な感嘆。
そんな皆の反応に、少しずつもどかしさを溜めていた宣教師達は、最前列唯一の子供であるヤヤネに目を向けた。
「どうだい、お嬢ちゃん。
すごいだろう。
まるで魔法みたいで」
話し掛けられると思ってなかったヤヤネは驚きに直ぐに返事が出来なくて。
人集りの皆の反応が、あからさまに変様する。
「この方は〝お裾様〟だ!
失礼な物言いをするな!」
「魔法って魔術を指す大陸の言葉だろう!
魔術師様に対する侮辱だ!」
「お裾様に向かって、そんなカラクリを魔術と騙るなんて…!」
先程とは違い喧騒が刺々しく、宣教師の彼らは焦りを明らかに狼狽えていた。
ヤヤネは騒ぎを落ち着けようとしたが、〝魔術師の裾〟であるヤヤネが、彼らの言動を〝気にするな〟と言う事は出来ない。
何故なら、彼らの言動は確かに魔術師とその裾を侮辱するものであり、それを魔術師の裾であるヤヤネが簡単に許すという事は、魔術師の裾〝全体〟が許すという事になるのだ。
それは出来ない。
この島にとって魔術師とは、彼らの言う〝神〟でなくとも、大切な恩人であり、大切な隣人なのだから。
魔術師や聖樹への侮辱の怒りは、家族や親友を侮辱された時のものと似ている。
この場が収まる一番良い方法は、知らなかったとはいえ彼らが己の言動が過ちだったと察し、謝る事だ。
だが、彼らは困惑し、言い繕うばかりで謝罪をしそうにない。
この場に置いて、ヤヤネは最も幼いと同時に最も高位な為、自分がなんとかせねばと焦るばかりだったが。
パンッ!と。
たった一度の、手を叩く音。
耳を劈くようなけたたましさはないが、良く通る音。
ヤヤネの隣に立つ青年が、その声と同じような音で手を叩き、その事にここの喧騒が直ぐに止んだ。
宣教師を責める声も、魔術師の裾を気に掛ける声も、宣教師達の言い訳も。
そして青年は、あのにこやかな笑顔のまま、言った。
「大陸から来た君達。
彼女は〝魔術師の裾〟という、この島でとても大切な役職に就いている子なんだ。
島の皆が、彼女と彼女のような〝魔術師の裾〟という存在を大切に想っている。
それと、この島では〝魔術〟の認識が君達の大陸とは違うんだ。
この島の皆は魔術のことも、とても大切に想ってくれている。
だから…君達の言動に引っ掛かりを覚えたんだ。
君達も、自分達が大切に想うものをぞんざいに扱われたら嫌だろう?
今は、君達は来訪者だ。
取り敢えず、彼らの気分を害したことを謝罪して、弁明はそれからした方が良い」
青年の声色は、穏やかだった。
そして、その場の空気をその色に染めるような、そんな声色。
宣教師達は少し、もごもごと口籠りながら人集りに謝罪を述べた。
その謝罪に人集りの怒気も落ちる。
宣教師達はバツが悪そうに見世物を取り止め、言い訳のような、謝罪のような言葉と共に寄港してある船へと帰って行った。
ヤヤネは何も出来なかったが、静かに頭を撫でられて隣を見上げると、
「大丈夫だった?」
「あっ、はいっ!」
優しい青年の声に頷くと、彼は微笑んだまま、
「君が〝魔術師の裾〟だろうと、百年生きていようとも、ひとりで何も
「!」
ヤヤネは、青年を見上げた。
彼の微笑みを一切崩さないが、それに無理矢理さや胡散臭さは一切なく、まるで美しい花々や人懐っこい動物、愛らしい赤ん坊を見詰めている時のような、自然な笑顔を浮かべている。
「そんなに、責任がどうとか、考え過ぎないでいいよ。
他者に君の真意が伝わらなくても、君が悪意なく、善意で放った言葉なら時間が掛かろうともちゃんと伝わるはずだ。
それに君には、君の善意を知っていて、君の言葉や行動の真意を伝える為に力を尽くしてくれる友達がいるはずだよ」
「友達…」
「魔術師協会の子達とか、君の笑顔を知る者達とか、」
ヤヤネは、瞬きをした。
魔術師協会の皆を己の〝友達〟と数えた事はなかった。
だが、もしヤヤネが失言をすればその対応をしてくれるのは確かだろう。
ヤヤネは曖昧ではなく、一つはっきりと頷いた。
彼には妙な説得力のような、善意だけで話す憎めない幼子のような、変わった雰囲気がある。
彼に慰められたり勇気付けられると、呆れる程に単純に心が晴れやかになって。
ヤヤネは、父親のようだと、ヤヤネと父と考えるには若く見える青年を見上げた。
彼の空色のイヤリングは揺れていて、日の光を帯びて輝く髪も揺れている。
すると、ヤヤネの横で女性がヤヤネの顔を覗くように腰を曲げて話し掛けてきた。
「お裾様、大丈夫でしたか?」
「え?
…あっ、はい!
場を、上手く収められなくてすみません…」
そうヤヤネが言うと、少しキョトンとしてから、ヤヤネの声が聞こえていた皆が晴れやかに笑う。
「あらやだ、お裾様の心を揉ませてしまったなんて!」
「そんなこと気にしないでくだせぇ!
ああいうのは大人の俺らが諌めるべきだったのに……。
大人気なく、ついつい熱くなっちまって…」
「お裾様、恐ろしくなかったですか?
あの大陸の者達だけでなく、大人達が騒いだんで驚いたでしょう」
「おーい!
誰か、俺の店先から果実焼き持ってきてくれ!」
「ああ、そりゃいい!
お裾様、こいつの店の果実焼きは心をほっと落ち着けてくれるんですよ!」
「大丈夫、この強面は仕入れだけで、調理はコイツに似てない美人の娘さんがやってるんで」
わはは!と、今や人集りは喧騒や怒気ではなく、笑い声で騒がしい。
そして三十秒も掛からずに本当に果実焼きがやってきて、ヤヤネの前に爪楊枝が刺さった果実焼きが、色鮮やかな果実が描かれた紙皿に盛られて差し出された。
ヤヤネだけでなく、この人集りに居た他の子供達全員が果実焼きの付いた爪楊枝を持っていて、大人達も欲しがった者達の手にそれが渡る。
ヤヤネは勧められるままに果実焼きの一つを手にして、それを頬張った。
まだほんのり温かく、その温かさ故に果汁が、じゅわっ、と頬の内側に染み渡る。
「おいひい!」
「おお!
そりゃ良かった!
草のお裾様にウチの果物焼きを褒められるなんて、ばあさんが聞いたらひっくり返っちまうぞ!」
ヤヤネは照れたように笑う。
ヤヤネは草と土の魔術師の裾だが、草の魔術の方が僅かに強い。
そして魔術師の裾が着用するコートには、その魔術師の裾がどの魔術を操るのか分かるように紋章が左胸と背中に刺繍されていて。
ヤヤネのコートには、草の魔術師の裾である証明の、花の紋章が刺繍されていた。
暖かな皆の空気で肌を温め、温かな果実焼きでお腹の奥を温めた。
そしてヤヤネは、終始世話になった隣の青年に礼を言おうと見上げて、
「あのっ、…あれ?」
彼は、そこに居なかった。
(なぜ、)(気が付かなかったんだろう)
魔術師の裾 竜花美まにま @manima00
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