オーパス11

水原麻以

君島沈埋都市

その日、その瞬間。

男の指先には数百、数千の視線が集まっていた。

誰しもが人生で注目される機会を三回持っているという。誕生と結婚と臨終の時だ。それ以外のチャンスに恵まれる人もいる。だが、今ここで肌寒い雨に濡れて身を寄せ合う人々は幸福だと言えるのだろうか。震える手には番号札が握られている。


縋るような、責めるような、憎むような、恋するような十人十色の思惑が四方八方から降り注ぐ。待ち行列にいら立ちや焦りが混じり始めた。

男は迷っていた。厄介の種を解き放つべきか、否か。

だが選択の余地はない。約束の時間は37秒過ぎている。

心拍が肋骨を揺るがしみぞおちが溶けた鉛のようだ。突き刺さる視線から顔を背け、重い

唾を飲み下す。

最前列が一歩前に踏み出した。もう逃げられない。

男は覚悟を決めた。すうっと息を吸い、肺を振り絞る。

「只今より開始します!」

叫んだ。

ふっ、と静寂が彼を包んだ。ざあっと土砂降りのように人影が、整理券が、商品が周囲を駆け巡る。

そして意識に幕が下りた。


ジリジリとうなじが焼ける熱で目が覚めた。ベッドの半分は蒸れていて、掛け布団がわりに日光が横たわっていた。


晴れているのにみぞれの音がする。

    

見回すと海鳥がガラス窓を激しくついばんでいる。

「起きたのならフロアを片付けて」

ひび割れた声が天井から降ってくる。やるせない気分で靴を履く。足跡だらけの紙が散らばっている。ロフトから螺旋階段を降りる間に目を覆いたくなるような惨状を把握した。

「ポカンと呆けてないで手伝ってよ 馬鹿幼児!」

エプロン姿の少女が腰に手を当てている。

「多賀洋治だ。にしても、どうすんだコレ」

焼け崩れた陳列棚や穴だらけの床に踏みつぶされたパンが転がっている。

黒商人ブラックセラーに負けたアンタの責任でしょ」

少女は怒り心頭で店を出ていった。

「おいっ、里奈! 待て、おい!!」



世界が水と油に別れてから十年が経った。

カタリナ群に属する近傍天体が南氷洋に落着し莫大な有機物が流出した。その影響で降りやまぬ雨が地球を毒している。

大陸は裂け、わずかに残った島嶼部と沈埋都市に人々がしがみ付いている。

希少な水と乏しい食料と補完栄養素オーパスレイヴン(通称11番)が命をつないでいた。

健康を保っているとはとても言えない。

11番は油と汚水にまみれた土壌に気の遠くなるほどの再処理を繰り返して得られる。ゆえに限定生産品である。慢性的なミネラル不足から来る病気が社会を蝕んでいた。

    

配給制度はとうに打ち倒され冷酷な市場原理が11番の流通を支配している。

多賀洋治と里奈は両親が遺した店を護るために経営権をシンジケートに譲った。しかし彼らに11番の優先購入権はない。僅かな引換券を顧客と奪い合う毎日だ。

「君島市は賠償してくれないわ」


里奈は修理費を洋治の生活費で賄うという。洋治は頭を抱えた。それもこれも黒商人のせいだ。彼らは場末の雑貨店にまで列を成し、開店早々に購入権を掻っ攫う。

対抗策として各沈埋都市は抽選販売制を導入したが焼け石に水だった。乏しいはずの栄養素はある局面においては掃いて捨てる程の塵芥に成り下がった。

君島市は身を寄せ合って然るべき沈埋都市のうちで特別な繁栄を約束されていた。

金の力である。文明的な進歩より経済発展を優先させる機運が街全体にみなぎっている。

もともと大陸棚の深海熱水掘削プラットフォームとして建設された。いくつかの水脈を掘り当て、栄養豊富な熱水とそれに蝟集する棲息物が喫緊の食糧難を解決すると期待された。

その途上で後世に夢のサプリと謳われる補完栄養素「第十一番試作オーパス黒夜鴉レイヴン」が発見された。

近傍天体ガモンの落着で地球の食物連鎖が完膚なきまでに破壊された後、11番が人類の生殺与奪権を握っていた。

    

試作プラットフォームを巡って血で血を洗う争いが繰り広げられ、最終勝利者が君島市を創設した。

都市国家ながら世界有数の経済大国となった君島市は欲望と脂肪と陰謀を金という秩序で縛り上げた。

そして豊かさとは貧困の強制を格差の壁で隠すことであるから、当然ながら反発が起きる。考えうる限りの闇市場が開拓された。

人間は生きることに固執する動物だ。誰だって自分や家族がかわいい。合法非合法を問わず、必ず衣食住のうち食を充足させたい欲求がある。

炭水化物と水、そして蛋白質は暴動が起こらない程度に行き渡った。君島市の食料自給率は10割に近く、その大半が化学合成で賄われる。

健康に必要な微量元素、例えばセレン、バナジウム、モリブデンなどは海水から得がたい。調達に関する困難な諸問題を一気に解消してくれる魔法の成分が黒夜鴉。

すなわちコードネーム11番である。

黒商人たちは補完栄養素オーパスレイヴンをそのような隠語で取引した。


「お一人、一枚。先着十名様を周知しろなんて無理ゲーすぎるだろ」

洋治は木っ端みじんに砕けたショーウィンドウを二時間半かかって片付けた。

「幼稚園児みたいな言い訳を並べないで」

    

里奈はロフトで机に向かって罵詈雑言を浴びせている。店の守護神であるはずの洋治、転売を規制しようともしない君島市当局、そして店を荒らした黒商人たちが相手だ。

眉を吊り上げながら請求書を書きつづっていく。

「そんなもの、何の意味があるんだよ。つか、少しは手伝えよ」

螺旋階段のふもとで洋治がモップを握っている。

いきなり里奈と目線が合った。

「うっさいわね。キャッ」

彼女はついうっかりスカート姿のまま階段の踊り場に踏み出してしまった。

「押えても意味ねーよ」

洋治は咄嗟に視線を外す。

「見たでしょ!」

「見てねーよ。それに『しっかり』ガードしてんだろ?」

「ぶ、ぶ、ぶ、ぶるまーだって恥ずかしいものは恥ずかしいんだからネッ」

みるみるうちに赤くなる里奈。その恥じらいがかわいい。

トロンとした瞳が閉じて、糸が切れたように崩れ落ちる。

「減るもんじゃねーだろ! っておい?」

反射的に洋治は階段を駆け上る。そして、彼女の身体をがっしりと受け止めた。

身体が異常に冷たい。トクトクと速い脈拍が伝わってくる。女子の頻脈は主にホルモンバランスの乱れや自律神経の失調が原因だ。ストレスの影響もある。

確かに彼女にとって両親の形見ともいえる店をマナーの悪い客に破壊された結果は相当なものだろう。多賀家の生れでない洋治にとっては金で解決できる問題だった。

    

その辺の温度差も彼女のいら立ちを募らせる要因だったのかもしれない。いや、それらもあるが直接的な元凶に洋治は思い当たった。

「やべーぞ。ビタミンB欠乏症だわ」

彼は義姉を御姫様だっこしたまま裏庭へ運んだ。二人乗りの電動ドローンが駐機してある。里奈を後部シートに横たえ、コンソール画面を叩いた。

行先は君島市立中央病院だ。補完栄養素オーパスレイヴンはなかなか手に入らない貴重品だが緊急時は優先的に処方してもらえる。

それもこれも黒商人が蔓延っているのが悪い。予約サイトにつながった。診療費の概算見積もり額は見ないことにした。あとで里奈に大目玉を食らうだろうが躊躇する場合ではない

事前決済が促されるままデータストリームケーブルを後部座席まで延長する。里奈のスカートを太腿の半分まであげると膝小僧が見えた。そこにダンゴムシの背中そっくりなデキモノがあってマイクロチップが埋め込まれている。ハンドルを握ったまま通行料をスムーズに取引出来るように保安条例で定められている。初診料、緊急外来手数料、補完栄養素実費に病院までの交通費が加算されて目玉が飛び出る額になる。確認音が鳴ってダクテッドファンが回り始めた。



「ねぇ。海鳥アルティスは何を食べて生きているんだろう?」

    

コツコツと窓をたたく音で洋治はまどろみから覚めた。里奈はベッドに横たわったままじっと天井を見つめている。

「起きたのか? 具合はどうだ? 少しは楽になったか?」

洋治は矢継ぎ早に彼女の体調をうかがった。しかし、里奈は非現実の世界に生きていた。義弟の気遣いなどより海鳥の生態を心配しているようだ。

それが即物的で常に現実を意識する男たちをイラつかせるのだろう。

「んなことよりテメーの身体を気にかけろ。入院費だって馬鹿になんないんだぞ」

洋治が膝をコツコツとぶつける度に壁の金額が点滅する。

「ねぇ! わたしの話を聞いてるの?」

彼女は会話をはぐらかす義弟に腹を立てた。里奈がいったん噴火すると始末に負えないことは誰よりも身に染みている。

洋治はしぶしぶ話し相手になってやることにした。これだから女の子はややこしい。

「俺も前から気になってはいた。ガモンが南極に落ちて生態系がメチャクチャになった。深海魚とプランクトンはいくつか生き残ったらしいけど。ヘドロじみた油がプカプカ浮いてるのに、よーやるよ」

彼はどうでもいい話だという風に窓を見やった。

「あなたはそうやっていつも一歩引いた所に浮かんでる。わたしの事なんかこれっぽちも気にならないんでしょ?!」

    

里奈の感情を逆なでしてしまった。これだから女はややこしい。真面目にリアクションしたらしたで機嫌を損ねる。それにだいいちアルティスが主題なのか彼女自身を話題の中心にして欲しいのかわからない。

女こそ浮世離れした存在だ。

洋治は苦虫をかみ潰したような顔をした。

「アルティスはあぶくでも食ってんじゃねーのか。それとも俺達があずかり知らない所で新種の生き物が繁殖してるのかもな。あのキモい脂ん中に餌があるのかも。とにかく自然の摂理はしぶといよ。100度近い熱水で生きる生物もいるって話じゃないか」

彼は乏しい知識を総動員して姉の話し相手を務めた。

「そんなのどうだっていい! わたしは何のために生きているんだろう?」

里奈は頭を抱えて布団に潜り込んだ。どうやら壁際の金額を見てしまったらしい。修理代と治療費で店の経営が傾くことは間違いない。

「存在理由とか人生の課題とか宙に放り投げたまま、俺達は多忙な日々を送っているのさ。ところが何か問題が起こって現実から解放された途端に、抽象的な概念に埋没してしまう」

「あなた! わたしを馬鹿にしているの? 真面目に答えて!」

激しい口調で洋治の言葉が遮られた。自律神経失調症がもたらす情緒不安定だ。薬局が出してくれた11番は効いているのか。彼は一抹の不安を感じた。

「ぶっちゃけた話。店を潰さないことだろ」

洋治はよろよろと立ち上がった。

「どこへ行くの?」

    

「店に決まってるだろ。様子が気になるし、着替えとか洗面道具とか色々要るだろ」

「わたしの請求書は?」

「んなもん、どうすんだよ。まさかここで続きを書くつもりか?」

「そうよ。ほんっとうに気が利かない子」、と里奈。

洋治は後ろから鉄砲を撃たれるような気分で病室を出た。ナースステーションに寄ろうとしたが灯が消えていて誰もいなかった。

面会時間が終わるまで五時間はあるし、規定により誰か一人は常駐する義務があるからだ。

それでも彼は立ち止まって声を張り上げた。

「すみませーん。多賀里奈の親族の者です。本人に書き物させていいかどうか御判断をいただけますでしょうか」

ひっそりと静まり返ったコーナーはどす黒い死の息遣いが滞留していて、不気味な単眼が今にもこちちらを睨みつけそうに思えた。

「すみま……ひっ?!」

カウンター越しに身を乗り出した瞬間、見てはならないものを見てしまった。同時に冷たい感触がうなじに突き付けられる。

「お前も『ああ』なりたいか?」

「だ……」

誰何する前に焼けつくような痛みと痺れが襲ってきた。



香ばしい臭いと何かが焼ける音で目が覚めた。眩しい光に目が慣れると少しずつ状況がわかった。

    

部屋はありがちな廃墟ではなくフローリングの床に食器棚やクローゼットが並んでいる。ごつい筋肉質の男がフライパンを振っていた。

金髪のくせ毛が肩まで伸びでいる。

「看護婦を殺ってお前を助けた理由がわかるか?」

彼は引き締まった尻をこちらに向けたまま棚に腕をのばした。刺青だらけの指が瓶をつまむ。ネットでしか見たことのないラベルだ。

「り、里奈に手を出すな!」

洋治は手錠を外そうと悪あがきした。体中が鉄で出来たように重い。おまけに力が入らない。

「返事しだいで救出に手を貸してやるし、見殺しにも出来る」

男の正体は判らないが少なくとも敵ではないようだ。

「救出? どういうことだ。里奈が誰かに捕まった?」

洋治の前髪がグイっと引っ張り上げられた。傷だらけの顔と対面する。

「頭の血の巡りが悪い奴だな」

彼はオーパスレイヴンの袋を洋治の前にぶら下げた。医療機関向けのパッケージだ。反射的に成分表が目に入る。

産地偽装や粗悪品かと思ったが普通だ。基準値は満たしている。

洋治は肩をすくめた。「よくある見え見えな偽物かと思ったぜ。安いサスペンスドラマの伏線じゃあるまいし」

すると男が怒鳴った。

「馬鹿が! もういっぺん目を皿にしてみろ」

「何だよ」

何を見落としたのだろう。洋治は脳裏にある法定基準値と成分表を照らし合わせてみた。ケイ素とアルミニウムの比率が多い。

    

これは土壌汚染に拠るもので特段の事情ではない。注目すべき点はもう一つあった。

「セレンか?!」

「やっと気づいたか。含有量は一応クリアしている。だが、混ぜりゃいいってもんじゃないだろ」

セレンには抗酸化作用がありビタミンE欠乏症を解消する。しかし過剰摂取すると肝機能障害や知覚過敏などの副作用がでる。

「セレンだけじゃない。クロムや水銀とか却って毒になるほど入ってる」

洋治はまじまじとパッケージを眺めた。しかし、どこか引っ掛かる点があるらしく、彼は語気を強めた。

「それで俺の正義感を煽って手駒にしようってか。悪いがその手には乗らん。お前の得体の知れないし、そもそも成分表記の齟齬なんて誰かがとっくに気づいてるだろ」

彼はすばやく男をプロファイリングした。君島市民病院の患者家族、もしくは関係者だ。誤診で親族を失ったか腐敗した組織で不遇をかこっている。あるいはその両方かもしれない。

医は仁術という。命の大切さを知っている医療関係者が銃を取るなんてよっぽどの事情だ。義憤に駆られてなんて単純な動機で人は殺せない。それにどうして自分の素性をこの男が知っているのか、謎だらけだ。

    

「ああ、業界関係者の目は節穴じゃない。俺は出入りの営業マンだ。最悪なエリアを押し付けられたんで業績を回復して見返してやったら疎まれた。それで市民病院へ栄転とばされた。院長もひっくるめてそのパッケージの件は職員全員が共有してる。だが、もろもろの優遇措置に首まで漬かって誰も御上に逆らえないでいる。それで俺がスケープゴートに選ばれた」

男は一気に捲し立てた。

「それで何を言われたんだ?」

「屋上に呼ばれて柵を越えろと要求されたよ。営業マンの一人でもいなくなれば事態は動くだろうと院長が」

「古臭い筋書きだな。で、アンタは拒否ったんだろ?」

「俺は三日前にバックレた。そしたら静かで苛烈な報いが来た。黒商人認定だ。会社が通報しやがった」

「トカゲの尻尾きりか。これまたありがちな境遇だ。で、ねーちゃんとの接点は?」

洋治が追求すると男は済まなさそうな顔をした。

「多賀里奈の名前はブラックマーケットで知った。冤罪を晴らすより生活を改める方が楽だからな。彼女、けっこう警戒タゲられてる。待ち行列の素行不良をまとめて抗議行動を目論んでいたろ」

男はそういうと、壁を蹴った。マイクロチップに反応してウインドウが積み重なった。

そこには里奈の怨念が渦巻いていた。雇ったホームレスや同業者を並ばせたりは序の口だ。買収してオーパスレイヴンの入荷予定を漏洩させるとか、仕入伝票を偽造するなんて可愛い方だ。共犯者の音声や証拠写真など悪事の限りがぎっしりと詰まっている。

「この野郎。ワザと泳がせてたのか?」

洋治は怒りをあらわにした。

    

ばらされなかっただけでもありがたく思え。おかげで当局やつらの尻尾を掴んだ」

「虎の尾じゃないのか?」

「それはお前の協力しだいだ」

「何だと?」

「善悪の基準を変えるんだな。お前は何のために生きている?」

急に男は命題を振ってきた。

「俺は里奈のために生きている。かけがえのない家族だ」

洋治はきっぱりと言い放った。

「つまり血のつながらない赤の他人に盲従しているのか? 自分の信念を押し殺して?」

「血縁者であろうと無かろうと人は孤独じゃ生きられない。家族の幸福を第一にして何が悪い!」

青臭い台詞を男は鼻先で笑い飛ばした。

「道徳の教科書丸写しの価値観だな。単なる受け売りだ。それは信念とは言えない。俺には確たる目的がある」

「ダークヒーローを気取りやがって、オッサンよう。あんた生涯独身者だろ?」

「カシュールだ。妻も娘も三日前に亡くした」

えっ、と洋治は言葉を詰まらせた。

「俺が飛ばなかったから、代わりに昇天とんじまった」

カシュールはがっしりとした肩を震わせた。

男泣きを洋治は白けた気分で聞き流した。そして天井の一角を睨みつける。

「レベルの低い学芸会だ。ていうか、これ中継されてるんだろ?」

換気扇のLEDがピタリと点滅をやめた。カシュールは押し黙ったままだ。

    

「俺たち姉弟を導火線にして市当局と黒商人の戦争を巻き起こす。それって誰得なんだ?」

「参ったな」

カシュールは半べそをかきながら洋治の手錠を外した。

「よくもまぁ、こんな恥ずかしい脚本を書いたもんだ。発案者の顔が見たいぜ」

「ごめん!」

聞き覚えのある声が背後から謝罪した。



「トーストとコーヒーがすっかり冷めちまった。卵はスクランブルか、サニーサイド、どっちだ?」

カシュールがフライパンを片手にオーダーを募った。

「目玉焼きだって? 本物の食材かよ?」

洋治は文字通り目玉が飛び出しそうになった。ガモンが地球に落ちる前、当たり前のように供されていた鶏卵だ。洋治は幼いころの記憶しかない。

しばらくしてアツアツの料理がテーブルに並んだ。低蛋白高カロリーの代用食、そしてオーパス11に馴染んだ舌が仰天した。

いったい泥と油の世界のどこで天然の食材が獲れるのだろう。洋治は疑問を脳裏に押し込めたまま胃袋を満たす作業に集中した。

点滴を受けていた筈の里奈は打って変わって元気な様子だ。

「大根女優」

すかさず義姉を揶揄すれば「馬鹿洋治」とお決まりのリアクションが返ってきた。

洗いざらいぶちまけられた真相によれば、里奈は情報収集を続けるうちに癒着の沼にはまり込んでしまった。

    

黒商人と正規の補完栄養素流通プロバイダーは自家撞着の関係にあり、証言者を通じて背後の闇に感染することは避けられぬ運命だった。

よく命の危険を冒して証言台に立つというが、勇気ある行動は法の裁きを少しでも免れたいという臆病に支えられているものだ。

こうして知らず知らずのうちに里奈はブラックマーケットに取り込まれてしまった。

「虚構と現実の境界線をはっきりさせよう。どこまで?なんだ?」

洋治は姉に詰め寄った。

「あたしの体調不良は本物。院内処方されるオーパス・レイヴンは正真正銘の粗悪品ニセモノなんだけど、アルティスの反応が本物かどうか知りたかったの」

海鳥アルティスって一体何なんだ?」

困惑する洋治にカシュールが噛み砕いて説明した。

油にまみれた海上を自由奔放に飛び回るアルティスは一歩先に環境適応を済ませたらしく、空腹を抱えた人類を高みからせせら笑う。

「要するにアルティスと欠食患者の因果関係を調べる為にわざわざ危ない橋を渡らせたのか?」

一歩間違えれば大切な姉を失っていた。洋治はカシュールを殴りつけた。その拳を余裕で跳ねのける。

「彼に非はないわ。わたしが命を張ったの。病院は独自にデータを集めていたはずよ。ただ、特定条件下で調整された検体はサンプリングされてなかった。患者の個人差や体調はまちまちだもの」

    

「襲撃した際に里奈と病院側のデータを回収した」

カシューが剛毛渦巻く膝を披露した。

「そんなもの見たくない。アルティスについて教えろ」

洋治が吐き気を催した。

「あれは鳥なんかじゃない。親しみやすい形をした異物なにかよ」

里奈はじっと皿を眺めていたが、サニーサイドアップに箸をつけようとしない。

「何を思いつめているんだ? 温め直そうか?」

洋治が取り替えようとすると、里奈が激しく拒絶した。

「近寄らないで! わたし、わたし……ううっ!!」

所をわきまえず、胃の内容物を戻し始めた。「おいっ」、とカシュールがタオルをあてがう。それすらも彼女は力強く跳ねのけた。

「何か卵にトラウマでも持ってるのか?」

「アレルギーの心配はない。タオル、貸せよ」

洋治が代わりに吐瀉物を片付ける。その間にカシュールが里奈をベッドに運ぼうとして平手打ちを浴びる。

「院内でヤバい検体でも見たのか? ほら、よくあるだろ。びっしり並んだ水槽」

義弟の質問に里奈は激しく首を振る。

「襲撃した時に俺も実験施設や標本の類は確認できなかった。だいたい、すぐ見つかるような場所に置くかよ」、とカシュール。

    

「医療機関だからこそ検体の間近に設置するかもな。そうでなきゃ作業が捗らないだろ。つか、『アルティスとは何ぞや』の答えはまだかよ」

洋治は義姉の汚物をモップで片付けていたが、急に手を休めた。腰を屈めてつぶさに観察している。

「カシュール。ここに量子光学式成分解析機クロマトグラファーがあるか?」

「黒商人の必需品だが? 何か気になる点でも?」

「いいから、貸せ」

差し出された端末を奪い取るようにして向ける。すぐさま結果が壁に投影された。そして彼はしばらく考えたあと、眉間にしわを寄せた。カシュールも穴が開くほど壁を見つめて唸る。

「ほう。やっぱりセレンか」

「ああ、言うまでもなくセレンは魚介類の内臓に多く含まれる。その含有量が最も多い部分は卵だ」、と洋治。

「それだけじゃない。こっちのグラフを見てみろ」

カシュールが放射性同位元素の含有率をクローズアップした。イリジウムの比率が突出している。

「地球上のイリジウムはだいたい隕石に由来する。高温耐酸化性に優れていて摩耗にも強い。それにセレンだ」

「二酸化セレンは腐食剤だ。これがお前さんに対する回答だ」

カシュールは覚悟を促すような視線を向けた。

「そ、そんな…ああ、そんな……」

洋治はおぞましい現実に頭を抱え込む。

義姉やっこさん、何か言ってなかったか?」

    

「ああ、里奈はアルティスの餌をやたらと気にしてた」

「やっぱりな」

カシュールは冷めたコーヒーをカップに注いでぐいと飲みほした。

「そんな、里奈まで、そんなことってあるかよ!」

洋治の目は落ちくぼんで頬がげっそりとやつれている。よほどショックだったのだろう。カシュールは来るべき、そして避けられない激動に彼が耐えられるか不安を感じていた。

「いいか。お前の義姉に降りかかった不条理を理不尽だと突き放すか好機到来と捉えるかお前の信念しだいだ」

カシュールの後頭部にコーヒーカップが命中した。

「黙って聞いてりゃ、他人事みたいに言いやがって。独り身になった奴は気楽だよな。里奈はたった一人の家族なんだ!」

「俺にとっても『たった二人』の家族だったよ。『何で俺が?』と俺も不条理を恨んだよ。わずか三日前のことだ。そういうわけのわからない不条理には信念で抗うしか無いんだ。目には目を、抽象には抽象だ」

黴臭い哲学を振り回すカシュールに洋治は醒めた視線を向けた。

「それがあんたの信念か?」

「そうだ。逆にいま一度問う。お前の信念とは何だ?」

カシュールは引き出しをまさぐって黒光りする鉄の塊を取り出した。カチリと撃鉄が鳴る。

「決まっているだろう。里奈だよ」

    

バアン、と銃声が響き渡る。割れたコンクリート片が洋治の足元に降り積もった。

「自分専用の信念を持たず、ただただ親兄弟に依存して生涯を終えるのなら、生きていてもしょうがないだろう?」

カチリと金属音。

「気に入らない人間は容赦なく始末するってか。それもお前の不条理しんねんか?」

洋治は声を震わせる。

「そうだ。俺は家族を殺された瞬間から大局観に目覚めたのさ。お前に正しい理解と想像力があるのなら、持つべき信念はすぐ見つかるはずだ」

銃口を向けられて洋治の大脳が目まぐるしく回転した。

自分に突き付けられる言葉は里奈に向けた物ではなかったのか。

里奈との会話が内耳に残響する。何度も何度も胼胝ができるぐらいに。

『そんなのどうだっていい! わたしは何のために生きているんだろう?』

『存在理由とか人生の課題とか宙に浮いたまま俺達は多忙な日々を送っているのさ。ところが何か問題が起こって現実から解放された途端に、抽象的な概念に埋没してしまう』

自分が生まれてきた目的や理由はわからない。

だが、いまこの瞬間に、どう生きるべきかは自由に選択できる。

沈埋都市の陰で蠢いているらしい凶悪な問題を解決するためではないのか。

「どうやら理解できたようだな」

    

無意識に自問自答を呟いていたらしい。カシュールがうなづいた。

洋治は舌打ちした。

「わかったよ。わかったからいい加減に銃をおろせ。ところで『死人が出れば事態が動く』とか言ってたよな。それも創作か?」

「いいや。院長はマジだ」

カシュールは顔をしかめた。思い出すのも嫌な様子だ。

「つまり、いやいや動いていた。動かされていたってか。黒幕は誰なんだよ? カシュール。 尻尾を掴んだんだろ?」

「市民病院に圧力をかけられる勢力は限られている。企業か行政だ。俺もオーパスレイブンの供給元を真っ先に疑った。だが流通経路の腐敗は末端まで及んでいて、病院に圧力をかける必要はない」

「いずれにせよ組織ぐるみの犯行だ。少なくとも『弱みを握られて仕方なく』っていう規模じゃない!」

洋治は強く否定する。

「集団を突き動かす原動力は強迫観念しかない。脅しとか狂信とか」

「俺はそのどちらでもないと思う。ナースステーションに寄った時、荒廃してた。何年も前から機能してないみたいだ」

「職員は積極的に関与していたんだな。じゃあ、負の感情じゃない。共通の利益を得ていたんだ」

「病院の便宜供与か。何だろう? 医薬品の横流し、臓器売買……」

    

銃撃が二人の会話に割り込んだ。いや、アルティスだ。海鳥の大群がガラス窓を突き破り、雲霞のごとく襲い掛かる。

「里奈!」

洋治よりも早くカシュールが義姉を担ぎ上げる。肩から垂れた両足が宙を蹴る。

「えっ? きゃっ!」

派手にスカートがめくりあがり、こじんまりしたヒップがあらわになる。

「この野郎!」

たわわに実ったアルティスを引っぺがそうと洋治が悪戦苦闘するが、裾がちぎれてしまった。

「えっ、いやっ。わたしのスカート!」

「捨てちまえよ。そんなもん」

カシュールが群れごとスカートをビリりと破り捨てる。

「飛ぶぞ!」

洋治が最寄りの窓にタックル。破片をまき散らしてドローンが急上昇する。洋治がハンドルを握り、後部座席にカシュールと里奈がしがみ付く。

うらぶれた物流倉庫が遠ざかっていく。しかし、海鳥が追いかけてくる気配はない。

「どういうことだ。俺たちを襲わないのかよ!」

洋治はドローンを緩やかに旋回させた。ガラス屋根の割れたロフトなど一顧だにせず、海鳥はどこかへ帰っていく。

「誰か飼われていたんじゃない」

統率を欠いた挙動をカシュールが指摘した。

「じゃあ、誰が攻撃本能のスイッチを入れた?」

洋治はドローンを北に向けた。海はアルティスの勢力圏だ。

    

沈埋都市は浮き沈みを一定の面を維持するために対になる突起物でバランスを保っている。中央部のセントラルタワーとその地下にあるアーステックだ。

「言いにくいが、今の俺たちは誘蛾灯をぶら下げてるも同然だ」

カシュールが目のやり場に困っている。

「ちょっと、どこを見てんのよー」

里奈が顔を赤らめる。襟付きのドルマンシャツから紺色のブルマーが見え隠れしている。


沈埋都市のセントラルタワーは滋養豊富な熱水を求めて死んだ海を彷徨い、枯れるまで根こそぎ汲み上げる。標高二百メートルを超える尖塔が鈍色の空に刺さっている。

びょうびょうと海風が吹き付ける風力発電システム。

その裏側にはドローンで度胸試しに挑む若者以外は近づけない。それもかなりの技量を要する。横転したドローンのすぐ下では金網ごしに白波が砕けている。

「ガモンが墜ちてから既成概念が吹き飛んじまったように見えるが、どっこい。革命神話はまだ生きている。時代が殺伐の季節を乗り越えると、独裁者の火刑で雪解けが始まるんだ」

カシュールたちは今までの経緯と手持ちの情報を総括している。

まず、アルティスはガモン落下後の環境に適応した新生物だ。セレンとイリジウムの化合物を利用して汚染された餌を消毒している。それが厄介の種を捲いた。

    

人間は馴れる。どんな状況でも生き延びようとする欲求が困難をチャンスに変えていく。地球外から運ばれてきた微量元素は食物連鎖を改革した。

生き残ったプランクトンを魚介類が食べて人間の体内に蓄積される。そうこうしているうちにセレンとイリジウムの代謝に特化した進化が始まった。

医療機関は敏感だ。君島市の行政府はそうした人々の出現をいち早く察知し、錬金術につなげようと研究対象にした。

問題は君島市民病院の体質にとどまらない。

カシュールが続けた。

意図的に偏ったオーパスレイブンが流通する過程を黙認し、セレン欠乏症で搬送された患者を無断で被験した。そして死にかけた患者をリトマス試験紙同然に扱った。

「βエンドルフィンが終末期の大脳に大量分泌される。アルティスは死臭を嗅ぎ取って活性化するんだろう」

活発に持論を展開する脇ですすり泣きが聞こえる。置いてけぼりにされた里奈は膝を抱えて壁と向き合っていた。

「おい」

洋治が議論を打ち切って声をかけた。

「放っておいて! 人間がアルティスに何の用?!」

里奈が両ひざを抱く。

「一人で背負い込むなよ。俺たちも、いや、君島市のほぼ八割はアルティスになっちまってるだろうよ」

「気休めは結構です。どうせみんな死ぬのよ」

「いや、死ぬのは二割でいい」

カシュールがひょいっと自動小銃を振り上げた。

    

「あんた、こんなもん何処から持ってきたんだよ。そういえば新鮮な鶏卵とか有り得ねーもん続々と出してくるとか、手品師かよ」

洋治のツッコミをカシュールは軽くいなした。

「マジックでも何でもない。俺は黒商人だ」

「嘘よ。いくらブラックマーケターでも生鮮食品なんか融通できない」

里奈はすっくと立ちあがった。ブルマーの後ろポケットに白い紙片が刺さっている。

「それはッ?!」

カシュールの顔色が変わった。洋治が銃身を蹴り上げ、里奈が足払いする。跳弾がタービンブレードを傷つけた。

あちこちで警報機が鳴り響き、送電中止が街じゅうに拡声される。

「消炎パスタの梱包材よ。部屋の隅で拾ったの。あなた、アルティスじゃないでしょ」

「……」

「イリジウムはラジオアイソトープ。放射線源よ。同位体であるイリジウムは粘膜炎を引き起こすの。病院で処方して貰ったんなら、ちゃんと証拠は隠滅しとかなくちゃ」

里奈は面白そうに紙片をひけらかす。彼がアルティスであるならば耐性を獲得しているはずだ。

「どういうことだってばよ、里奈?」

「洋治、こいつは院長の犬よ。あたしたちを散々振り回して、火種にしようと企んでいた」

「何のことだ? 俺たちは、食糧事情を操って市民の八割をバケモンにしちまった連中に復讐を……」

    

里奈の回し蹴りが炸裂した。引き締まった太腿にブルマが張り付いている。

「あなた、いま『バケモノ』と言ったわね。その失言が動かぬ証拠よ。信念を持って生きているアルティスなら自分を蔑んだりしない。もう一つ、ボロを出したわ。洋治を殺そうとしたでしょ。信念を持たない人は死ぬべしって。誰もが理想的に生きていける社会は幸福かもしれないけど、厳しい現実が許さない。みんなが少しずつ何かをあきらめなきゃいけない。でも、それをどうにかするのが理念でしょ」

「何をわけのわからないことを」

カシュールは唇の血を手の甲で拭った。

「俺の首を院長に捧げる手はずだったんだろ。姉と同じ釜の飯を食っている。同等量のセレンを摂取している俺が彼女より元気だ。貴重な資料になる。どさくさに紛れて献上しようと考えた」

「そうだ。戦争が始まればいずれ死ぬ」、とカシュール。

「ところが俺が早々に欺瞞を見抜いたもんで、功を焦った」

洋治がじわじわと追い詰める。

「それにあたしが倒れた時に海鳥が集まった。βエンドルフィンと攻撃本能の因果関係が立証できたので、洋治を殺すのはやめた」

「そっちのデータが高く売れるからだ」

    

「人が死ねば事態が動くと院長は抜かしたそうだな。その真意はアルティスの検死データが収益になる、だ。アルティス同士が殺しあえばもっともっと金になる」

ここまで言われてカシュールも観念するしかない。

「その通りだ。アルティスを駆除するために……」

凶弾がカシュールの上半身を血しぶきに変えた。

洋治は言葉を失った。セントラルタワーを警察のドローンがぐるりと取り巻いている。威嚇射撃が洋治のドローンを粉砕した。

”抵抗は無意味だ。おとなしくしていれば、裁判を受けさせてやる。せめて人間らしく死にたくはないか?”

侮辱的な勧告が四方八方から降り注ぐ。

洋治は負けじと声を張り上げた。

「いい加減にしろよ! 猿回し!!」

返事の代わりにタービンブレードが一枚、ぽっきりと折れた。

「そうよ。大捕物なんか期待するだけ無駄なんだからネッ」

里奈の剣幕に銃撃がピタリと止んだ。

”おもしろい”

頭上からひときわ大きいドローンが降りてきた。白衣の男がキャノピーを跳ね上げる。

「院長じきじきのお出ましか」

洋治は憎々しげに迎える。

「御挨拶だな。まぁいい。『憎まれっ子世に憚る』だ」

院長はサングラスを外してニヤリと笑った。

洋治は一瞬、はっとした。次の瞬間、そんな自分が大嫌いになった。

    

「俺はこういう『陳腐な展開』が一番嫌いなんだよ。金の亡者なら、こんな回りくどい再会を仕組むなよ。幾らかかってるんだ?」

「はっはっはっ。そういうストイックな所は母さんそっくりだよ。おもしろい」

院長は照れくさそうに笑った。

「で? 俺は『幾ら』で売れるんだ?」

洋治は同じ遺伝子を持っている相手を血縁者ごとこの地上から一掃したいと願った。

「大切な後継者を蔑ろにする馬鹿が何処の世界にいる?」

「俺が知りたいのはデータでなく『兵器』としての値段だ」

洋治は父親の仮面を舌鋒で貫いた。

「な、なにを言うか?」

院長はこの期に及んで白を切った。

「カシュールの部屋に監視カメラがあった。里奈と俺のふるまいも逐一、モニターしてたよな。どちらも司令塔としちゃ、かなり高性能の部類に入ると思うんだ」

「追い詰められても自暴自棄な破壊活動をせず、冷静に交渉できる、不死身の新生物。汚染された世界を一極支配したい君島市に引き渡すもよし、諸勢力にばら撒いて金儲けするもよし」

里奈が院長の目論見を喝破した。

「はは、『兵器』だと? 子供じみた陰謀論だ。心血を注いだ努力をそんな低俗な理解で済ますとは! この私を愚弄するにも程がある」

院長がさっと片手をあげた。ドローンの一機が飴のようにドロリと溶ける。

    

「フムン。それぐらいの能力ちからはアンタにも備わっているってか」

洋治は驚きもせず、むしろ当たり前のように言う。

「お前の潜在能力はもっともっと素晴らしい。後継者であるからな。どうだ?」

院長は惚れ惚れするように洋治の手を取った。

「危ない」

里奈が院長に体当たりを食らわせた。と、同時に彼女の足元が崩れ始めた。セントラルタワーを支える構造物がゆっくりと崩壊していく。

このままでは熱水と微量元素が君島市内に雨あられと降り注ぐだろう。

投げ出された院長をドローンが回収した。

「切羽詰まって卓袱台返しかよ」

交通手段を持たない里奈と洋治は真っ逆さまに落ちていく。

「洋治」

里奈は子猫のような身のこなしで体勢を立て直し、手近なドローンに着地した。素手で背面パネルをこじ開け、即席の制御ルーチンを打ち込む。

さっと主翼で義弟を受け止めた。

「ナイス! βエンドルフィンが効いてきたか」

軽口をたたく洋治。

「どうせこれも評価の一環でしょ」

里奈は機体の操縦を譲った。

そして二人を乗せたドローンは院長の機体にランデブーする。

「自分の家族を、いや、人間の命をどうして商品のように扱う?」

洋治は父親とも思えぬ生物に根源的な疑問をぶつけた。

    

「需要と供給を知らんのか? 欲しがる顧客がいるからだ。両者がそろって売買が成立する」

「人の命に値段はつけられない」

「納得する買い手がいるのだよ」

丁々発止のやり取りが続く。


「売られる側の気持ちを考えろ」

「命を奪いたい側の気持ちは?」

「殺さないで!と願う人もいる」

「私は悪魔と契約しているのだ」

洋治の父親は唯我独尊を主張した。

「埒があかないわ。どうするのよ。キャッ!」

里奈のすぐそばに被弾した。洋治が振り返ると院長のドローンから白煙があがっている。ギリギリの威嚇だ。次はない。

「フン。そっちが独自ルールを貫くなら、こっちも勝手にやらせて貰うさ!」

洋治は泰然自若とした態度で主翼にしがみつく。

「勝手って?!」

里奈の視界を黒い影が横断した。

コツコツと聞き覚えのある音が響く。

「アルティス?!」

彼女が身を乗り出すと胴体の腹部を海鳥がつついていた。

一つ、また一つと群れが寄り集まって、青い空を蝕んでいく。

「何をした?」

院長の表情が曇った。

「βエンドルフィンだよ。俺は彼らと意志疎通できる。仲間だからな」

「烏合の衆だ」

「それはどうかな。俺はあんたの正当な後継者だ。お望み通り、成ってやんよ。で、最初の仕事は先代の排除。アルティスたちは賛同した」

「この私を滅ぼすというのか?」

    

「ああ。自分専用の信念を持たず、ただただ親兄弟に依存して生涯を終えるのなら、生きていてもしょうがないだろう?」

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オーパス11 水原麻以 @maimizuhara

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