猫世界

古博かん

猫が消えた。逆立ちしながら順に消えた。

 猫が鳴いた。にゃーんと鳴いた。

 いつもの公園の片隅で、木陰の向こうで、にゃーんと鳴いた。


 振り返ると、黄色いお目々が木陰からじっとこちらを凝視していて、視線がかち合うと、猫はふいっとそっぽを向いて尻尾を振りながら、そっと立ち去った。

 別に、それだけなら大したことでも何でもない。ごくありふれた日常の一コマ、それ以上でも以下でもない。


 次の日も猫が鳴いた。にゃーんと鳴いた。

 いつもの歩道の片隅で、ぴょんと側溝から飛び出して、チラリと後ろを振り向いて、じっとこちらを凝視した。それから尻尾をゆらゆらと左右に揺すって小さな肩を竦めて見せた。

 別に、それだけなら大したことでも何でもない。ごくありふれた日常の一コマ、その続き。それ以上でも以下でもない。

 だが、これには少しおかしな続きがある。


 ぴょんと飛び出た猫が鳴いた。にゃーんと鳴いて肩を揺らして、それからひょいっと逆立ちをした。そしてそのまま器用に逆立ち歩きを始めた。


 唖然としながら眺めていると、逆立ち猫は逆立ちしたまま器用に歩き、歩きながら「にゃーん」と鳴いた。次の角を曲がる手前で、もう一度にゃーんと鳴いて、それからふっと静かになった。

 気になって後を付いていってみると、逆立ち猫は忽然と姿を消していた。何処へ行ったかは分からない。きょろきょろと周りを見回したけれど、それらしい陰も形もない。

 その日以来、その猫を見かけなくなった。

 

 別の日、別の猫が鳴いた。にゃーんと鳴いた。

 前足で器用に顔を洗いながら、時折小さな口をめいっぱい開いて大欠伸をしながら、にゃーんと鳴いた。塀の上で伸びをしながらご機嫌さんで「にゃーん」と鳴いた。

 そしてふと、こちらに気が付き、塀の上から凝視する。首だけを動かしながら、じっと世界を眺めている。

 別にこれだけなら大したことでも何でもない。ごくありふれた日常の一コマ。それ以上でも以下でもない。

 だが、これにもやっぱり少しおかしな続きがある。


 別の日、その猫も鳴いた。にゃーんと鳴いた。

 それから小さな肩を揺すり、尻尾を揺らしながら逆立ちを始めた。よっと前足を数歩前後しバランスを取ると、そのまま逆立ち歩きを始めた。

 塀の上で器用に逆立ち歩きをしながら、にゃーんと鳴いた猫は塀の影でもう一度鳴いて、それからふっと静かになった。慌てて塀を駆け上り、後を付いていったけれど塀の影に猫の姿はどこにもなかった。

 その日以来、その猫も見かけなくなった。

 

 不思議なことが二度続き、小首を傾げながら町の片隅を歩いていると、また別の別の猫が鳴いた。にゃーんと鳴いた。

 空き地の裏の草むらの中から「にゃーん」と鳴いた。


 慌ててガサガサと草むらに突っ込めば、そこにはやっぱり別の別の猫がいた。

 その猫は、こちらに気付くとフーッと毛を逆立てて、爪を剥き出して威嚇する。だから少し後退りして距離をとった。別に、それだけなら大したことでも何でもない。ごくありふれた日常の一コマ、猫の縄張り争い。それ以上でも以下でもない。

 しばらくそのまま様子を見ていると、猫は警戒を解いて代わりに「にゃーん」と鳴いた。にゃーんと鳴いて小さな肩を揺するとふわっと逆立ちをして、そのまま慣れた様子で逆立ち歩きを始めた。

 こちらを見ながら「にゃーん」と鳴いて、ニヤリと笑った。逆立ち歩きで数歩進んで、それから目の前の草むらの中で忽然と猫は消えた。驚いて猫が消えたあたりに分け入り、地面をぺたぺた叩いてみたけれど、変わったところは何もない。

 その日以来、その猫も見かけなくなった。

 

 そうして町を歩いていると、いつの間にか猫の姿をどこにも見かけなくなった。不思議に思って公園に立ち寄る。いつもの木陰にいつもの猫の姿はない。

 歩道の側溝を覗き込んでも、やっぱり猫の姿はない。

 近所の塀の上にも、空き地の裏の草むらにも。

 いつの間にか、ごくありふれた日常の一コマ、猫が一匹もいない町。それ以上でも以下でもない。


 そう気付いたら、居ても立ってもいられなくて「にゃーん」と鳴いた。一度鳴いて耳を澄ますと、どこからか、にゃーん、にゃーんと猫が鳴いた。

 もう一度、にゃーんと鳴いた。するとやっぱりどこからか、にゃーん、にゃーんと返ってくる。


 すると、どうしたことだろう。

 にゃーんと鳴いたら、猛烈に逆立ちがしたくなった。全身がうずうずと落ち着かず、えいやと思って後ろ足を蹴った。

 思いのほか、逆立ちとは簡単にできるものらしい。その代わり、バランスが悪くてとっとと前足が勝手に出ていく。落ち着かず「にゃーん」と鳴いたら、足は前へ前へと勝手に出ていく。

 すると、ストンと何処かへ落ちた。

 突然世界の底が抜け、何処かへ真っ直ぐ落ちていく。


「にゃーん」

 そして気付くと、知らない世界に着地した。

「にゃーん」

「にゃーん」

 ふんふんと小鼻で周囲を嗅ぎ、とことこ進んだその先には、以前見かけた猫がいた。一匹、一匹増えていき、気付くと世界は消えたはずの猫だらけ。毛だらけ猫で溢れている。


「にゃーん」

 なぜか、そうしなくてはいけない気がして鳴いてみる。しばらく鳴いていると、背後に別の猫がやってくる気配がした。

 別に、大したことでも何でもない。ごくありふれた日常の一コマ、猫のための猫の世界。そういう世界もあるということ、それ以上でも以下でもない。


 消えたはずの猫は「にゃーん」と鳴いた。のんびり気ままに「にゃーん」と鳴いた。物陰で丸まり、じっと周囲を凝視する猫、前足で器用に顔を洗う綺麗好きな猫、小さな口で大欠伸をしながら伸びをする猫、そこに今日も加わる新しい猫。

 その日以来、町で猫の姿を見かけなくなった。ごくありふれた日常の一コマ、猫が一匹もいない町。それ以上でも以下でもない。

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