閑話

目が覚めたのは午前六時頃。

昨夜就寝したのが三時過ぎなので碌に眠れてはいないが、今二度寝すると昼過ぎまで起きられないだろう。

寝台を下りながら肩甲骨を回し、衣服を整えながら軽く膝を屈伸させる。

昨日の筋肉痛はまだ来ていない。


顔を洗い玄関へ向かう。坏杯がまだ寝ているのを確認し、ついでに大きく開いた口内の虫歯チェックを済ませ(歯の健康状態は良好だった。虫歯菌も唐辛子には勝てないのかもしれない)診療所を出た。


うっすらと朝日が差し込み、スモッグの隙間からは天使の梯子が見えている。

比較的爽やかな空気の中、太白が向かったのは近所の公園だった。

まだ日も登り切っていない時間だというのに、公園にはすでに人の気配がする。

近隣の住民が朝の運動に集まっているのだ。

大半が老人だが、中には成人病対策のために参加している中年の男性や、美容を気にしてか若年の女性もちらほら見受けられた。

診療所に顔を出す面子も見られ、そのうちのひとりが太白に気づいた。


「李先生、おはようございます」

先日、糖尿病手前だと診断された泯が、軽く走ってきたのか、首にかけた手ぬぐいで汗を拭きながら近づいてくる。

「おう、早いな。ちゃんと酒減らしてるか?」

「先生に言われた通り、一日一本にしてますよ。でもカカァは飲む量を減らさないから、なんかギクシャクしちゃって」

「奥方は肝腎が相当強いからな。泯さん、むしろよく今まで付き合ってたよ」


公園の中央広場では、数人が集まって太極拳の型を踏んでいた。

もっとも一般的な、簡化24式太極拳の基本形。

ゆったりとした動きはごく簡単に見えるが、それだけに慣れ不慣れがわかりやすい。

集団の先頭で型を披露する老婆は齢80と太白より高齢だが、重心はどっしりと低く、体軸は巨木のように揺らがない。

反対に、いちばん後ろで見様見真似に型をなぞっている若い女性は、長い手足が使い切れておらず、ゆらゆらと不安定だ。

下心から教えるタイミングをうかがう男性陣と、それを牽制しながら彼女を囲んでいる女性陣。

いつの時代も変わらない縮図に苦笑する。

太白も男性陣の後ろに陣取り、ゆっくりと練習に参加し始めた。


昨日の疲労が残っているのが手に取るようにわかる。

大腿の裏、腰回り、肩回り、鉛でも含んだようにずっしりと重い己の体を実感し、「今日は無理をすまい」と誓う。


叶えば、の話だが。


数分間の型を何度か行い、一同は落としていた腰を伸ばす。

今日の鍛錬はここまでのようだ。

思い思いに集まって朝のおしゃべりを始める住人たちを眺めていると、先ほど手本役をしていた老婆が太白に近づいて来た。

名前は陳明娘。

かつては太極涼君と呼ばれ、近隣女性のあこがれの的だったらしい。

今ではすっかり、かわいらしいおばあちゃんだ。


「先生、昨日はお休みだったんですか? 足がしびれてしまって、湿布をもらいに行ったのだけど」

先ほどの動きを見るに、そうした素振りは全く見られなかった。

が、本人が言うならそうなのだろう。

達人の感覚など、太白の想像が追い付くものではない。


「ああ、すまねぇな。急な呼び出しがあったんだ。多分しばらく開けられねぇから、必要なもんがあったら朝のうちに取りに来てくれ」

すると、周囲の高齢者があれよあれよと集まり始めた。

「おや、じゃあ俺も行くよ。二日酔いの薬が欲しいんだ」

「ここ数日寝苦しいから、よく眠れる方法を知りたいんですけど」

「先生、いい酒が入ったから持っていくよ。ついでに前の瓶回収するから出しといてくれ」


好き好きに来訪の予約を入れていく住人たちに、

「こりゃゆっくり朝飯食ってる時間はねぇな」

と判断し、さっさと診療所に戻った。


途中、朝市を覗いて皮蛋と揚げパンを買っていく。

診療所に戻ると、既に坏杯が起きていたらしく、朝食のいい香りが外まで漂っていた。

水で戻した乾燥茸と青椒の炒め物、茸を戻した水で炊かれたお粥が、すでに出来上がっているらしい。


「お、ジイサン戻ったネ。目玉焼き両面でイイカ?」

「朝からそんなに入らねぇよ。割っちまったなら、お前さん二つ食え。皮蛋買ってきたぞ」

「おお、お粥に乗せるヨ」

テキパキと食卓を用意していく手際は、飲食店の店員顔負けだ。

それもそのはずで、坏杯は貝家で育てられる中、料理人としてのいろはを叩きこまれている。


大黄瓜の工作員としての教育の一環だった。地方に潜入するには、新規店として店を構え、商売を始めるのがもっとも自然で効率がいい。

坏杯は孤児として同期の王弯、美珉と共に日本へ送られる予定だったのだが、思いのほか栽培に才能を見せたため、『農場』の管理人として現地滞留組となったらしい。

そんな奇妙な経緯のためか、坏杯は自ら厨房に立ち鍋を振るうのを好む。

その腕前は確かなものだ。食べる相手がわかれば無茶な味付けもしない。


「坊主、この卵どうした?」

「お隣さんがくれたヨ。アラ、先生戻ってるノ~?って」

「あー、後で例を言わなきゃな」


ご近所付き合いとはありがたいもので、太白が長く診療所を空ける時も、近隣に住むお得意さんたちが様子を見てくれるので、空き巣などに入られることは少ない。


もっとも、仮に入ったとしても彼らが手を付けるのは僅かな金品のみの場合が大半である。周囲の棚を埋め尽くす漢方薬に、金庫に入った雀の涙ほどの金銭を100倍にしても足りない価値があるとは、ケチな泥棒には想像もつかないだろう。知は財産とは、よく言ったものだ。


配膳が済んだテーブルを2人で囲み、思いのほか豪華な朝食にありつく。

「あ、棚の鬱金使いやがったな。ターメリックの代わりにすんなって言ったろう」

「ジイサンち調味料なさすぎネ。味気ないのよくないヨ」

そんな会話をしながら箸を進めていると、公園で口約束を交わした住人たちが続々と訪れ始めた。薬を求める者、健康相談に来る者、酒を届ける者。卵をくれた、裏に住む老婦人も訪れた。皆顔見知りだ。


この町に診療所を開き、近隣の住民に支えられながら続けてきた。彼らはごく普通の市民で、善良であり小狡くもあり、この厳しい世界を懸命に生きている。

訪問者の波が引いたのは、正午を少し回った頃だった。


「帰って来ねぇとなぁ…」

待合室から人が消え、一瞬の静謐を取り戻した診療所でつぶやく。

「ジイサン! しんみりしてないで昼飯ネ!」

午前中、待合室に沸かした茶を届けたり診察補助の真似事などしていた坏杯はもう腹が減ったらしく、厨房で勝手に鍋に湯を沸かしている。

メニューは麺らしく、油の音もするところから揚げ物も用意しているのだろう。


物思いに耽る暇も、今の自分にはないらしい。

「おー、軽めでいいぞー」

更に多忙となるであろう午後に向け、英気を養っておこう。


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霧京疫癘街 ~不老の果実~ 瀧上義緒 @taki_takimocho

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