第90話 エピローグ②
「……む」
掠れた声が必死に音を紡ぐのを耳が拾い、チラリとグレイが視線だけで振り返る。戒によって自由を奪われた<夜>が、やっと回復した顔面から必死に音を紡いでいた。
「許さん――殺す――殺してやる――!」
怨嗟の言葉を発するそれは、もはやただ哀れとしか言いようのないものだった。
「夜水晶――!俺に、俺に力を――」
「……終わりにしよう、<夜>」
往生際悪く必死に呻く<狼>に向かって、グレイは静かに口を開く。その瞳に哀愁を漂わせ、そっと身動きの取れないかつてのリーダーへと近づいた。
「お前が奪ったたくさんの同胞の命。振り回した数々の存在。お前を封じるために払われた大きな代償。――全て、贖うときが来たのだ。その、命を以て」
「ふざけるな――ふざけるな――!」
<夜>は、必死に戒を練ろうとするが、シュサによる強力な戒の呪縛により、力は発現しない。力が発現しなければ――夜水晶もまた、応えることはあり得ない。
「お前はっ……お前はっ、ずるいっ……!」
悔しさに目を血走らせ、ギリリと歯を食いしばり、<夜>はグレイを渾身の力で睨みつけた。
「お前は、何もかもを持っている――!頭脳も、戒の才能も、身体能力も、優れた統治能力も――信頼できる仲間も、何もかも、何もかもだ!」
「…………」
「俺は昔から、お前が嫌いだった――あぁ、嫌いさ、大嫌いだ!お前はいつも完璧な顔で、正論ばかり吐く。あの忌まわしい――親父のように!!!」
グレイの瞳が、微かに揺れる。
かつて、彼の片割れに同じことを言われたことを思い出していた。
「……始祖は、偉大だ。敬愛する、私の唯一。それに似ていると感じるのはきっと――私がそうなりたいと幼い時より憧れ、振舞っているからだろう」
「っ……!」
「だが、なぜだろうな。全てにおいて完璧なはずの始祖が――最も愛した二人の息子に、こうも憎まれてしまったのは」
静かに瞳を伏せて、始祖の根城に千年前に訪れた夜を思い出す。
愛情深い<狼>だった。全ての<狼>種族から好かれ、尊敬を集めた<狼>だった。
そう――彼の息子二人以外の、<狼>全てに。
だが、きっと、始祖が本当に好かれたかったのは、息子二人だったのだろう。
千の<狼>よりも、万の<狼>よりも――たった二人の息子にだけ、自分の溢れる愛を与え、愛を受け取ってほしかった。
「幼く、哀れで、不出来な<夜>よ。――だがそれでも、私はお前を託された。始祖に、お前を、託された。……その期待に応えることが出来ず、こんな結末になってしまったことは、私の不徳の致すところだ。お前の恨み言は、甘んじて受け入れよう」
「な――」
「だが、すまぬ。私はやはり、始祖にはなれない。所詮は物真似でしかない紛い物――完璧な存在になど、なれなかった」
言って、グレイはハーティアの手を取り、引き寄せる。体勢を崩した少女が胸の中に倒れ込んでくるのを受け止め、ぎゅっとしっかりと抱きしめた。
「お前は私の逆鱗に触れた。――ティアに手を出しさえしなければ、お前と和睦する道を、私は最後まで模索しただろう」
「何だと――」
「恨むならば、己と私を恨め。手を出してはならぬ存在に手を出した己と――たった一人の女を始祖の願いよりも優先した、愚かな私を」
<夜>の顔が、カッと怒りに染まるのを最後まで見ることなく、グレイは光り輝く泉へと向き直る。
「銀水晶よ。制約について、了承した。――最後の一つの願いを、叶えてくれ――!」
≪承知した。そなたの願いを、叶えよう。――愛しい始祖の<狼>たちの末永い繁栄を、心より祈っている――≫
パァッ――!
周囲を眩い光が焼き、思わず全員が目を覆う。
熱線が消え去った後、そっと目を開くと、すでに泉はいつもの見慣れた静かな水面を漂わせ、今までのことはすべて幻だったかのように静まり返っていた。
「……さて。それじゃ、ちゃんと願いが聞き届けられたのか、確かめてみようかね」
シュサは言いながら、右手を掲げ、<夜>へと近づく。ザリッ……とその足元が音を立た。
「まっ……待てっ――待て――!」
ヒッ……と<夜>が恐怖に顔を引きつらせるが、シュサはニィっとルージュを引いた鮮やかな朱唇を吊り上げた。眼鏡の奥のたった一つの緋色の瞳が、恍惚ともいえる光を宿してニタリ、と歪む。
昏い昏い、愉悦の笑み。
千年願った――悲願の、復讐。
ヴン……とその手に、灰狼の戒の力が宿り、不可視の刃が生み出される。
「あの世で坊やによろしくね」
「や、やめろ――やめろ!!!やめ――」
命乞いだの泣き言だのを聞くような慈悲の心など――気の遠くなるほどの昔、貧民街で這いずっていたころに、捨ててきた。
ザンッ――!
小さく、鮮やかな、音を立てて――
――<夜>の首が、転がった。
「……ふぅん。やっぱり、自然治癒の力は無くなったみたいだね。全然ピクリともしやしない。普通なら、目の光だけは割とすぐに戻ってくるのに」
「お、お姉ちゃん……冷静過ぎない……?」
転がった頭の元へ行き、瞳孔の開き具合を確かめながら、いつもの軽い調子で口を開く姉に、マシロがひくり、と頬を引きつらせる。
「さぁ?赤狼の群れに居た時期も、トータルすると結構長かったしね。学術的興味が強いあいつらの習性が移ったのかも」
ハハッ、と笑うシュサは、どこか晴れやかな顔をしていた。マシロは、少し複雑な顔をしたものの、やがてつられたように顔の緊張を解く。
「お姉ちゃん、これからどうするの?」
「そうねぇ……しばらく、やることもなくなっちゃったしなぁ……ま。とりあえず、あんたのお守りを続けようかね」
「え!?」
「拾った責任ってのがあるでしょーよ。とりあえず、アンタが死ぬまでは、見届けるよ。どうせアンタの寿命まで、二百年だか三百年だかあるんでしょ?その間に、何か面白いことが見つかればよし。見つかんなくても――ま、そのときの気分で、生きるなり死ぬなり、適当に決めればいいでしょ」
にやりと笑って言うその軽薄な口調は、昔と変わらない姉そのままだった。
マシロはじわじわと喜びがこみ上げるのを堪え切れず、ふにゃ、と顔を崩して嬉しそうに笑う。瞳の端に、キラリと一粒、涙が光っていた。
「グレイ……あの、大丈夫?」
ハーティアは、じっと転がった<夜>の首を見つめているグレイの背中に恐る恐る声をかけた。
<夜>を殺すというのは、彼にとって大きな決断だったはずだ。――千年前、<夜>を封じると決めたときと同じか、それ以上に。
その胸中に渦巻く様々な感情を慮っての発言だったが、グレイは背中を向けたまま、短く答える。
「――大丈夫ではない」
「え――!?」
まさか、グレイがここまで露骨な弱音を吐くとは思わず、ハーティアは一瞬面食らい――
バッ
「わ――!」
「全く以て、大丈夫ではない。――ティア。ティアっ……」
強引ともいえるほど強い力で引き寄せられ、驚きの声を上げるハーティアに構うことなく、グレイは少女を胸の中に収めると、性急な様子で黄金の髪をかき分け、首筋を大きく露出させた。
「っ――ぐ、ぐぐぐグレイ!?」
「あぁ、今すぐ――今すぐ、ここに歯を立てたくて堪らない。もう、一時も我慢が出来ない――」
「ちょ――」
「一秒でも早く、番にしたい。私の物にして、安心したい。ティア――私の、ティア――!」
言いながら、すでに口を開いていつでも噛みつけるように準備しているのか、首の至近距離から、は……という切なく熱い吐息が洩らされた。
「ティア、もう噛んでいいか。――いや、駄目だ。もう、嫌だと言われても聞いてやれない――!」
「ちょ――ちょっと!?」
興奮したように息を荒くするグレイに驚くが、もはやグレイの耳には届かないようだった。彼にとっては、気の遠くなるほど焦がれた瞬間だったのだから、無理もない。
――許されるのだろうか。
千年、ずっと――ずっと、ずっと、何度も喉の奥から飛び出しそうになっては、それを無理やり飲み込んできた。
その言葉を――もう、口に出すことが、許されるのだろうか――
「ティア――」
首筋に近づき、恐る恐る――そっと、熱い吐息に、音を乗せる。
「――――――愛している――愛して、いるんだ――」
千年間の気持ちを全て凝縮したような、飛び切りの愛の言葉と共に――
そっと、その細く白い首筋に<狼>の歯が触れた。
ビリッ――!
「っ――……!」
その衝撃は、人生で二度目だった。
全身を雷が走ったかのような電流が走り抜け、衝撃に一瞬息を詰める。
やっとその衝撃が収まり、そっと目を開くと――痛いくらいに、全身を抱きしめられているのに気付いた。
「グレイ……?」
目の前の白銀に、恐る恐る声をかける。
「あぁ――これは、夢ではないのか――?」
「え……?」
「っ……ティアから――私の、匂いがする――!」
ぎゅっとさらに力強く抱きしめられ、震える声が耳元で響いた。首筋に鼻をうずめられ、何度も匂いを確かめているのだとやっとわかった。
人間とは異なる感動の仕方に、ハーティアは一瞬困惑し――ふ、と瞳を緩める。
せっかく番になったばかりだというのに、女心のわからない、グレイらしい振る舞いだったからだ。
「ふふ……ねぇ、グレイ」
「なんだ――?あぁ、このまま永遠に嗅いでいたい――」
ふんふん、と際限なく首元で鼻を鳴らしている青年に、くすぐったさに身を捩って小さな笑い声をあげながら、ハーティアはそっとその髪に指を差し込み、ゆっくりと撫でた。
まるで――獣の毛並みを撫でるように、愛しい仕草で。
「グレイ。――グレイ、大好きだよ。これから、よろしくね」
「っ――あぁ――」
ひんやりとした懐かしい手の感触に、グレイはぐっと一度息を詰めてから、やっと体を起こす。
花が綻ぶ様に笑うハーティアの笑顔を見て、黄金の瞳が切なく眇められた。
「千年、ずっと言えなかった。これから長い時間をかけて、今までの分も全部、言葉を尽くしてお前に伝えよう」
脳裏に描くのは、その昔――愛しい女が、永遠の愛を誓う儀式として行った、その行為。
あの時は、隣にいるのは別の男だった。
だが今は――まぎれもなく、自分が、ここに立ち、彼女にそれをする権利を得ている。
そっ…と愛しい頬を包むようにして、グレイは千年分の想いを込めて囁く。
「愛している、ティア。――私と共に、『永遠』を歩もう――」
そうしてそのまま唇が近づき――ゆっくりと重なった。
サワサワと風に穏やかに揺れる千年樹が、二人の愛の誓いを優しく祝福し、見守っていた――
<月飼い>少女は<狼>とともに夢を見る 神崎右京 @Ukyo_Kanzaki
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