終章

第89話 エピローグ①

「盛り上がってるとこ悪いんだけどサ。とりあえず、<夜>を殺さない限り、お嬢ちゃんを番には出来ないんじゃないの?」

 空気をぶち壊す発言をしたのは、案の定、罪悪感も倫理観も人並外れて乏しいシュサだった。

 ハッと我に返り、ハーティアは慌ててグレイの腕から逃れる。人前ということを完全に忘れていた。

「で?じゃあ、水晶の願いは<夜>を殺すことに使う、ってことでオーケー?」

「あぁ。――今となっては、それは私"個人"の願いでもある。一刻も早く、ティアの匂いを塗り替えたい」

 ギリリ、と歯をむき出すグレイの苛立ちを感じ取り、シュサはクククッと喉の奥で笑った。

 死ぬまで殺す、という方法は、自分の命を絶つ方法を必死で考えた<朝>が立てた予想でしかない。それが本当に有効かどうかは、神のみぞ知る状態だった。だが、水晶に願うならば、確実に息の根を止められる。シュサとしては、願ったり叶ったりだ。

 未だに残虐な行いを繰り返しているクロエの下へ赴くと、鼻を抑えたくなるほどの血臭が充満していた。地面には、顔面をつぶされた状態の<夜>がピクピクと痙攣しながら、それでも死ねずに横たわっている。

「正確には数えていないからわからんが、五回以上は殺しているはずだ。少しずつ、治癒の速度が衰えている気がしなくもない」

「そうか」

 敵から目を離すことなく淡々と告げられる報告を、グレイは言葉少なく受け止める。

「……結論は出たのか」

 三白眼が、視線だけでグレイを見やる。

「あぁ。水晶は、<夜>を殺すために使う」

「…………わかった」

 チラリ、と三白眼が一度ハーティアの方を見るが、何も言うことなく頷いた。グレイが決めたことに異を唱えるつもりはない、ということなのだろう。

「この銀水晶は、千年樹の泉に浸さねば効力を発揮しない。――転移するぞ」

「え゛っ……」

 呻くような声を上げたのはハーティアだった。周囲の視線を集めてしまい、気まずそうに視線を揺らす。

 その声の理由に思い至り、グレイは優しく瞳を緩めた。

「大丈夫だ。お前の身体は、もう限りなく<狼>に近い。白狼の転移にも耐えうる」

「え、あ、そ、そうなんだ……」

 ほっ、と安堵のため息を漏らすハーティアの頬を愛しそうにグレイが撫でる。

「そのうち、お前にも戒の扱いを教えねばならんな。……<夜>の使う黒狼の戒と、私の白狼の戒が使えるようになるはずだ。身を守るのにこれ以上ない武器となる」

「あ、そ、そっか……うん。私もちゃんと覚えたい。ありがとう、グレイ」

 ふわりと微笑むハーティアに、グレイがわかりやすく相好を崩す。

「……マシロ」

「見てのとおりよ」

 無口な灰狼に、端的に説明を求める響きを以て名前を呼ばれ、半眼で端的に返事を返す。それだけで察せられるだろう。……察してほしい。頼むから。

「黒狼の戒と白狼の戒を同時に使えるって……もしあの子に戒の才能があったら、何気に最強になるんじゃない?」

 シュサは面白そうにニッと唇を歪める。ピクリ、と最強という言葉にクロエが反応したが、シュサは喉の奥で笑いをかみ殺して気づかぬ振りでそれを流した。

 シュサと違って、まっとうな方法で手に入れたその二つの力に、制限などないだろう。シュサが扱う戒の中で、黒狼の戒にだけは何の制限もないように。

(しかも、力の元になる番が二人とも超がつくくらいのハイブリッドだからねぇ……不出来とはいえ曲りなりにも始祖から力を分け与えられた<夜>と、名実ともに最強の白狼。こりゃ、化けたら意外と面白いことになるかもね)

 それにクロエも気づいたのだろう。複雑そうな顔で眉間にしわを刻んでいる。いつもの三白眼がより険しくなり、目つきが三倍くらい悪くなっていた。さすがに、今のラブい雰囲気に水を差してグレイの不興を買うほど馬鹿ではないだろうから、無言で押し黙っているが。

「シュサ。……黒狼の戒で、<夜>の戒を一時的に封じることは出来るか?」

 グレイがシュサに語り掛ける。願いを叶えるまでの間に万が一が起きてはかなわないと思ったからだろう。

「ぅん?……あぁ。一時的、っていうなら、たいした代償なく出来るんじゃない?」

「そうか。では、頼む」

「はいよ。――封じろ」

 シュサはいつもの軽薄な調子で頷き、戒を放つ。ヴン……という重たい空気音が響き、自然治癒が進む<夜>を不可思議な力が包み込んだ。

「ついでに身体の自由も封じておいてあげたよ」

「助かる」

 口に出されないグレイの意図を汲むのは流石のひと事だろう。優秀な頭脳を持つ、とマシロが言っていたことを思い出し、グレイは端的に礼を言った。

「では行こう。各々手を取れ」

 言いながら、グレイはしっかりとハーティアを抱き込む。

 もはや、それにツッコミを入れる元気はマシロに無かった。呆れたように半眼になり、無言でグレイの背中に手を当て、もう片方でシュサの手を握る。見ると、反対側ではクロエがグレイの肩に手を置き、逆の手で無造作に<夜>の頭蓋をつかんでいるようだった。もぞもぞと、抗議の意を表すかのように動いている血だるまのそれが、本能的な恐怖を呼び起こしてぞっと背筋を冷たくする。

「行くぞ」

 ふぉんっ……

 短い言葉と共に、一行の姿がその場から掻き消えた。



 たどり着いたのは、千年樹の木の根元だった。ぐるりと湖と見紛うばかりの広大な泉に囲まれたそこは、巨木の陰に陽光が遮られ、涼やかな空気が漂っている。

「……ガ……ぐ……ぅぅ……」

 苦悶の声が<夜>から漏れる。見れば、治癒はだいぶ進んでいるのか、首から下はほとんど回復しているようだった。つぶされた顔面も徐々に回復してきているため、口を利くことが出来るようになるのも近いだろう。

「どうする?五月蠅そうだし、もっかい潰しとく?」

 シュサが世間話のノリで物騒なことを言うが、グレイは軽く頭を振った。

「どうせ、あと少しの命だ。最期くらい、好きにさせてやれ」

「はいはい、慈悲深いことで」

 シュサは呆れた声で肩をすくめて、こつん、と<夜>の頭を蹴った。苦悶の声が一つ響く。

 おぞましい戦いに身を置くことに違和感がないためか、感覚がおかしいシュサとグレイとクロエについて行けず、マシロとハーティアは少し離れたところでふるふると身を寄せて震える。顔面ぐちゃぐちゃの存在を前に平然としていられる感覚も、それを気軽に足蹴に出来る感覚もわからない。

 他人の気持ちの機微に疎いグレイがそんな二人の様子に気づくはずもなく、平然とした顔のまま静かに泉へと近づき、そっと懐から出した水晶を泉へと捧げる。

「銀水晶よ――私の願いを叶えてくれ――」

 パァッ――!

 巨木のせいで時刻の割にはやや薄暗いその場所に、視界を焼くような強烈な光が眩く走る。

 七色のそれは、沈めた水晶を中心として泉全体を光らせるようにして、煌々と周囲を照らしていた。

≪永遠を生きる白狼よ。最後の一つの願いを叶えよう≫

 不思議な声が周囲に響き、ハーティアとマシロはきょろきょろと周囲を見渡すが、どう見ても泉の中から声が聞こえているとしか思えない。困惑しながらも、状況を固唾をのんで見守った。

「あぁ。私の願いは一つ。ここにいる<夜>を――」

 願いを口にしようとしたグレイが、ふ、と途中で言葉を切る。

「……?どうしたんだい?」

 シュサがいぶかし気にその顔を覗き込む。グレイは、何かを思案するように軽く首を傾げ、じっと押し黙った。

「まさかアンタ、この期に及んで――」

「いや……ふむ。……そうだな……」

 己の悲願の達成を目前にして、それが妨害されるのではと懸念するシュサに応えることなく、何事か口の中で呟いた後、グレイはそっと口を開いた。

「水晶よ。――<夜>と<朝>の不死身の理を捻じ曲げることは出来るのか?」

「――な――」

 予期せぬグレイの言葉に、シュサは目を見開く。

 泉の光は、何かを考えるように小さく揺らいだ。

≪彼らの不死身の理を支えるのは二つ。長大な寿命と、自然に治癒するその肉体。――残る願いはただ一つ。二つの理を曲げることは出来ない≫

「……ふむ。では、自然治癒の能力だけをなくすことは出来るのか?」

≪それならば可能だ。ただしいくつか、制約がある≫

 予定調和ともいえるその言葉に、グレイは静かに耳を傾ける。

 水晶が、制約なしで叶えるのは、<夜>――あるいは<朝>――を殺したい、という直接的な願いだけだ。他の願いになれば、制約が求められるのも当然だった。

≪一つ、理を超えて彼らに傷を付けられるのは戒の力による物のみ。ヒトの作りし道具では、治癒は変わらず発動するだろう≫

「あぁ」

≪一つ、適用できる箇所が限られる。――理を曲げられるのは、その首のみ。それ以外の場所は、今までと変わらず治癒の力を発揮するだろう≫

「なるほど。……では、戒の力を以てその首を刎ねるなり吹き飛ばすなりすれば死ねるということだな?」

≪そういうことになる≫

「ちょ、ちょっと待ちなよ、アンタ……なんでそんな面倒なことを――」

 シュサの怪訝な問いかけに取り合わず、グレイはさらに質問を重ねた。

「確認だ、水晶よ。私が願ったのはこの世に存在する『不死身の理』を捻じ曲げること。――その力を分け与えられた”番”にも、この理は適用されている。番に継承された理も同様に、捻じ曲げられるのか?」

「――――――!」

 ハッ……とハーティアが息を飲む。

 グレイは、考えたのだろう。

 彼と共に永遠を歩むと決意したハーティアが――それでもいつか、どうしても、心が耐えきれなくなってその因果から解放してほしいと願ったとき――

 最期の最期、逃げ道を作っておけるように――

≪曲げるのはこの世の中にある理その物だ。全盛期の始祖狼の力を分け与えられた存在に適用されたその理自体を曲げる。――当然、番にも同じ理が適用されている以上、番も同様に制約の元に治癒の能力の消滅を約束しよう≫

「ふむ。よかった。……水晶よ。最後にもう一つ確認だ」

 グレイは黄金の瞳をキラキラと輝く泉へと投げた。

「私が望んだ願いは『<夜>と<朝>の』不死身の理を曲げること。――<朝>の番も、同様に理を曲げられるのか?」

「な――」

 今度はシュサが息を飲む番だった。

 泉は、ゆらり、と一つ何かを考えるように揺らめく。

≪……<夜>と<朝>の両者に適用されている理は、どちらも同じものだ。願いは一つで賄える。当然、両者の番にも、同様に≫

「――――!」

 驚きに目を見張るシュサに、フッ……とグレイは口の端に微かに苦笑を刻み込む。

「お前は確かに宿敵だった。数々の同胞を屠ったその元凶たるお前を、手放しで許すことは出来ない。だが――お前の意思を無視して無理やりこの永遠の地獄へと引きずり込まれたことと、それを支える唯一の番を失ったことにだけは、酷く同情する。今の我らに欠かせぬ赤狼の族長たるマシロを拾って育てたことだけは、褒められてしかるべきだろうしな。そして、こうすれば――<夜>にとどめを刺す役目を、水晶ではなくお前自身が成すことが出来る。番の無念を、お前の復讐を、お前自身の手で、完遂するがいい。……私がお前に情けをかけてやれるのは、ここまでだ。事が終わった後は、生きたければ生き、死にたければ死ね」

「グレイ――!」

 マシロが感極まった声を出す。シュサは、気味が悪そうに顔を顰めていたが、享受できる利を思えば、異を唱えるつもりはないようだった。

 グレイは、再び泉に向き直ろうとし――

「っ……マ――テ――待て――!!」

 押し殺したような掠れた声が、背後から響いた。

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