第88話 君と歩む永遠⑩

 キン……と、時が止まったかのような錯覚を起こす。

 一度は涙に濡れたハーティアの瞳は、再び意志の強さを取り戻し、まっすぐにグレイを射抜いていた。

 グレイは、鼓膜が拾った言葉の意味をうまく脳で処理することが出来ず、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。

(ティアは今――何と、言った――?)

 無言でハーティアを見つめ返す瞳にいたたまれなくなったのか、ハーティアは少しだけ居心地悪そうに瞳を伏せる。

「……私が、グレイと同じ気持ちか、って言われたら、それは正直よくわからない。……その……男の人と、そういう……恋愛とか、今まで、あまり縁がなかったし」

 もごもご、と口の中で言ってから、気持ちを切り替えるように深呼吸して、もう一度瞳を上げた。

「でも、私は――もう、グレイを独り置いて、私だけ先に死んじゃうのは、絶対に嫌だ、って思ってる。……私が死んだあと、グレイがすごく悲しむこと、知ってるから」

「――――」

「グレイを独りにしたくない。孤独に悲しませたくない。グレイに温かい家族を作ってあげたい。――でも、このままじゃグレイはきっと、自分の気持ちに蓋をして、皆の幸せばかり優先して、自分は独りで生きることを選びそうだから」

 ハーティアの瞳が不安そうに揺れる。

「だから――だから、私が、家族になりたい。グレイに辛いことがあったら、私に出来ることはあまりないかもしれないけれど、ずっと傍にいてあげたい。私が悲しみに沈んだ時にそうしてくれたように――私も、グレイの心の支えになってあげたい」

「――――」

「私の知らないところで、なんて嫌だ。だって、グレイはとても我慢強いから。苦しくても我慢して、隠しちゃうこと、知ってるから。ちゃんと会話して、声を聴いて、顔を見て、グレイが我慢してないことを見ないと安心できない。もしも――もしも私がこのまま水晶の力で寿命を得て、血を繋いで生まれ変わったら――グレイは、もう、私の人生に関わることなく、また『見守る』だけに戻るんでしょう?そんなの、絶対に嫌だ」

 ハーティアの真摯で必死な言葉が紡がれる。

「それなら――私を、貴方の、番にして。貴方が見ている、世界を見せて。それがたとえ、地獄でもいい。長い長い、呪いに塗れた世界でもいい。そこに独り、貴方を置いて逝く地獄を思ったなら――貴方と歩めるそれは、私にとっては地獄じゃないの」

 そうして、ふわりとハーティアの顔が緩む。

 花が綻ぶような――千年前から変わらない、愛しい愛しい、優しい笑顔。

「もしそれでも辛くなったら――また、一緒に眠りましょう。二人で一時瞳を閉じて、儚い泡沫の『夢』を見て――そしてまた、貴方の地獄を私も歩む。貴方と一緒に『夢』を見る。貴方の『夢』を共有できる、唯一の存在に、私がなる」

「――――」

 無意識に、グレイはその手を伸ばしていた。

 真っ暗闇の夜の底で――輝く月に手を伸ばすように。

 ――信じられなかった。

 どうして急に、ハーティアがそんなことを言い出したのか、理解できなかった。

 絶望塗れの世界の果てで、救いを求めた脳が見せる幻覚なのではとすら疑った。

 だが――耳の奥で、愛しい声が、こだまする。

『ごめんね、グレイ……先に逝ってしまって、ごめん……』

 辛くて苦しくて、意図的に思い出すことを避けていた、哀しい『別離』の記憶。

 そこで愛しい彼女がつぶやいた声が蘇る。

(ティアは――最初から、言っていた――)

 グレイを独り残して先に逝くことを謝罪していた。

『でも、貴方は独りじゃないわ。私たち<月飼い>がいるもの。みんな――みんな、貴方のことが、大好きよ。全員が、貴方の家族なの』

 グレイに、家族を与えようとしていた。

 そして、始祖に呼ばれる前日の夜――グレイが、何も考えずに、一人の男として対峙できた最後の夜。

『大丈夫。――大丈夫だよ、グレイ。グレイは、独りじゃ、ないからね』

 彼女は初めて出逢ったときのように、繰り返しグレイの毛並みを愛しそうに撫でて、そう言ったのだ。

(ティアが私に望んでいたのは――最初から――)

 符号が一致するように、目の前の少女の言葉と過去の光景が合致していく。

 完璧の名高いグレイを、いつだって心配する稀有な存在だった。

 <月飼い>の一族として暮らし始めてからも、集落に顔を見せない彼をいつも心配していた。顔が見たい、逢いたいと夫のカズラに何度も伝えては、一緒に連れて行けとごねていたという。帰ってから、根掘り葉掘り様子を問うては、いつも通りだったと告げる夫の言葉を信じることなく、いつだってその身を案じていた。

 それは、今、ハーティアが告げた言葉と同じだったのだろうか。

(生まれ変わりは――似た境遇に置かれると、全く同じ反応を示す――)

 ならば――千年前の彼女も、そうだったのだろうか。

 グレイの身を案じ、孤独を気にかけ、いつも傍にいたいと思ってくれていたのだろうか。

 ――――この、終わることのない地獄の底に付き合ってもいい、と思うくらいに――

「っ――――!」

「きゃ――」

 衝動はもう、抑えられなかった。

 無理やり身体を引き寄せ、渾身の力で抱きしめる。

「ティア――それは駄目だ――」

「ぐ、グレイ――?」

「駄目だ――私には、その甘美な誘惑を断れるほどの自制心がない――!」

 ぎゅうっと抱きしめ、首筋に顔をうずめる。

「言葉の意味が、わかっているのか。一度番えば、私は決してお前を離せない。お前が泣いて解放してくれと頼んだって、もう二度と、絶対に手放すことなど出来はしない」

「ぅ……うん……!」

「もう、他の男を愛すことなど許さない――次は、嫉妬で相手を殺してしまう。千年で編み出した、断腸の思いでそれを抑える術など、一度お前を手に入れ、番ってしまえばもはや意味がない。<月飼い>でも、<狼>でも――たとえそれが<狼>の他種族の族長だったとしても、私はきっと、何も考えずに相手を殺す」

「ぅ……う、うん……」

 いきなり物騒なことを言われてやや引きつった声で、それでも確かにハーティアはうなずく。一瞬、<狼>の愛の重さの片鱗を垣間見た気がして戸惑ったが、決意は微塵も揺らがなかった。

 感極まり、ぐっとさらに掻き抱くと、折れそうなほど華奢な身体から、忌まわしい香りが立ち上った。チリッ……と怒りが身を焼くのがわかった。

「この忌まわしい臭いを――私の匂いに、染めても、いいのか」

「ぇ?……あ、う、うん……」

「この、千年焦がれ続けた首筋に歯を立てて――お前を私の物にしても、良いのか」

 抱きしめたまま黄金の髪をかき分けると、魅惑的な細く白い首筋が現れ、堪え切れずにはぁっ……と熱い息を吐く。びくっ……とハーティアは驚いて肩を揺らした後、こくこく、と真っ赤な顔で頷いた。冷静だった年長者の余裕を纏うグレイはどこにもおらず、ただ、いつかのように、色香の塊となった一匹の雄が、そこにいるだけだった。

「私と共に――『永遠』を生きて、くれるのか――?」

 それは、質問というよりも、懇願に近かった。

 グレイの切なく熱い響きを宿したそれに、ハーティアはふわりと微笑んで、こくり、と一つ頷く。

「……うん。グレイ。……私と一緒に、『永遠』を生きよう」

 それは、千年、ずっと、欲しくて欲しくてたまらなかった、ただ一つの言葉。

 決して叶うことのないと思っていた白狼の夢が叶った瞬間だった。

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