第87話 君と歩む永遠⑨

 自然界における圧倒的強者を前にして、微塵も怯まぬその瞳は、千年の間に何度も見た光だった。

 少女はいつだって勇ましく、並の男よりも雄々しく、堂々と強者を前に足を踏ん張った。男の影に隠れるのではなく、矢を番え、己の意思で戦いの場に立った。

 今目の前にあるその瞳こそが、グレイが愛した女――ティア・ルナートの魂を持っていると証明するかのようだった。

「……ふむ……」

 しかし、その愛しくてたまらない瞳が、己をまっすぐに射抜いて衝撃的な発言をしたのを、グレイは静かに受け止める。軽く顎に手を当て、何かを思案する顔に、ハーティアはすぅっと息を吸って言葉を続けた。

「前に一度、言ったでしょう?私は、グレイのこと――家族だと、思ってるよ」

「……ほう」

「家族だもん。大好きだよ。だから――だから、グレイが全部背負って独りで不幸になるなんて、全っっ然嬉しくない!」

「――――……」

「私、初めてグレイの話を聞いたときから、一番ムカついてるのは始祖狼さんだよ……!なんで――なんで、グレイにだけ、こんな酷い仕打ちをしたの!?そもそも、自分の子育てが悪かったせいじゃない!なんでその後始末を、全く関係ないグレイに押し付けるわけ!?絶対許せない――!」

 ぱちり、とグレイの瞳が驚きに瞬く。隣でシュサが、可笑しそうに笑い声をあげた。今この場にいる者の中で、始祖に向けてこんな発言が出来るのは、シュサとハーティアしかいないだろう。

「私、村を襲われて、全てを失って――初めて、孤独がこんなに辛いって知ったよ。憎しみに捕らわれて、怒りを力にしないと立っていられないくらいだった。そうじゃないと、絶望に押しつぶされて――私も今すぐ皆の下に行きたい、って思うところだった!」

「ティア――!」

 少女がこぼす初めての本音に、グレイが慌てたような声を上げる。しかし、ハーティアは震える声を押し殺し、喉に力を込めて言葉を紡ぐ。

「でも、私にはグレイがいてくれた。マシロさんもナツメさんも優しくしてくれて、色々な人の色々な事情を聴いて――私だけが辛いんじゃないって、それでも皆必死に生きてるんだってわかった。独りじゃない、って初めて分かったら、生きる気力も沸いてきた。でもそれは――ずっと、グレイが傍にいてくれたから」

 憎しみに捕らわれ、ヒトを滅ぼしたいのだと昏い瞳で告げる少女に、優しくそっと寄り添ってくれたその存在が、どれほど心の支えになったか、彼は知る由もないだろう。

「グレイには本当に感謝してる。よく知りもしない私に――たとえ、番にしたいと思った女の人の魂だったからっていう理由があったとしても――一番辛かったときに、ずっと傍にいてくれた。守ってくれた。一緒に眠ってくれた。それはすごく嬉しかったけど――」

 ぐっ……とハーティアは一瞬言葉に詰まる。はらっ……とその瑠璃色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

「ティ――」

「グレイには、グレイが辛いときや哀しいときに、そうして寄り添ってくれる人がいないんだ、って思うと、すごく哀しい――!」

 はらはらと、花弁が落ちるように、美しい瑠璃の瞳から透明な雫が零れ落ちていく。宝石のような美しい輝きを持つそれが溢れるのを前に、グレイが目に見えてオロオロするのを見ながら、ハーティアはぐいっと乱暴にその涙をぬぐった。

「何も言わずに『見守る』って、何!?なんで、グレイが辛いときに、辛いって言ってくれないの?傍に居させてくれないの?家族なのに――どうして、グレイの孤独に寄り添わせてくれないの!?」

「――――……」

「私の幸せの代わりにグレイが不幸になるなら、そんなの幸せなんかじゃない……!私は、グレイも幸せじゃないと、幸せになんか、なれない!」

 グレイは涙を浮かべるハーティアを前に困惑しながら、静かに口を開く。

「……幸せだ」

「嘘!」

「嘘ではない。――お前が、生きている。世界のどこかで、ずっと、笑っている。……私にとって、これに勝る幸せなど、存在しない。お前の幸いが、私の幸いなのだ」

「っ……!」

 切ない瞳で静かに反論され、ハーティアはぐっと言葉に詰まる。

 何かを言わねばならぬというのに、うまく言葉が浮かばない。ぐるぐると回る頭を必死に巡らせていると――

「いやぁ、面白い面白い。――じゃあ、オネエサンが援護射撃してあげようかね」

 ぽん、と肩を叩かれて弾かれたように顔を上げると、隻眼の美女が、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべていた。

「お嬢ちゃんとこんなに気が合うとは思わなかったよ。あたしも始祖のことが大っ嫌いでサ。身勝手な<狼>どもに振り回されて、勝手に人の幸不幸を決めつけられて、本当に辟易するその感じ、めちゃくちゃわかるよ。あたしも、せめて勝手に番にする前に意思確認くらいしてほしかったなぁって思うしね」

「……ぇ、え……?」

 予期せぬところからの共感に、ぽかんとするハーティアを置いて、シュサはその耳元にそっと耳打ちする。

「貴様……余計なことを吹き込むなよ」

 グレイが不愉快そうに顔を顰めるが、シュサが聞くはずもない。ハーティアはふんふん、と耳打ちされた内容を聞いてから、もう一度グレイを見上げた。

「私が生きているのが幸せなら――私が死んだ後の百年は、グレイにとって不幸じゃないの?」

「――本当に余計な入れ知恵をしてくれる……」

 グレイの鼻にしわが寄り、心の底から嫌そうに呻いてシュサを睨むが、シュサは軽く肩をすくめるだけだった。

 グレイが不幸になっているならハーティアにとっての幸せにならない、というならば、ハーティアの死後の不幸があるこの哀しいサイクルは、決してハーティアにとっては幸せとは言えない、という理論なのだろう。

 かつての宿敵の頭脳を務めた女による入れ知恵を疎ましく思いながら、グレイは静かに目を伏せて口を開いた。

「……確かに、その期間はいつも、死にたくなるような百年だが。――しかし、次が生まれてくるとわかっていれば、耐えられる。お前が血を残してさえいれば、その日を待ち望んで耐えることが出来る。……お前の魂が誕生すれば、それは望外の喜びだ。辛かった百年など忘れるくらいの喜びだ」

「っ……」

 ゆえに不幸などはない、と言われてしまえば、ハーティアは言葉に詰まるしかない。しかしシュサは、ニヤリと笑って再びごにょごにょと耳打ちする。

「ぅ……」

「おい。何を言った」

 少し戸惑うように瞳を揺らした少女の反応を見て、グレイが剣呑な声を上げる。しかしハーティアは、キッと視線を上げた。恥ずかしいのか、その頬が、ほんのりと色づく。

「わっ……私が、グレイ以外の男の人を好きになって、結婚して、イチャイチャしてるの見ても、平気なの!?」

「――――……」

 グレイの瞳が、一瞬で死んだような目になる。クックックッとシュサの可笑しそうな笑いが響き、後ろでマシロが姉の性格の悪さに頭を抱えていた。

「どっ……どうなの!?」

「……ここぞとばかりに嫌な質問を……」

 自分で言うのが恥ずかしかったのか、ほんのりと赤く染まった頬で言い募るハーティアに、グレイは視線をそらして口の中で呻いた。その恨み言は、ハーティアではなくシュサに向けられたものなのだろう。

「……それは、千年前、お前とは番えぬと悟り、お前の血を繋がせると決めたときに、覚悟したことだ。この千年ずっと、何度生まれ変わろうと、お前は同じように他の男を愛し、子を成していった。それを見守り、見送ってきた。どれほど嫉妬に身を焦がそうと、それを抑え込む術も知っている」

「が、我慢してるじゃない……!そんなの、幸せって言えな――」

「幸せだ。――他の男と結ばれ、幸せそうに笑うお前を見るのは、私にとって死にたくなるような苦しみであるとともに、『永遠』の地獄に捕らわれる現実の中に咲く唯一の幸福だ。ティアが笑って、健やかに毎日を生きている――これを超える幸せなどない。それがある限り、私はどんな孤独にも耐えられる。始祖に託された責務を思い出すことが出来る」

 きっぱりと言い切るグレイの瞳に、嘘はなかった。

 ハーティアはそれを見て一瞬息を飲み――再び口を開く。

 もう、シュサの助言は必要なかった。

「じゃあ聞くけど――その”幸せ”は、私がグレイの番になることよりも、”幸せ”なの――?」


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