私えもん

安良巻祐介

 仕事に疲れ切って帰宅した夜、ふと和室を見ると、わずかに開いた押し入れの戸から、人の腕がだらりと垂れ下がっていたので仰天した。

 私は独り暮らしなのだ。

 思わず叫びそうになるところを必死で抑え、片手に台所の包丁を構えて、震えながら近づいていく。

 しかし、手は垂れたままで、一向に動く気配もない。何かの別のものの見間違いではないかなどと半ば願望も込めて考えるが、しかし近づくにつれてはっきりとわかる、これは本物の手である。中指の付け根に、目立つほくろがあることや、親指の爪が割れて赤黒く固まっていることなども、目に入ってくる。

 全く動かないところを見ると、生きている不審者ではなくて死体か何かかしらん。

 それはそれで忌まわしいし、いくら本当に怖いのは生きてる人間などと言ったところで、死んでいるものも怖いということに変わりはない。

 仮にそうだとして、なにゆえ私の部屋で死んでいるのか。

 後から考えれば物干し竿とか、何か長いもので以て離れたところから戸を開ければよさそうなものだったが、何しろ混乱のさなか、そこまで頭が回らず、胡乱な思考を頭の中でちゃぷちゃぷ揺らしつつ、包丁を持たない方の手で、がたがた震えながら、戸に手をかけた。

 そうして、ばん、と開けたところ。そこには。

 骨を抜かれ蛸のようになった、私自身が、戸の隙間に手を差し入れた格好で、ぐったりと蟠っていた。

 毎朝鏡で見る自分の顔よりも、幾分緑がかった、妙な肌色ではあったけれども、間違いなく私自身のすがたである。

 ちなみに、私に双子はいない。兄弟姉妹すらいない。

 私は思わず、ぽかんと開けた口で、押し入れの中の私を見つめた。

 何だ、私か。

 そう言えば、手のあんなところに、ほくろがあったっけ。爪を怪我した覚えもないが……

 まぁ、幾らか精度の悪い、ドッペルゲンガーとかいうものかな、と、少しほっとして考えていると、外に出ていたそいつのだらしない腕が、そのままずるずるずるずる…と伸び始めたではないか。

 そして――腕は地面まで伸び切ると、「あーつかれた」と言って、体もろともふっと消えてしまった。

 空っぽになった押し入れの前で、私は、そうか、疲れていたのか、悪いことをしたな、と、顎に手を当てて、呟いた。


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私えもん 安良巻祐介 @aramaki88

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