追うも捨てるも崖の花

さちはら一紗

文月琴という女、七堀嵐という少女。

『ねえことちゃん。あたしね、もうすぐ死ぬの』



 中学時代の親友、七堀ななほりあらしから連絡が来たのは十数年振りのことでした。


 十年以上も音信不通、私自身彼女の消息を調べることもしませんでしたが、彼女の連絡に「何を今更」だとか「急に何を」とかは思いませんでした。

 何故ならば彼女はその名前の通り嵐のような女で、いつだって唐突でしたから。


 だから、知らない番号からかかってきた電話から聞こえる、知っている声に私は懐かしく思い、心浮き立ちもしたのです。

 ……不穏な死の予告をされるまでは、ですが。



『だから、看取りに来てよ』



 中学以来会っていないとはいえ、私は七堀嵐という女のことをよく理解しているつもりでした。

 電話口から聞こえるのは少女時代と何も変わらない弾むような声音、今にもくすくす笑い出しそうな楽しげな声音、けれどそこに嘘偽りの音はありませんでした。


 私は「ああ本当に死んでしまうのだろうな」と、すとんと奇妙な理解をして、彼女の入院するという病院へ向かったのです。



 かつての親友に会うために。





 ──その先に、何が待っているのかも知らずに。




 ◆





 十数年前のことです。

 私たちの通っていた学院は大学付属のミッション系で、当時の中等部はまだ厳格な男子禁制でした。

 由緒正しき学院に通うのは良家の子女ばかりで、かくいう私──文月ふみづきことも当主の筋ではありませんでしたが旧家に名を連ねる一族の出で、自分で言うのもなんですが花よ蝶よと育てられた、世間知らずの所謂「箱入り」というものでした。


 私は規律と品性を重んじ慈愛と友愛を大切にする学風にそぐうように育った、きわめて模範的な生徒でした。

 一方で七堀嵐というのは学内で噂の問題児。

 家の方は大層羽振りがよく慎みのなさに少々眉を潜めたくなる典型的な成金と言われる方々でしたが、一人娘の七堀嵐はなんというか、どうにもわかりやすい不良でした。

 髪は光に当てられると輝くほどに明るく、中学生だというのに大人びた化粧をして、爪はいつもぎらぎらと飾り立てられていて、高い香水の匂いがして、セーラー服のスカートは異様に短く、靴下はくしゃくしゃ。

 ……当時としてはそう珍しくもないものでしたが、私は何せ箱入りでしたので、他校のそういった生徒を全員「不良」だと思っておりましたし、七堀嵐もそうである、と決め付けていたのです。


 しかし外見だけではなく、授業に出ない、先生に逆らう、礼拝中に大あくびをする、等々の素行不良に重ね、貞操の面でも悪い噂が付き纏う彼女に近付く理由はありませんでした。

 朱に交われば赤くなると申します。付き合う友人は選び抜かねばなりません。

 ですから七堀嵐のことも遠巻きに、なんなら視界に入れることすらせずに、つんと澄まして学院生活を過ごしていたのです。

 ……私は模範生のつもりでしたが、思い返してみればなんとも頭が固く、もしかするとちょっぴり嫌みな女の子だったのかもしれませんね。



 だから。

 決して相容れないはずの私と彼女の出会いは、関わりは、偶然で唐突で──なんだかちょっぴり運命的なものだったのです。





 ◆





 それはある日の放課後のことでした。

 忘れ物をして、一人取りに帰った教室で。


 私は、窓の縁に座る七堀嵐を見つけました。


 窓の外に足を投げ出して、ふらふらと背を揺らしています。

 夕陽に当てられた明るい茶髪は金色に輝き、なんとも儚げで──



 ──というか、今にも儚く窓から落っこちる寸前でした。


 私は思いっきり悲鳴を上げました。



「うきゃーっ!? 死んじゃだめですわーっ!!」


 そのままがしっ、と彼女に抱きつき、




「わ、わっ、文月さん!? ていうかっ……あ、落ちる……ウソウソ!?」



「キャーッ!!」




 ──二人もろとも、窓から落っこちたのでした。





 幸い、下は植え込みで。

 ぼすん、とクッションがわりの枝葉に受け止められたのですが。


「ああん、もう」


 おそるおそると目を開けますと、私をぎゅっと抱きしめた七堀嵐がうんざりと睥睨していました。


「……ね、文月さん。助けようとしてくれたところを自爆あそばしたところ、悪いんだけど。あたしたちの教室、二階よ? 死んじゃダメって言われてもさー、死ねないわ」

「あわわわ、す、すみません。私ったらすっかり気が動転してしまいましたわ……!」


 自殺未遂と早とちりした上に、助けようとして落っこちるなんて。

 家の人に知られたらなんと呆れられるでしょう。

 あわあわと植え込みから身を起こします。

 落ちた時に彼女に庇われたのか、痛いところはちっともありませんでした。


 七堀嵐は、植え込みの枝で傷ついた指をぺろりと舐めて。

 はしばみ色の両眼を妖しげに細めます。


「あーあ、文月さんのせいで怪我しちゃった。これは責任取ってくれないとなぁ」


 はっとします。

 こういう状況をなんていうのか。

 ええとええと……と考えを巡らせて、


「……かつあげ! かつあげですわ!?」

「あっは、よく知ってるじゃん」


 両頬を押さえて叫んだ私に、彼女はにやりと笑うのでした。




「──責任取って、あたしに付き合ってよ。お嬢様?」



 









 七堀嵐に引き摺られるように学校を出て、駅前の商店通り──田舎町の繁華街へと繰り出して。

 真緑色の扉の喫茶店の前で、私は嫌々と首を振ります。


「いけません、こんな、こんな……」



「不良ですわ!!」



「なんで?」

「だって……学校の帰りに寄り道なんて!! 不良のやることじゃありませんの!?」

「…………あっは! 本当に箱入りなんだね、お嬢様?」


 おかしそうに彼女は笑います。


「その、『お嬢様』と呼ぶのをやめてくださいまし!」

「だぁってそんな喋り方、今時いないよ。少女漫画みたい」


 かぁっと顔に血が上ります。

 丁度その頃の私は、自分がひどい箱入りであることを自覚し恥じるようになった時分でしたから。

 それを、よりにもよって相容れない不良たる彼女に指摘されたことが、不本意で仕方ありませんでした。


「わ、私だって普通に話せま……こほん。話せ、るわ!」

「んふ、くく……」


 この日「もうこの話し方はやめよう、絶対に」と思いました。

 ……完璧に矯正するのには、向こう数年かかるのですが。



「ね、文月さん。甘いものは好き?」

「……嫌いではないわ」


 嘘です。本当はとても好きです。

 けれど不良少女に弱みを握られるほど愚かではありません、と私は意地を張りました。

 ……十三歳とはなんとまあ、愚かなのでしょうね。


 私の意地を見透かして、ニヤニヤと七堀嵐は笑います。

 顔立ちは涼しげで、背が高く、中学生とは思えないほどに発育もよく、ひどく大人びた雰囲気の少女でしたが。

 なんだかとても、悪戯好きの少年のような不可思議な笑い方をする子でした。

 そして顔立ちの美しさのせいで、どれほど快活な笑い方をしても……妖しげな、艶めいた魅力を放つ十三歳でした。


 同じ女だというのに、私はその色香にどきりとして、たじたじと足踏みします。

 七堀嵐は先まで掴んでいた私の腕をぱっと離して、言いました。


「この喫茶店のおじさんはカレーばっかり推すけどね、本当はプリンがすっごく美味しいんだ」


 私の返事も待たず、喫茶店の扉を潜って言ってしまったのです。


「あ、お待ちになっ……お待ちなさい!」

「あっは! 言い直しても言い直せてなぁい!」







 つやつやと輝くプリンアラモードを前にして。


「ふ、不良だわ……お夕飯の前に甘いものをこんなに……あなたと同じ不良になってしまいました……」


 がくり、とテーブルの前で首を落とした私に、七堀嵐は苦笑しました。


「あんたさぁ。不良だ不良だって言うけどね。あたし、まだ処女よ?」

「こほっ、けほっ……急に何を言ってますの!?」

「いやだって、あんたたち言ってるじゃん。あたしのことクソビッチってさー」

「言ってませんっっそんな汚い言葉っっ!!!」

「あ、そだっけ? 本物のお嬢様はクソとか言わないのがエラいよねー!」


 ……けれど、似たようなことを噂しているのは否定できません。

 私たちの学校はミッション系で、純潔にして処女たるマリア様へお祈りを捧げるという文化がありました。

 校風として「貞淑」を倣いとするせいで、貞淑の逆の概念が何であるかを知ってしまっている、というのが清く正しくあれと望まれた私たちの矛盾で、それが善であると教えられるからこそ、悪口の鉄板は「あの子は処女じゃない」でした。

 そしてその噂の格好の的になっていたのが、あからさまに不良めいていた七堀嵐。なんとも品がなく、ひどい話です。


 けれど彼女はまるで気にしていないように、髪をくるくると弄びます。


「やーね。あたし、言うほど不良じゃないのに。髪だって染めてるんじゃなくて地毛よ? そりゃあ、授業はさぼりますけども。嫌いな先生の授業しかさぼらないもの。いい子でしょ?」


「先生に嫌いとか言っちゃいけないんですのよ!」

「……ええぇ。お嬢様ってば頭かたーい」


「もう、七堀さん!」

「嵐」


 頬杖をついて。


「嵐って呼んでよ。いーい名前でしょ?」


 いい名前。

 当時はまだ、男か女かわからない名前というのは珍しかったように思います。

 外見だけはとても女らしい彼女に、嵐などという名前は正直、似合ってないと当時は思いました。

 彼女はもっと、花のような……あでやかな名が似合うだろうと。

 けれど自分の名を好くことができるのは良いことなのでしょう。

 私なんか、お琴の練習の度に妙なところで返事をしそうになってげんなりとしていましたから。


 おそるおそる、と名前を呼んでみます。


「嵐さん……?」


 声に出すと、意外と音は馴染みました。

 花に嵐とは言ったもので、なんと言うものか……あらし、という音は散り際の大きな牡丹を思わせたのです。


 彼女はにんまりと、小さな唇を大きく歪めました。


「琴ちゃんは、素直でかわいいねぇ」


 そんなふうに呼ばれるのを許したつもりはありませんでした。


 彼女は上機嫌に、プリンを匙で掬って、私に差し出します。


「あーん」


 嫌々と首を振りました、が。


「ダメだよ。琴ちゃんは、今日はあたしの言うことをなんでも聞かなくちゃならない。責任を取ってもらうと言ったでしょう? ……優等生の君が、うっかりの勘違いのドジで人様に怪我を負わせたなんて、知られたらことだものねぇ?」


 囁く声には逆えず。私は匙にそうっと口をつけます。


「たーんとお食べ。あたしの分もお食べ。そして晩ご飯なんて食べられなくなっちゃいな。ささ、不良になっちゃえ……あたしと一緒に堕ちちゃお? ね?」


「う、ううう〜……!」


 そうして私はプリンアラモードに、ではなく七堀嵐に屈し、模範生の誉れを返上して彼女の友人となったのでした。

 彼女から漂う謎の色香に、不可思議な魅力に取り憑かれるように。


 要するに──七堀嵐という少女を一言で表すと〝魔性〟だったのです。








 そして私は朱に交わり、ちょっぴり悪いことを覚えてしまいました。


 たとえばそれは、先生の目を盗み授業中にメモを回してお喋りすることであり、橋の下で拾った子猫を校舎の裏でこっそりと飼うことであり、十五歳にならなきゃ見ちゃいけない低俗な映画をきゃあきゃあと声を上げて見ることであり、学院の礼拝堂でマリア様には聞かせられないゴシップを語ることであり、危ないから入ってはいけないと言われていたゲームセンターで可愛らしい写真プリクラを取ることでした。



 彼女はとても美人でしたから、実を言うと補正の効いたプリクラなどではバランスが崩れてしまうのですが。

 むしろそれが愉快だと、彼女はいつも好んで目を一番大きくする補正を選ぶのでした。

 まったく宇宙人にでもなりたいのでしょうか。


「遺影もデコれたらいいのにね」


 折り畳みのケータイの待受画面を揃いの写真にして、彼女は言いました。


「嵐さんったら、時々意味のわからないことを言うわねぇ」

「意味わかんなくはないよ。ね、琴ちゃんはさ……人は何故生まれたと思う?」


 礼拝は寝るくせに、形而上学の授業はさぼるくせに、彼女はそういう問答が好きでした。

 

「幸せになるため、でしょうか?」

「惜しいね」


 つやつやと塗られた唇で、彼女は。



「──恋をするためだよ」



 甘く囁いて、ロマンスを語るのでした。


 はあ、と私は生返事をしました。


「なんだかよくわからないわぁ。私、物心ついた頃から婚約者がいますから」

「……お嬢様だねぇ。琴ちゃんの人生は、息苦しそうだ」

「そう、なのかもしれません」


 自覚はしておりませんでしたが、彼女とのささやかな火遊びにのめり込んでいったのは、もしかして。

 旧家の令嬢としての日々に、息苦しさを感じていたからなのかもしれません。


「ひとつ確かなのは……私が、恋なんて一生することはないということです」


 婚約者、とは言っても物心ついた頃からですから。

 それはもう幼馴染や家族、と言った方がしっくりと来て、「この人と結婚する」ということに一切の疑問を覚えたことはなく、けれども恋という浮き立つような感情を覚えることもないのです。


 だから、それが人生の理由なんて言われても私には理解ができません。


「あたしも初恋はまだだけどねー」


 けろり、と如何にも恋愛百戦錬磨という顔で、彼女は掌を返しました。



「でも、あたしは・・・・いつか・・・恋に・・落ちる・・・。とびっきりの恋をする」



 それは熱に浮かされる、というにはあまりにも真っ直ぐな、確信に満ちた予言でした。


「……どうしてわかるんです?」


「そういう血筋なの。恋多き家系っていうかね」

「私が言うのもなんだけど、古くさい考え方ねぇ。嵐さんって、不良生徒の癖に保守的だわ」


 らしくない、と思いました。

 私にとって、七堀嵐とはとても自由な女の子でしたから。


 けれど、彼女は大きな瞳で私を覗き込んで、諭すように言うのです。

 

「いいや? 血は逆らえないものだよ琴ちゃん。めちゃくちゃな恋をする血だったり、病気になりやすい血だったりね。血で運命は決まっているのよ。お嬢様、君だってそうでしょう? 旧家に生まれた君は人生の道筋を初めから決められている。……君だって、血の呪いの中にいる」


 諭す? いえ、いいえ。

 それは信仰する者の目でした。



「それでも恋は自由だ。

 それでも、誰を好きになるかはわからない。

 運命の恋は、血の運命を変えるの」



 聖書の一節を読み上げるその一万倍の熱で、彼女は、強く強く囁いて……。

 私は溜息を吐きました。


「世間知らずの私でも分かります。嵐、あなた……」




「──恋に恋をしているんだわ」




 彼女は、目をぱちぱちと瞬いて。


「……あっは! そうだね、その通りだ!」


 ひとしきりけらけらとお腹を抱えて、咳き込むほどに笑うのでした。

 私は何が面白いのかもわからず、もしかしてこのとびきり大人びた不可思議な同級生は、意外とお子様なのかしら? とようやく気付いたのです。


 けれど。


「……素敵な恋をできると、いいわねぇ」


 素朴にそう祈れるほどには、私は七堀嵐のことが大好きでした。


「うん。できるよ。あたし……素敵な恋をする」


 私を真っ直ぐに見つめて言うその瞳が、濡れて宝石のようにきらきらと輝いていたのを、綺麗だなとなんとはなしに思って。

 思っただけで。

 いつかこの瞳を手に入れる誰かのことを、ほんの少し羨ましく思って。

 けれども今この瞬間は私のものであるという友情に満足をして。



 ──私は、彼女の想いに、気付くことはなかったのです。







 

 





 そして二年後、私たちは中等部を卒業しました。

 とは言っても、そのまま高等部へ上がるのですが。


 けれど、この制服で学校に通うのは最後で中学生としては最後の寄り道でした。

 

 駅前の繁華街でいつものように遊びほうけるという、ささやかな不良行為ももう慣れっこ。

 私たちは日が暮れるまでお喋りをし、笑い、写真を取り、甘いものを食べて、夕焼けの中。

 踏切の前で、お別れを言いました。


「ねえ、嵐さん。ありがとうございます。二年間、楽しかったですわ」


 お礼を言うにはいい区切りでした。

 いつもちょっとだけ知らない世界を教えてくれた、私の親友へ。

 意地を張らずに素直に感謝を告げられるのは、卒業式なんて特別な日でなければできません。


「こちらこそ。素敵な毎日だったよ」


 胸に花を差した彼女は、亜麻色の髪をなびかせ、夕陽の中で笑いました。

 いつかの教室で出会った時のように、金色に眩しく、そして儚い笑みでした。


 踏切は開いているというのになんだか名残惜しくて、私たちは道の隅で立ち尽くして、しばし見つめ合いました。

 そのうち、カンカンとけたたましい音がなって、遮断機が目の前で降りていきます。


「ねえ、覚えてる? いつか人生の意味は恋だと言ったこと」

「覚えているわぁ。嵐も可愛らしい一面があるのね、と思ったもの」


 くるりと短いスカートを翻し、車のない道路に躍り出て、彼女は両手を広げました。


「レールの敷かれた人生はつまらない! 人生において劇的なことはただ恋だけ」


 朗々と台詞読み上げるように、彼女はそう言って。


「なんてね?」


 茶目っ気たっぷりに首を傾げました。


「ふふ、あなたって時々演劇めいた仕草をするわよね」

「親が演劇好きだったからね。……ま、もう見ることもないんだけど」

「?」


 彼女の後ろで。

 閉じた遮断機の奥で。

 ごうっと、電車が通り過ぎました。






「──あたしと付き合ってよ、琴ちゃん」







 風を切って線路を走るその音は、けれど彼女の凛とした声を掻き消すことはなく。



「運命の人になって。あたしの運命を変えて。あたしと一緒に、駆け落ちして。この町を出ようよ」



 彼女は華やかな笑顔を絶やさずに、そう言ったのです。


 私は思わず、嘆息しました。


「本当に、ロマンチックな冗談を言う人ね。劇のヒロインになったみたいだわ。……そんな夢のような台詞をいただくのは、きっとこれが人生で最初で最後よ。ねえ嵐、高等部では一緒に演劇部に入りません?」

「あはっ、素敵な未来だね」


 そして手を、差し出します。


「さて、お嬢様。返事は如何?」



「ええ、嵐さん。返事は……『ごめんなさい』よ」



 私が七堀嵐に惹かれた理由は、わかっていました。

 彼女が私とは真反対であったからです。

 在り方も、考えも、人生への哲学も。



「たとえ線路が引かれた人生だとしても。私、退屈なんて思ったことないの。だって、線路があることがつまらないなら電車の運転手はつまらない仕事なのかしら? いいえ、それはとっても立派な仕事だわ」


「私は線路を引いた人たちを愛していて、引かれた線路の美しさを知っている。その上をどう走るかは、私次第。何を嫌がることがありましょう?」


「私、恋は知らないけど。自分が恵まれていることを知っているし、恵まれた生まれの義務を果たすことも知っているし……私は私の人生を愛しているのよ」




「だから、嵐。

 ──あなたと一緒には行けないわ」




 そこで初めて、彼女はにやつくチェシャ猫の笑みを消して。


「そっかぁ。そか……残念だな」


 と、本当に悲しそうな声を……初めて聞く、声を出して。

 真顔で、そっと私に近付き──、



 視界に、影が落ちました。




 柔らかに押し当てる、不可思議な感触が唇へ落とされて。

 それが口付けだと気付いた時にはもう、離されていました。




「……嵐、さん?」



 逆光の中で、彼女は。

 とても、とても美しく微笑みます。


「さよなら琴ちゃん。あたしのこと、忘れないでね。……一生」


 その微笑みが美しかったのは、儚かったからです。

 散り際の花のように、悲しく綺麗だったからです。


 そして上がった踏切を、足早に駆けていくその背中を。

 わけもわからずぼんやりと見送りました。






 閉じた踏切の前で一人、残されて。

 私は唇をなぞります。

 微かに移されたグロスが指について、ほんのりと赤く染まりました。


 あの日、植え込みに傷付き彼女の指から血が流れたことを思い出しました。

 舐めた指は何の味もしませんでした。



 ──あの口付けは、きっと呪いだったのでしょう。



 私は、悲しくて仕方がなくなりました。


 だって。初めてのキスだったのに、ちっともどきどきしなかったのです。

 少女漫画のようにキスをきっかけに恋に落ちることはなかった、私は呪いをかけられてなお彼女への思いを友情としか定義できず、彼女の想いと噛み合うことはなかったのです。


 それが、どうしようもなく悲しかった。



「……私は、あなたと一緒に行けないんだわ」



 大好きなあの子へ『いつか素敵な恋を』と祈ったはずだったのに。


 彼女の恋を散らす嵐は、私だったのです。








 ──その後、高等部で私は彼女に会うことはありませんでした。


 七堀嵐は一家丸ごと忽然と消え、十数年の間私に連絡のひとつ寄越すこともなかったのです。

 そこにあるのはごくありふれた、家の零落のお話でした。


 さてこの結末を、どうして想像できましょう? 

 十五の娘が、親友に駆け落ちを持ちかけられて「はい」と言えるはずがありません。

 それが本気だなんて、思えるはずがありません。

 その手がまさか救いを求めていたなんて、わかるはずがありません。

 わかったとして、十五の私に何ができたのでしょう?



 電話番号を変えないことが、私にできたせめてもの友情の証でした。





 ◆




 ──そして現在。


 私は彼女の病室の前に辿り着き、足を止めました。

 部屋から、不穏な会話が聞こえたからです。

 病室から出て、一人、廊下を走り去っていく少女が目に止まったからです。


 それは、亜麻色の髪をしたセーラー服の女の子でした。


「待って!」


 呼び止めました。




「嵐、さん……?」




 振り返った少女は、


「…………いえ」


 当然、七堀嵐であるはずがなく。

 ただ、まったく瓜二つの顔をしているだけでした。


 奇妙なことに、『似ている』とは思わなかったのです。

 少女は、彼女と顔が同じなのに、まったく似ていませんでした。

 怯えるような目。

 細い手足とは不釣り合いに発育の良い胸。

 それを隠すように縮こめた背……何を語るにつけても自信に満ち溢れていた彼女とは、真反対の印象でした。


 唖然と立ち尽くす私に、ぎこちなく礼をして少女は名乗ります。


「七堀、咲耶さくやです……娘の」


 疑念を少しも隠さずに私を見下げて、


「あなたは……? 保険会社の人ですか?」


 背ばかりが高い痩せぎすの少女は、頓珍漢な質問をするのでした。

『見舞客』という当たり前の問いが出せない、その少女のずれに嫌な予感を覚えました。


「友達よ。お見舞いに来たの」

「友達……」


 少女は卑屈に笑います。



「あの人に、友達なんていたんですね」



 ──はたして私が、この少女と同じ年の時に、そんな嘲笑い方を知っていたでしょうか?



 わかりません。

 私の少女時代の記憶はとっくに美化されたもので、私は美化された記憶の中の七堀嵐以外を覚えてはいない。

 ……そんなことを娘に言わしめる母親となった今の彼女のことを、私は何も知らないのだと、気付きます。


「飲み物でも買って……どこか、落ち着けるところへ行きましょうか」


 知らぬ大人の申し出に警戒するように、「どうして?」と言う、少女から私はせめて目だけを逸らさず。



「だってあなた、今にも泣きそうだわ」



 答えたその瞬間にはもう、少女は泣き出していました。







 部屋から聞こえた、少女と少女の母親の会話を私は思い起こします。



『ざまみろ。わたしは、間違えない』


『一人寂しく死んじゃえ、クソビッチ』



 僅かに聞こえたそれは紛れもない呪いの言葉でした。

 病床の親にかけるには、あまりにも残酷な言葉でした。


 けれどその娘があまりにも、蔑ろにされて生きてきた人間の目をしていて、目の前でぼろぼろと泣き出してしまったものですから。

 私は咎めるなんてそんなこと、できるはずがありませんでした。



 甘い缶コーヒーを今にも握り潰しそうに両手に抱え、少女は嗚咽のように溢します。

 七堀嵐、という母親についてを。

 ──七堀嵐という女が、この十数年、ただ恋を追ってのみ生きていたという話を。

 病院の廊下のソファの上で、少女はスカートにぼたぼたと染みを作りながら。



「わたしの名前。たぶん父親だって思う男の、名前なんです。あの人は、わたしを呼ぶ時に。わたしを見てすらいなかった。ずっと、ずっと……!」



 ……それだけで、彼女が決していい母親でなかったことは嫌というほどに理解できました。


 私は隣で、それを聞きながら身勝手に傷付いていました。


『たぶん父親』という言葉に。たぶんという枕なしには『父親』と呼べない男の名を、娘につけたということに。


 ──私の名前を付けたりはしなかったのね。親友だったのに。貴女、私のことが好きだったんじゃなかったの? 裏切り者。先に裏切ったのは私だけど。私は、貴女の言った通り、十数年貴女という親友のことを覚えていたというのに……。



 覚えていただけで他に何という行動も起こさなかった私が思うには、あまりに醜すぎる恨み言を、言えるはずはありません。

 私の今の感情は、隣で少女の吐く嗚咽よりも醜いのですから。



「あんたが恋人を連れてくるのが嫌いだったんだ……」


 ──多分、それは私も嫌いだわ。


 七堀嵐の恋人の顔など見たくもない、と思いました。

 かつて彼女を振った女の分際で。


「あんたが、延々と男の話をするのが嫌いだった……」


 ──そうね、私も。自分が振ったくせに彼女には私のことをずっと好きでいて欲しかったのかもしれないわね。


 ひどい傲慢だと思いました。

 私たちの友情は、私たちの思い出は、娘一人の恨み言の前に塵へ化していきます。


「あっは……」


 母娘の笑い方が同じであると、気付いてしまうことすら嫌になってしまいそうでした。


「ざまあみろ……あんたの娘は最後に母親を捨ててやるんだ……。

 わたしは、あんたを──愛してなんか、やるもんか!!」


 聞くに耐えない、呪詛でした。



 ……おそらく、きっと。

 中学を卒業した後の七堀嵐の人生は、言い知れない苦難に満ちたものだったのでしょう。

 十数年関わりのなかった私には想像もつかず、想像することすらおこがましく無粋な道程を歩んできたのでしょう。

 線路どころか、舗装すらされていない道の上を。


 私は彼女の苦労を知りません。

 だから何を言う資格もないのです。


 ──それでも、このひとつだけは怒っていいと思いました。


 目の前のこの光景を。

 唇を噛みしめて、死にゆく母ではなく己を哀れんで泣く歪んだ娘が、ここに生まれていることを。

 あの頃出会った私たちと同じ年のはずなのに。あの頃、毎日をどう笑って過ごすかということしか考えなかった私たちと同じのはずなのに。

 上手に泣くことすらできない、愛されることすらろくに知らない子に育ててしまったことを。



 少女が母親との決別の言葉に、何故『間違えない』と言ったのかはわかりません。

 けれどそれが残酷な言葉であることはわかりました。



 ──何が正しかったのでしょうね。私は、正しい道を歩んで生きてきたつもりだけれど。


 せめて今からする選択が間違いではないといいのですが。




「私の名前をあげましょうか?」





 意味がわからなかったのでしょう。少女は唖然として泣き止みました。


「文月咲耶……いい名前になると思うの」


 意図をようやく理解して、理解した後に少女はゾッと顔を青ざめさせて、身を引きました。

 真意がわからなかったのでしょう。

 わからないことに怯えたのでしょう。

 きっと、大人を信じるということを知らないのでしょう。


 ……或いは、恋多き母と私の関係を間違ったふうに想像したのかもしれません。


 ──いいえ、私たちの間には何もなかったのです。

 ──何もなかったからこうなったのです。


 なんてことを、言う意味はありませんから。



「……少しだけ嫌いでなくなるといいと思ったのよ、あなたの名前が」


 ただそれだけを、言いました。

 本当はそこに強い後悔があることを押し隠して。



 別に、手負いの子猫を手懐けるようなつもりはありませんでした。

 かつて私たちが拾った子猫がいかにあっけなく死んでしまったかを覚えていましたから。


 けれどそれでも。

 まだ屋根くらいは作れるのだと思いたかったのです。



「考えてみてくれる?」



 あの日彼女の手を取れなかった私にも、まだ、救えるものがあるのだと思いたかったのです。







 ◆





 そして娘を置いて、私は彼女の病室へと入りました。

 ベッドの上、見る影もなくやつれた彼女は、けれどいつかとまったく同じ悪戯っ子のような笑みを浮かべていました。

 それは懐かしく、けれど最早懐かしいことすら悲しみでした。


 彼女は言います。

 もうすぐ死ぬと言った理由を。


「病気になりやすい血なんだよ。長生きしないのは知ってた」


 私は言います。

 娘を引き取る考えがあるということを。



「こうなることがわかってて私を呼んだのかしら?」


「君なら愛してくれるでしょ?」



 子供のように透き通った瞳が、私を見つめていました。

 言外に、責められているような気がします。


 ──君のせいでこうなったんだよ。

 ──君があの時、一緒に逃げてくれなかったから。



「……最悪」



 ようやく気付きました。

 彼女は、変わってしまったのではないのだと。

 きっと、七堀嵐は何も変わらなかったのです。

 変われなかったのです。


 ──そこにいるのは、今も恋に恋する永遠の少女でした。


 だから私は答えます。




「嵐。あなたの呪いには、かかってあげないわ」




 ……ああ、どうして。私たちは、死にゆく人間に決別の言葉しか告げられないのでしょう。



「私は良い母親になりましょう。私は一生恋など知らずに生きていくし、あなたがいなくなった後ものうのうと自分の人生を歩んでいた私は罪悪の念を引き摺ったりもしないわ。

 ……だから、安心なさい」


 そして彼女は、力なく、穏やかに微笑みました。


「敵わないな、琴ちゃんには」





「あたしね、琴ちゃんのことがずっと好きだったの」

「知っていますわ。私も、貴女のことが大好きでした」

「でもどこが好きだったのかは、絶対に教えてあげない」

「ええ、私も」


「さよならだね」

「さよならです」


「忘れないでね」

「それだけは、呪われてあげます」


「……今から病院抜け出してさぁ、遺影撮りに行かない?」

「いい加減にしろボケですわ」

「……そんな言葉は使わないんじゃなかったの、お嬢様?」


「時は残酷、という話よ」

「あっは、悲しいなぁ!」





 そして私は、病室を後にしました。


 本当はわかっています。

 信頼できる人に娘を託したかった。それだけなのでしょう、彼女が私を呼んだ理由は。

 それは多分『愛』なのでしょう。

 でも、だから『あなたの母はあなたを愛していた』と伝えたとして何になるのでしょう?


 愛は一過性であることを許されない、重い誓いです。

 一滴では器は満たされず、気まぐれでは注げない。

 人を愛するというのは本当に難しいことでした。



 けれど病室の前で待っていた娘は、私たちの話を聞いて、母の真意に気付いてしまったのでしょう。

 それが『愛』であると、察してしまったのでしょう。



「……ならどうして。もっと早く愛してくれなかったの」


 もっともな恨み言でした。


 ──ならどうして。もっと早く私を頼ってくれなかったの。


 私だって、本当はそう言いたかったのですから。




 けれど、人は正しくあれないもので。

 間違いに何を言っても今更意味はなく。


 辿った道が人を作るものであり、七堀嵐の人生はどこかでずれて、ずれたまま今の彼女を作ったというだけのこと。

 時は残酷で、気が付いた時には無敵だった少女時代はとうに過ぎ去り、思い出という魔法は綺麗に解けてしまったというだけのこと。


 そして私は。

 もう二度と、けして。


 彼女のことを忘れられはしないのです。



「……恋なんて、ろくなものじゃないわねぇ」



 私の呟きに、娘はこくりと頷きました。

 

 まったくもって、私たちは良い母娘になれる予感はありませんでした。

 私の胸の内は深々と絶望に彩られており、けれどその一切を悟らせないよう取り繕うことだけが、大人の矜持でした。







 ──きっと。


 恋とは崖の上に咲く花なのでしょう。

 追えば落ちる、捨てれば風に散る、手に入れたとしてもいずれは枯れて朽ちるだけ。


 どれを選んでもどうしようもないのなら。

 せめてどうか、呪われることがないように。

 この子がきっと、私たちのような愚かな道を歩むことがないように。



 ──叶うならば、いずれこの子の落ちる恋が、悔いなきものでありますように。





 この祈りが『愛』と呼ぶのに足るかどうかは、受け取る者だけが知ることでした。









 ◆◇






 そして今日も、文月琴は喫茶店の扉を潜る。

 真緑の扉の向こうには、喫茶店らしかぬスパイスの香りがほんのりと漂い、けれどその店で本当に美味しいものが何かを琴は知っている。


「ご注文はいつもので?」


 店員の青年に「ええ」と答える。

 プリンアラモードを二人分。

 向かいに座る誰かはいなくなって久しいが、琴は必ずそれを注文する。


「学生時代にね、よく通っていたのよ。この店に」


 ぽつりと溢した。



「あら、私。娘の恋人の働く店に通い詰めるほど、厄介な母親ではなくてよ?」



 青年は「まだ恋人ではないですけどね」と苦笑した。














『ねえ母様。わたしが好きで、わたしを好きでいてくれる人ができたんです』


『不思議ね。ずっと嫌いだったのに、名前を呼んでくれるのが嬉しいの』





『ね、母様。わたし、母様に名前を呼ばれるのも……ずっと好きでしたよ』








 そしていずれ、嵐は過ぎる。

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追うも捨てるも崖の花 さちはら一紗 @sachihara

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