ぬいぐるみ

墨隊員

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 トス、と目の前に置かれたクマのぬいぐるみを一瞥して、あおいは読んでいた文庫本から冷ややかに顔を上げた。

 テーブルを隔てた向かいには、こちらに乗り出すようにして佐和田さわだ和也かずやが立っていた。何を言うでもなく、ただ黙ってぬいぐるみをこちらに突き出している。

 500mlペットボトルほどの大きさのぬいぐるみを黙視し、そのまま読書に戻ろうとしたが、それでは誰もいない理科室で二人きり、というこの状況が、いつまで経ってもこのままだと悟り、面倒になってやめた。

「……ぬいぐるみ遊びがしたいなら遠慮しとくよ」

 文庫本に視線を落としたまま呟くが、佐和田からの返答はない。

 しばし続く無言の空間。

 校舎の外では野球部が放課後の練習をしていて、ときたま、カキン、という乾いた打球音が聞こえてくる以外は、静かで穏やかな平日の夕刻だった。

 キスでもしてくるつもりだろうか、と葵は思った。実は、佐和田が自分に対して特別な感情を抱いていることには気づいていた。それが友人としてのものであるのか、あるいはそれ以上の関係を望むものであるのかは知らないが。

 葵がそう考えるくらい、テーブル1つを隔てただけの二人の距離は密接していた。

 佐和田は踏み込もうとしている、と文庫を無言で読み進めながら葵は感じ取った。

「…佐和田、」

 先手を打とうと目線を上げた葵を呼吸ごと封じるような、絶妙に嫌なタイミングで佐和田が口を開いた。

「これについて、君の意見が聞きたい」

「……?」

「君はどう思う?」

「佐和田、これとは?」

 この場で「これ」と言えば、目の前に突き出されたコレしかない。

 クマのぬいぐるみである。

「……かわいいな?」

「そういう、女子みたいな感想が欲しいんじゃない。意見が聞きたいんだ。これの、本質についての」

 佐和田の細いメタルフレームの眼鏡が無機質に光る。その奥で葵を見つめる怜悧な目は、授業中の黒板や教師やホルマリン漬けの標本といった、目の前にただ在る有機体をとらえているときのそれと同じだった。

「そんなもの、聞いてどうする」

「君に対する僕の気持ちを整理するのに使う」

 めんどうくさい奴、と葵は笑った。

 本気か冗談かはわからないが、こうも真正面から突っ込まれたら逃げようもないじゃないか。まあ、彼はそれを計算した上でやっているのだし、自分もこういう言葉遊びは嫌いじゃないから、別にいいのだが。

「答えたくないと言ったら?」

「それも君の意見だ」

「じゃあ、問答は終わりだね」

「まだ終わってない。では聞き方を変える。君はこれを何に使う?」

 「これ」とは、やはり目の前に突き出されているクマのぬいぐるみのことである。

「質問の意図がわからない」

「だから言ってるじゃないか。僕の気持ちを整理するためさ」

 これだから理系オタクは苦手なんだ、と葵は思った。何かと屁理屈をこねるくせに、いちいちその筋が通っているのだからやりにくい。

 葵の気持ちを察してかせずか、西日を反射させた眼鏡を押し上げながら、表情を見せずに佐和田が言った。

「やっぱり答えたくないというなら、僕はこう思うことにするよ。君は、僕にも言えないようなことに、こういったクマのぬいぐるみを使っているのだと」

 別にそれならそれで一向にかまわなかった。ただ、目の前の彼が披露したがっている屁理屈には、少しだけ興味が沸いた。

 いいよ、と葵は答えた。

「その代わり、まず佐和田の意見から聞かせてもらおうか。佐和田は、このクマのぬいぐるみを何に使うのかな?」

「そんなの決まってる。枕元に置いて、夜のお供にするのさ」

「添い寝してもらうわけだ」

「違う。健全な男子高校生の夜のお供なんていったら、オナニーのオカズに決まってるじゃないか」

「……うん?」

 つい面食らったが、聞き返さないでおいた。典型的な冷静理論派タイプだと思っていたが、こういう発表会をしたがるような男だったのか。

「…ちなみに、このクマのどの辺が佐和田のオカズになるのか、あえて聞いてもいい?」

もちろん、と佐和田がうなずく。

「中身さ。ぬいぐるみの中身を想像して興奮するんだ」

「それって、ワタってこと?」

いいや、と佐和田。

「このぬいぐるみの中身じゃないよ。遊園地なんかに行くと、こういうぬいぐるみの中に人が入って、ショーをやったりするだろう? あの着ぐるみがたまらなく好きで、興奮するんだ。……まあ、最近では遊園地に限らず、いろんなところに着ぐるみ人間がいるみたいだけどね」

「……」

 やっぱりめんどうくさい奴、と葵は吐息だけでまた笑った。お披露目会の意図は見えた。しかも、彼にしてみればきっと渾身のギャグだ。

 この愛嬌表現に対し、さて何と答えようかと葵は思った。この男は自分の正体を知っている。遠まわしだが、聞きたいことというのはつまり、この正体に対する葵自身からの確言だ。

 まあいいや、と葵は思った。ここは知らないフリをして、一人の女子高校生としての意見を真正直に答えてやればいいのだ。

 仮に佐和田が本当のことを言っているとして、ぬいぐるみの中に人が入っている様子を想像してセックスする男や女なんて、珍しくもなんともない。本物の人間を着せ替え人形だと思い込んで殺し、着せ替えを繰り返していた自称・少女の男だっていたのだ。

 ぬいぐるみや人形をナイフでバラバラに切り刻んだり、手足を引きちぎったりなんていうのは、愛情や感情の少しばかり歪んだ表現方法のひとつにすぎない。そこに含まれる情は複雑かもしれないが、引き返せるならまだマシだろう。それすらも感情表現の一種であるならば、ただ抱きしめるだけなんて、いったいどれほど透明で眩しい心の有り様なのだろうと葵は思った。目の前に置かれたぬいぐるみの瞳が、キラリと輝いているようにすら思えた。


「それで、答えは?」

「抱きしめるために使いたい、と思うだろうね」

「ふうん、『思うだろう』ね。実際は?」

 実際は、どうなのだろう。ただ抱きしめたいと思っても、きっと自分は、素直にそうすることなんてできない。抱きたい、抱いてみたいと思うだけで、ぬいぐるみはただの飾りのまま、部屋の隅で汚れていくのではないだろうか。

「きっと、観賞するよ」

「なるほど。だろうね」

 こいつ、やっぱり最初から分かっていて聞いたな、と今さらだが腹が立った。

 珍しく一瞬だけ浮かんだ相手の怒りの表情を認めると、まるで難解な物理問題が解けたときと同じような表情を浮かべて佐和田が言った。

「僕のもうひとつの用途だ。これを、君にプレゼントする。今日は君の誕生日だからね」

 よくよく見ると、首に真っ赤なリボンが巻かれたぬいぐるみだった。しかもご丁寧に“Happy Birthday”と書かれた小さなカードまでくっついている。

「……まわりくどいことをするね、佐和田は」

「別にオナニーに使ってくれたって大歓迎だ。でも君は、観賞するんだろ? いろんな思いを込めて」

 ため息をついて「そうだ」と認める。

 いろんな企みが込められた小さなぬいぐるみをそっと受け取って、とりあえず、「ありがとう」と呟いた。


「ちなみに、」と、半分仕返しのつもりで葵が佐和田に聞く。

「君がオナニーするときにこのぬいぐるみの中にいる人間は、一体誰なのかな?」

「そこから先は、健全な男子高校生にとっての聖域だから。どうか悟ってほしい。」

そう言い残して、佐和田は理科室から出ていった。


 理科室にひとり残された葵の目の前に座っているのは、柔らかな茶色の毛と黒い瞳が愛らしい、クマのぬいぐるみだ。そして、その首に巻かれた真っ赤なリボンは、ちょうど人間の頸動脈から溢れ出たときの血と同じような、美しい色をしていた。

 アルコール臭い壁に囲まれた中途半端な静寂の中、ヌラヌラと光る赤いリボンを見つめながら、葵は少しだけ、「あの日」のことを思い出していた。

 今日は自分の誕生日。自分という造り物の人間がこの世に生まれ出ることになった、「あの事件」を起こした日からちょうど4年目にあたる日だった。



 遠いグラウンドからは、ゴキン、と金属バットに物が当たる、懐かしい音が響いていた。


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ぬいぐるみ 墨隊員 @sumi-taiin

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