火曜日の男とその失踪

長々川背香香背男

『指の多い猫』

 大学二年に上がると毎週火曜日に二限から五限までぶっ通しでカラー実習という必修科目が入った。

 その名の通りカラー写真についての実習授業であり、午前中の一コマのみが座学、昼食時間を挟んで午後の三コマは各々割り当てられた暗室で作業を行うというカリキュラムだった。

 カラー写真用の印画紙はモノクロ写真のそれよりも格段に感度が高いので、カラー暗室の通路はモノクロ用の大暗室の通路とは比べ物にならないほど暗く、暗幕で仕切られた四畳半ほどの作業部屋を出る際には「出まーす」と声をかけ、通路を歩く際にも「右歩いてまーす」などと控えめな主張をする習わしになっていた。ひとたび誰かが主張を怠れば、狭い通路内での学生同士の衝突は避けられず、衝突が次なる衝突を呼びカラー暗室の通路はたちまち阿鼻叫喚の無間暗黒プロレス地獄と化した。

 そんな火曜日の昼休みにだけ、為貝ためがいくんはやってきた。

 為貝くんが何学科の学生なのか、いったい何年生なのか、そもそもこの大学に在籍している人物なのか。僕たちは彼についてほとんど何も知らなかった。

 僕たちが為貝くんについて知っていた唯一の事柄は、彼が『ネイティブアメリカン研究会』なるサークルに所属しているということだった。

 初めて会った火曜日、為貝くんは末森のことを『柔らかい石』と名づけ、綿村のことを『夜鳴る鈴』と呼んだ。そしてその日そこにいなかったが何かの拍子に話題に出た長屋のことを『足音を嗅ぐ男』と命名し、僕のことは『斑のヒモ』呼ばわりした。

 そのようにして彼なりのインディアン・ネームを僕たちに授け終わると、為貝くんはその細い目をさらに一層細くして遠くを見つめ、それから厳かな声音でこう言った。

「ネイティブアメリカン研究会へ入らないか?」

「嫌です」と僕たちは答えた。


 それでも為貝くんは毎週火曜日の昼休みになると学食前のテラスでたむろしている僕たちのもとを訪れ、ネイティブアメリカン研究会謹製の紙巻き煙草を分けてくれた。

「僕のことは『指の多い猫』と呼んでくれ」と為貝くんは言った。

 彼はいつもジャンベに似た打楽器を担いでいて、昼休みの間中それをポコポコと叩き、予鈴が鳴るとどこへともなく去っていき次の火曜日まではまったく姿を見せなかった。まるで火曜日の昼以外のいかなる時間いかなる場所にも存在していないかのように。

 そんな為貝くんが勧めるままに僕たちがまわし呑んだネイティブアメリカン研究会謹製の煙草にはなにやら不可思議な効能があり、暗い場所はより暗く、明るい場所はさらに明るく感じられ、色彩はどうかと思うほど鮮やかになり、とにかくあらゆる感覚がやらがやたらめったらに過敏になり、おかげで僕たちのカラー実習は毎週難航を極ることになった。

 そもそも通路が暗すぎて踏み込めない、なんとか這うようにして暗室に辿り着いたものの今度は怖くて出られない、微妙な色合いが良くわからない、というか全然やる気が出ない。

 そろそろ作業の遅延具合が致命的になりかかってきたある火曜日、僕たちは思い切って為貝くんを問い正した。

「為貝くんの勧める謹製煙草のおかげで、僕たちの心身は異常をきたしている。その煙草にはなにかいかがわしい成分が含まれているのではないか?」

 すると為貝くんは僕たち越しに遠くを見るような目をして、それから厳かな声音でこう言った。

「僕のことは『指の多い猫』と呼んでくれ」

「教えてくれ『指の多い猫』!」と、僕たちが言ったかどうかは覚えていない。なぜならそのときすでに僕たちは、その火曜日の分の紙巻き煙草をまわし呑んだ後だったから。

「心身はどのような異常をきたすのか」と為貝くんは言った。

 僕たちが口々に症状を述べると、為貝くんはすでに糸のように細めていた目を更に細め、長い沈黙の後でこう言った。

「カラー暗室の通路は、暗くて長いからな。迷い込んでしまったらそりゃあ怖くもなるだろうね」

「質問の答えになっていない。あの煙草には……」

「右手の先で壁に触りながら歩くんだ。そうすれば迷わない。そうすれば変なところにはいかない」

 そこまで言ったところで予鈴がなり、為貝くんはいつものようにジャンベを担いでどこへともなく去っていった。

 カラー暗室へ向う道すがら僕たちは為貝くんの言ったことを検証していて気が付いた。為貝くんは写真学科の学生だったのだ。

 翌週の火曜日、為貝くんは姿を現さなかった。その翌週も、そのまた翌週も。

 しばらくの間、僕たちは為貝くんの下手くそな打楽器のリズムや人懐っこい笑顔、そしてなにより彼の謹製の煙草のことを恋しく思ったが、やがてそんなことよりも作業の遅れを取り戻すことが先決であると気づくと、それからは誰も為貝くんのことを話題にしなくなった。


 カラー実習の最終課題を提出した火曜日の昼、食堂のテラスで綿村が出し抜けにこう言った。

「『指の多い猫』は南の島へ行ったらしい。カラー暗室の通路を抜けて」

 なぜだか誰もが、ひどく納得した表情だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

火曜日の男とその失踪 長々川背香香背男 @zo_oey

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ