第8話

 木村先輩が失踪して、二週間。あれ以来、部内ではずっと鬱々とした雰囲気が漂っていた。

 翌々日に控えていたインターハイも結局、当人不在のため棄権という形で終わりを迎え、家族によって出されたらしい捜索届けの結果もあまり芳しいものではなかったようだ。


 あの日以降、木村先輩の話題はある種のタブーと化していた。まるで最初からそんな人物などいなかったかのように、誰も失踪事件について触れようとしなかった。

 そのおかげと言うべきか、最後に対面したはずの僕が他の部員たちからなんらかの追求を受けることは一切なく、精々顧問から軽い事情聴取をされた程度で収まっていた。


 僕の証言により、警察や自治体での捜索は市内の山を中心に行われているらしく、特に百目鬼高校からかなり近い所に位置している野伏山を重点的に探しているようだ。

 しかしながら、探せども探せども木村先輩どころかその痕跡すら一切見つからないというのだから、実際は山に居ないのではないかという話も出てきているらしい。


 野伏山と言えば白神さんの実家の野伏神社があったことを思い出す。警察や消防団の人達の拠点になっていてずっと騒がしいと白神さんが愚痴っていた。


 彼氏、或いは元彼が失踪したというのに白神さんは極めて平静を保っていた。それが原因でまた裏で陰口や謂れもない噂を流されているのだが、知ってか知らずか白神さんは特にそれらを気にした風ではなかった。


 寧ろあの日から、僕にやたらと絡んでくるようになった。その接し方はまるで恋人にするそれのようで、急なアプローチにドキマギもしていたがそれ以上に不気味さが勝った。

 なぜ、木村先輩があんなことになったというのに白神さんはこんなにも浮ついているのだろう。それほどに木村先輩が嫌いだったのか、若しくはどうでもよかったのか。


 なんにせよ、僕の方は以前のような関係を保ち、さらにはそこから発展させようと思える程の気概が完全に失せていた。

 正直なところ、白神さんがほんの少しだけ怖かった。


 気まずい雰囲気の中、ようやく練習が終わった。木村先輩が居なくなってからは着替えも皆早く済ませるようになった。まるで道場から逃げようとしているかのように、誰も彼もがそそくさと早足で帰路につく。


 ある日の再現のように、白神さんと僕が鍵当番になった。夕陽が地平線に沈むのを眺めながら、隣に座っている白神さんに無神経ともとれる質問を投げかける。


「白神さんは、木村先輩のこと好きやったん?」


「んー? まぁ、好きやったんやない? 付き合っとったし」


 白神さんは他人事を吐き捨てるかのように、そう言い放った。

 心底どうでもいいと言った感じで、女子部室の鍵に着いている変なおっさんのストラップで遊んでいる。


「嘘よね」


「嘘やないよ。 別に嫌いな男と付き合えるほどウチは暇を持て余してるわけでも、底抜けに優しい訳でもないし」


「じゃあ、なんでそんなにどうでもよさそうにしとるん? 好きやった人がおかしくなってどっか行ったんに」


 ぴく、と白神さんの華奢な肩が僕の言葉に反応した。


「……おかしくなってたって、四谷くんそれ初耳なんやけど」


 口調は気になってる風ではあったが、やはり表情は決して興味を示したようなものではなかった。


「ぼ…俺、あの日鍵当番やったんよ。 いつも通り木村先輩がドベでさ」


 一人称を変えたのは、精一杯のカッコつけか白神さんに呑まれないようにするための心許ない強がりか。自分でもどちらかははっきりとは判別はできない。


「本当はさ、あの日白神さんのことでなんか俺に言いたいことがあったんやと思う。 怒っとったし」


「……へぇー」


「それで外で今みたいに待っとったらさ、更衣室から先輩の悲鳴が聞こえて、今まで見た事ないくらい慌てた様子で玄関まで転がり込んできたんだ」


「それで?」


 とてもじゃないが、僕が今している深刻な話に適した相槌とは言えない。だが、その事に対する憤りよりも不気味さや得体の知れない怖さが僕の中で未だに勝っていた。


「……先輩、俺に鞄を必死に見せてきてさ。 見たら、鞄の中に白い髪の毛がいっぱい詰め込まれてて、先輩は顔真っ青にしながら俺に、『これしたのお前だろ?』ってさ、こっちは否定してんのにずっと俺を疑っててさ」


「……」


 最早、相槌すら帰って来ない。


「最後は、俺と先輩以外誰も居るはずないのに、肩を叩かれたって振り返って、そのままどっかに行っちゃって」


 喋っていて上手く声が出ない。なんの感情によるものなのか、自分でも最早わからない。だが、白神さんは何も答えずにストラップを弄んでいた。


「そんなんでさ、こんなこと聞いても白神さんはなんも感じんわけ…?ねぇ白神さん…」


 どうにか絞り出した震え声で白神さんの名前を呼ぶ。気がついたら、泣いていた。頬をつうと生温い水滴が這い落ちる。情けない、情けないとは思うがどうしようできない。

 白神さんは何を思ったのか、無言で立ち上がり、一歩前に出て僕の方へと向き直った。


「ウチはね、いや私はね、木村先輩がどうでもよかったわけやないんよ」


 そう切り出す白神さんは今までの彼女とはまるで別人、いや別の生き物にすげ替わったと錯覚してしまうほどに雰囲気がガラッと変わった。その表情は今まで見たことがないほど、穏やかなものだった。


「木村先輩がどうでもいいんじゃなくて、みーんなみーんなどうでもいい。裏で陰口叩いてようが、根も葉もない噂を流されようが、私をオカズに変な妄想をしてようが、嫌悪されようが、嫉妬されようが、好意を持たれようが、畏怖されようが、信仰されようが全部どーでもいいんよ」


 まるで流行りの歌を謳うように、白神さんは続ける。


「これだけ聞くとさ、私可哀想な人見たいやろ? でも実際、なにもかもどうでもいいんだ。ちっさい頃から他のヒトたちと自分が同じ生き物とは思ったことはないよ私。産まれてからずっと愛を注いでくれてる親も自称友人たちも戯れに作ってみた彼氏たちも、どーでもいい 」


「四谷くんはさ、そこらへんの虫に懐かれたとしてどう思う? 別に何とも思わないよね。 いや寧ろ不快感を抱いちゃうかも。虫けらが求愛行動を取ってきたら気持ち悪いっていう感想しか出てこないよね 」


 何が面白いのか白神さんはけらけらと嗤った。


「それとおんなじなんだ。 何かがきっかけで歪んだんじゃなくて、産まれてこの方ずっとそう。あ、でも小学生の低学年の時は違ったかな。 あの時は他のヒトたちがすっごい怖かったなぁ。 何考えとるかわからんし、何が面白くて笑っとるのかもわからんやったし。ずっと目立たないようにしてたなぁ。まぁ、高学年くらいになったら少なくとも男の子の考えとることは手に取るようにわかるようになったから別にどうでも良かったんだけど」


「四谷くんもさ、少しは共感出来るポイントあるやろ? 他の人には見えないものが見えて、変なものに好かれやすくて、そんなこと望んでもないのに。ウチもね、他のヒトたちと同じやったらもうちょっと楽しかったかもなぁ、って思わんこともないんよね」


 ま、どうでもいいんやけど。白神さんはそう言うとくつくつと笑い始めた。

 沈む夕陽を背に腹を抱えて笑う白神さんが、なぜか素晴らしく神聖なものに見えた。楽しそうに話していることは、残酷で非情なことなのに。


「まぁだからさ、どうでもいいんだよね」そう言うとさっきまで笑っていた筈の白神さんの表情から感情という色が完全に抜け落ちた。


 僕は何も言えず、どうすることも無く、こちらを無表情で見つめてくる白神さんから目を離すことができなかった。


 ヒグラシの鳴き声が寂しく僕らを囲む。互いに何も話さない。


 その時、ぎぃという錆びた金属音とともに道場のドアが開いた。立っていたのは気まずそうな表情を浮かべた二年生の先輩だ。恐らく、彼が最後だろう。


「お、おつかれ四谷、白神さん」


「お疲れ様です」


 白神さんは何も無かったかのように、にこやかな笑顔を気まずそうにしている先輩に送った。


「ウチらの話し声うるさかったですか?」


「い、いや俺は着替えながら音楽聞いてたから何にも聞こえなかったけど、どうかしたん…?」


 先輩はぽりぽりと頬を掻きながら困ったようにそう言った。白神さんはしばらく先輩の顔をじっと見つめた後に、また愛想良く笑った。


「いや、ならいいんです。 …でも聞かれとったらちょっと恥ずかしいな、みたいな。……ねっ四谷くん?」


 途端、先輩は何かを察したかのように「あっ」という声をあげて少し顔を紅潮させた。


「え、えっとぉ、ごゆっくり!」


 先輩はそんなことを言い捨てて、逃げるように階段を上がっていってしまった。クスクスと白神さんが笑う。


「今絶対ウチと四谷くんがイチャつきよったって勘違いしとったよ」


 僕は何も答えない。さっきの独白を聞いてなんと返せばいいと言うのだ。白神さんは黙り込んだ僕を気にした素振りもせずに、僕に顔を寄せてはにかんだ。


「さっきはさ、ぜーんぶどうでもいいって言ったけど、あれ嘘ばい」


「え…」


 白神さんは照れたように笑い、こう続けた。


「四谷くんだけは別。 他のヒトたちは本当にどうでもいいけど、四谷くんだけは違う。四谷くんだけは私の特別。 だから助けてあげたし、私の秘密も教えてあげたんよ。 そもそも、あんなんにウチの四谷くんをあげるわけないしね」


「何を言って」


「ねぇ四谷くん、ウチと一緒にこの部活やめん?」


「……え?」


 白神さんの頬は目に見えて紅潮していた。

 しかし、その様が何故だか心の底から恐ろしく感じでしょうがない。まるで心臓を握られているかのような、圧迫感。


「だってさ、今の状況で弓道部に居続けても気まずいだけばい? ウチも、四谷くんも。 ならいっそ二人で辞めてやらん? そしたらみんなびっくりすると思うんよ。ね?面白くない?」


 白神さんはまるで最高に楽しい悪戯の計画を話す子供のように、無邪気に笑っている。


「そんでさ、そんでさ。 出来た時間でさ色々なことして遊ぼうや。 四谷くんがどうしてもって言うなら木村先輩を探すのに付き合ってもいいよ? ウチはあんまりしたくないけど、四谷くんがしたいって言うなら別やし」


 今までに見た事ないくらいに眩しくて、純粋無垢な笑顔。でも、素直にそれを可愛らしいと思うことは出来ない。恐ろしいとか気持ち悪いとか、そんな感情が全部吹き飛ばされるくらい、僕の心は白神さんによってぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。

 夕陽は完全に地に堕ち、不気味なくらい綺麗な満月が僕らを宙から覗き込んでいるのが白神さん越しに見えた。


「白神さん…」


 僕がそう名前を呼んだ瞬間、白神さんはとても悲しそうな、今にも泣き出しそうな表情を浮べた。


「……そんな他人行儀な呼び方せんで、お願いやけ。ウチ、白神なんていう馬鹿みたいな名前やない。お願いやけこう呼んで 」


───伏姫って、呼んで


 恍惚とも取れるような艶かしい表情を浮かべながら白神さんは僕を見つめる。思わず息を呑む。いや、呑まれている。

 だめだ、これに呑まれちゃ後戻りが出来なくなる。だけど、いくら抵抗しても無駄なのだ。

 彼女と親しくなった時点で、いやそれ以前に彼女の人生に僕という存在が組み込まれた時点で、こうなることはきっと確定されていたのだ。

 

「伏姫…」


 そう呼ばれた白神さん、いや伏姫は今にも極楽に昇るかのような、満面の笑みを僕に向けた。月夜に照らされた伏姫の艶髪はまるで色を忘れてしまったかのように、白く美しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍宮忌憚『決まり』 九環 兎盧 @kuwatotoro3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ