第7話
「お前マジで調子いいな。 部活の後で話したいことがあるから待っとけ。 どうせ鍵当番やからいいやろ?」
終礼間際、木村先輩からそう告げられた時はどう返答するのが正解だったのだろうか。
結局のところ、僕は黙って頷くことしか出来なかったわけではあるが。
殴られるかもしれない、そうでなくても何かしらのトラブルに発展することは目に見えている。
どう言い訳したものか。いっその事、誰かに鍵を任せて逃げ帰るのはどうだろうか。いやそれはなんの解決にもならないどころか、木村先輩の怒りに油を注ぐことになるだけだ。
そんことをうだうだと、先輩たち全員が着替えを終えるまでの間に階段に腰を下ろして考えていた。
白神さんがなんとか弁明してくれないだろうか。しかし、恐らくそれも望み薄だろう。
今日が最後、などと言っていたしそもそも、木村先輩の怒りもそれに伴う僕の受難も知ったこっちゃないのだ。やはり、迫田が言ってた人物評は当たってるのかもしれない。
もっとも、先程の件に関しては白神さんに助けられたのも事実である。あのやり取りのせいで今の状況が生み出されたのも事実ではあるが、その点だけには感謝すべきであろう。胸の件は忘れるが懸命である、絶対に。
更衣室は今までに無いくらい静かだった。
三年生の大半が引退した今、木村先輩だけでなく二年生男子もあの更衣室で着替えているはずだが、どうやらそんな空気ではないようだ。
最後の部活だと言うのにそんな最後にしてしまったことを多少申し訳ないが、これからのことを考えるとそう思ってるばかりでもいられない。
一人二人と二年生の先輩が玄関から出てくる。彼等の表情はどれもどこか暗い。
「お疲れ様です」
「あ、うん」
別れの挨拶をして返ってくるのは生返事とどこか憐れむような視線だけ。それが僕がこれから受ける処遇をこれでもかという程に示しつけて来ているような気がした。
先輩たちが一人、また一人と帰っていく度に処刑台への階段を一段づつ登っているような錯覚に陥る。
あからさまに取り乱しているわけではないが、背中の汗は滝のようでまるで止まる気配がしない。
「ふぅー…」
意味もなく深呼吸をしてみる。そして屈伸、蹴伸び、その場で足踏みと着々と無意味な準備運動をしてみたが、一切の効果も望めずにいよいよ最後の二年生の先輩が帰路へと着いてしまった。さぁ、いよいよだ。
「ほんと、どうしよ」
無意識の呟きが虚空へと消える。今更、何を考えたところで不毛なことである。
今、更衣室にいるのは先輩だけ。いつ出てきてもおかしくない。着替えるのが一番遅いのはいつものことだが、その理由は今までのそれとは明確に異なる。それがまた僕の神経を震え上がらせた。
「やっぱり気をつけの姿勢のほうがいいかな」
どんな姿勢を見せれば先輩の怒りを鎮めることが出来るだろうか。僕は出来る限り最善の気をつけの姿勢を玄関に向けたまま保って、そればかり考えていた。
「うぉああああッ!」
今か今かと待っていた時、道場の中からそんな怒号が聞こえた。いや、それはどちらかというと悲鳴に近かったかもしれない。
その声の主が木村先輩であることは間違いなかった。
僕は思わず道場に入るべきか迷った。明らかに尋常ではない叫び声だったからだ。
しかし、僕が何かしらの行動に移る前に、道場の中からドンドンとまるで荒々しく太鼓を叩いた時のような足音で、木村先輩が玄関まで転がり込んできた。その両手には開かれたままの学生鞄が握られていた。
「えっ、どうしたんですか」
「おまっ、お前…これ、お前かっ…てめ」
呂律の回っていない口で何かを伝えようとしている先輩の顔は血の気が皆無なのではと思ってしまうほどに蒼白に染っていた。
先輩は必死に僕に開いたままの鞄を押し付けようとしてくる。思わず、鞄の中身の方へと目線がいく。
中身には教科書と文具、漫画の単行本数冊、そして処女雪のように白い髪の毛が大量に敷き詰められていた。
「えっえっ」
「お、お前が、お前だろ、これッ、な、なんてことすんだよてめ…」
先輩は完全に錯乱していた。当の僕も何が何だかわからずに混乱のまま、まともな返答をすることも出来ない。
「えっえっ、いやそれ自分は知らない…」
「うううう、嘘つくなやッ
お前しかおらんやろうが、嫉妬やろうがッ」
最早、先輩は聞く耳を持っていなかった。
本気で髪の毛を鞄に紛れ込ませたのが僕であると信じて疑っていないようだった。僕はどうすることも出来ずに、言葉になっていない弁明を懸命に投げかける。しかし先輩は血走った目で僕を睨みつけながら、罵詈雑言にもなっていない言葉の濁流を僕に叩きつけている。
「お、お前最低だぞッ!こ、こんなもんおれの鞄に………触んじゃねぇッ!!」
唐突に先輩がそう叫んで後ろに振り向き拳を突き出した。先輩は何かを殴ったつもりなのだろうが、その握り拳は虚しく何も無い空間の風を切った。
しかし、そのまま先輩は僕に背中を向けたまま黙り込んでしまった。完全に静止したと言ったほうが正しいか。まるで電源が落とされたかのように静かになった。
「先輩…?本当にどうしちゃったんですか」
先輩は何も答えない。ただ、その身体が小刻みに震えていることは見て取れた。
「先輩?大丈夫ですか?」
先輩はなにも言わずに、自分の真正面の虚空をじっと見つめ、身体を震わせている。
まるで、そういう習性の植物に変貌してしまったかのようだ。
「先輩!」
僕はいよいよ心配になって肩を叩いた。二度三度と回数を重ねると、先輩はゆっくりとこちらへ首を回し始めた。だが、動いているのは首だけでそこから下の胴体と四肢はまるで磔にされているかの如く、停止したままだった。
「ひっ」
思わず情けない声が漏れる。先輩の形相をみてしまったせいだ。
その様はまるで能面のようだった。ひん剥かれた目は僕を見ているようで全く別の所を見ている。涎が垂れたままの口元は、至近距離でも聞こえないくらいの音量でなにかのぶつぶつと唱えていた。
「あの…先輩」
「かえる」
僕のほうを見ずに先輩はそう言った。
「帰る…? 家にですか?」
「やまにかえる」
「山っすか…?」
「やまにかえる」
底冷えするほどに平坦な声色で先輩はそう何度も繰り返した。
「やまにかえる。 やま、おやまにかえる」
そして、先輩はゆっくりゆっくりとした歩調で足を動かしはじめた。その後ろ姿からは生気というものがまるで感じられなかった。
僕は声を掛けることはおろか、その場から動くことも出来ずにただ木村先輩を見送ることしか出来ない。
僕らを嘲け、侮蔑するかのような鴉の鳴き声が夕闇に響き渡る。
やがて、先輩はどこかへと消え失せ残されたのは呆然と立ち尽くしたままの僕のみになった。
「……あ、鍵を、閉めなきゃ」
ふと、そう思った。そんなことをしている場合ではないのに、そうすることが今の状況では一番であると、なぜかそう思えてならなかった。
僕はよたよたになりながらも、玄関まで歩いていく。ぼんやりとした頭のまま、ドアノブを握りドアを全開にする。いつものように真っ暗というわけではなく、電気が赤赤と道場を照らしていた。いつも消していく木村先輩が動転したまま、外に出てきたせいだと僕は察した。
玄関に入ってすぐ横にある電気のスイッチを全てオフにして道場を今度こそ暗闇に染め上げる。これで、何も問題ないだろう。
僕はドアを閉めて鍵をかけようとした。そこで、まだ踏んでいない手順があったことを思い出した。
「中に誰かいるか確認せんと」
すぐにドアを開けて、暗闇に包まれた道場を覗き込む。
「誰か残ってますかぁ」
返事はない。次は更衣室の方を凝視しながら呼びかけることにした。
「誰もいませんかぁ」
やはり、返事はない。いつもは返ってきてたあの濁った声は一切僕の呼び掛けに応えない。
「閉めますよぉ」
殆ど密室となった道場内で僕の声が反響するだけで、誰もなにも返してこない。
僕はすぐに外に出て、鍵を閉めた。そして何事もなく職員室前の鍵置き場に道場の鍵を収めて帰路についた。
その翌日も、その翌々日も、さらにその次の日、次の週も、誰もいない道場から声がすることも、後ろから肩を叩かれることも無くなった。
そして、それに伴うかのように木村先輩も部活から、学校から、そして家族のもとから煙のように消え失せてしまったのだ。
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