後編


 ふわふわと心が浮足発つ。

 嬉しいし、楽しい。


 夢だからだよ、と言われたら納得してしまいそうなほどだ。


 だけど夢じゃない。

 だから嬉しい。


 水谷の職場は歩いて三十分もかからないほど近い会社だった。

 棲んでるマンションは少し遠い区域だった。

 ここ数年、彼女はいないらしい。

 どうやら以前待ち合わせていた人は友達とその彼女だったらしく、私と別れた後に三人で食事したお店が大層美味しかったようだ。一度は行くべきだと食事の写真とともに熱弁されてしまった。


 そして、祝日が繋がったわけでもないただの休日に帰省したのは、私の母と偶然会うことを期待したかららしい。


 ――ねえ、それって本当に『偶然』なの? これで期待しない女の子はいないでしょう?


 お酒は酔い潰れてしまうほど飲んでいないはずだ。それなのに舞い上がってしまう気持ちが乗算されて、表情筋はへらへらと終始緩み切っている。

 このまま幸せな気持ちに浸っていたいと思っていたら意識まで遠退いてきた。


 そんな私を頬杖をついてグラスを傾けながら眺めていた水谷は、何てことない、思ったことをただ口に出すように話し出した。


「春菜さ、なんで髪切ったの? その色だって、会社に許されてるのかって春菜さん驚いてたぞ」


 こてん、と顔を傾けると短くなった横髪がさらりと視界の端を流れた。

 お店の照明が当たって、綺麗に透き通った髪色。

 実はブリーチもしてしまった。

 染めたばかりの時は色んな意味でどぎまぎしっぱなしだったけれど、とても気に入っている。

 何度か前に会った時の水谷の髪色なのだ。


「へへ、ぎりぎり怒られなかったよ。多分呆れられたけど。もしかして、変? 似合ってない?」

 前回会った時に似合っていると言われて内心喜んでいたが、もう一度言われるということはやはりお世辞だったのだろうか。

「いや、似合ってるよ。可愛い。けど俺は、はるの長い髪が一番好きだなって思ってさ」



 似合ってるよ。

 可愛い。

 けど俺は、の長い髪が一番好きだなって思ってさ。



 似合ってるよ、可愛い、はるの長い髪が一番好きだ――――



 柔らかくて優しい陽だまりのような、の透き通った声音が、何度も脳内を駆けまわる。

 これは本当に夢じゃないのだろうか。

 ふにゃりふにゃりと笑みが零れる。

 締まりのない緩み切った顔になっている自覚はあるけど、もうどうしようもできない。


「嬉しい。それならやっぱり伸ばそうかな~。えへへっ」


 両肘をついて揺れる体を支えながら両手で頬を包み込む。

 じんわりと温かくて、熱を生み出している。


 そうして、熱に浮かされた瞳で晴君を見つめる。


 やっぱり好きだ。

 私は晴君が好きなのだ。

 一体いつからなのだろうか。


 わからないけれど、もう諦めないことにする。

 逃げないことにする。

 晴君が用意してくれたチャンスをきちんと受け取ることにする。


「でさ、なんで? もしかして失恋でもしたのか」


 なんで?

 そんなに晴君は私の髪型を気にしているのだろうか。

 晴君なんて会うたびにがらりと変えているのに。


「う~ん? 晴君、彼女と待ち合わせしてたんだと思ったけど勘違いだったみたい。それに、髪型変えたら晴君は私なんかに気づかないんじゃないかって思ったけど、違ったね。嬉しかったな、えへへぇ」


 瞼を閉じると昨日のことのように思い出せる。

 当時は嬉しさの他にどろどろとした感情も混ざり合って素直に喜べなかったけど、今は違う。


 嬉しいんだ。その言葉しか出てこないのだ。



「……お前、酔いすぎだぞ。送ってくよ」


 向かいの席から呆れた、けれど柔らかい溜息が聞こえた。

 そんな溜息さえも、やっぱり好きだ。


「やだ、まだ時間はあるよ」

「いつでも会えるだろ。ほら、行くぞ」


 腕を優しく引っ張られて、渋々腰を上げる。

 私の家は職場から近い。そしてこの居酒屋も職場から近かった。待ち構えていたタクシーに乗ってしまえば、初乗り料金であっという間に着いてしまうのだ。


 フラフラな私のせいで、晴君もタクシーを降りてマンションの中へと一緒に入ってくれる。エレベーターを待っている時も、ドアの鍵を開けている時もずっと。

 晴君の温もりがすぐそばにある。離れたくない。


「あとは一人で大丈夫だよな?」


 私が靴を脱ぎ終えるまで支え続けてくれた晴君は、そう口を開いた。


 確かにもう一人で大丈夫だ。

 だけど、大丈夫じゃないのだ。

 それを言い表す言葉がでてこない。


「はる君……」


 晴君だけはいつでも鮮明に見える。

 というよりは、熱に浮かされた視界では晴君しか見えない。


 ――ごくり。


 見上げていた晴君の喉仏が上下した。

 男らしいな、晴君ももう大人の男の人なんだなと、晴君に対するイメージが急速に塗り替えられていく。


「……んぅっ」


 ぼんやりと考え込んでいた私が気づいた時には、抱き寄せられて口を塞がれていた。

 触れたところから伝わってくる、薄くてすっきりとした晴君の唇だ。少しだけひんやりとしていたそれは、どこもかしこも熱をもつ私にはとても気持ちが良い。


 持ち上げるように引き寄せられたため、身長差のせいでつま先立ちだ。加えて、立ち位置が少し離れていたため前のめりになってしまい、力が抜けて崩れ落ちないよう必死に晴君の服を掴む。

 瞼を閉じて受け入れると、私の頭を覆っていた手の力が更に強まった。

 隙間がないくらい密着して、声が漏れ出ることさえない。

 鼻で呼吸をするにも、鼻息がかかってしまうのが恥ずかしくて思うようにできない。


 一体どの位の時間が経っただろうか。

 一度離れて呼吸を整え終えたら、また呼吸ができなくなって。


 私は元々熱に浮かされていたけれど、晴君から向けられる視線もまた、いつの間にか熱っぽかった。


「はる、くん……」


 中、入ろう? と言おうとした時だった。

 その言葉を遮るように晴君は私の態勢を戻してから、くるりと身を翻した。


「帰る。鍵、ちゃんと閉めろよ」


 固く、冷えた声だった。

 返事をする間もなく目の前の扉が開いて、晴君が消えていく。


 バタンと音を立てて閉まって静寂が訪れた途端、今度はへたりとその場に座り込んだ。


 行っちゃうの? 帰っちゃうの? ――晴君。


 当然といえば当然だ。

 だって、私達は付き合っていない。

 好きだと気持ちを伝えてもいない。


 晴君は、見境なく女の子を襲うような人じゃない。……と、思う。


 でも、行っちゃうの?

 あんなに、あんな風にキスして、帰っちゃうの?


 中々動き出せずに呆然としていた。

 そしたら再び音を立てて扉が開いた。

 その僅かな隙間から晴君が顔を覗かせる。


 やっぱり、晴君も名残惜しくて戻ってきてくれたの?


 そんな淡い期待はすぐに消え去った。


「か! ぎ! 早く閉めろ」

「……はぁい」

 返事を聞くなり再び閉められた扉へと、崩れ落ちた腰をなんとか持ち上げて手を伸ばす。

 カチャンと金属音が小さく響く。

 扉越しに、離れていく足音が聞こえた――



◇◇◇


 翌日になって、自分の行いに顔が青ざめた。

 あんなに酔って、浮足立って、へらへらと笑うことなんて一度たりともなかったのだ。あれでは声に出してないだけで、全身で好きだとアピールしてるようなものではないか。

「うぅ……っ、恥ずかしい」

 本当の恋ってこういう感覚なんだろうか。今までの『好き』は違ったのだろうか。

「会いたいな、晴君……」


 ――そして、好きだと言いたい。


 なんで帰ったのかはわからないけれど。

 だけど晴君だって私のこと、多少なりとも好いてくれてるんだよね?


「連絡先……って、だめだ!! 私のバカ」

 傍に置いてあった携帯をポチポチと操作して、すぐにベッドの端へ放り投げた。

 あんなに話していたのに、連絡先すら交換できていないなんて。

 けれど、まだ手はある。

 勤め先も勤務時間も雑談の中で確認済みだ。

 仕事を早く切り上げてれば、晴君がしていたように私も待ち伏せができる。


 それしかない。

 今度は私が会いに行く番だ。


「なにはともあれ、まずは仕事か。やだなぁ」


 行かないわけにはいかないけれど。

 重苦しい溜息を飲み込むことはできなかった。



◇◇◇


「水谷……、なんでここに」


 道端にしゃがみこんで携帯をいじっていた水谷に気づいた私は、離れた位置でぴたりと止まった。

「お前こそ。こんな時間まで、どこ行ってたの?」

 水谷が私を視界に留めるなり、立ち上がってずんずんと近寄ってきた。

 眉間には皺が寄っているし、不機嫌を隠そうともしていない。


 既に月は空高くまで登っている。

 どこにいたかなんて口に出すのは恥ずかしいけれど、水谷も私と同じなのだからお相子だ。


「水谷の職場前で待ち構えてたんだけど……、中々でてこないから遅くまで残業してるのかと思って」

「え、いつから?」

「えっと……、五時頃から?」


 焦った水谷を見るなんて新鮮だ。

 幼い頃を除けば初めて見たかもしれない。

 私の返答に驚いたり、視線を斜め上に向けて考えていたり、顔が青ざめたり。

 どれも初めてで、その全てに嬉しいと思ってしまう。


「もしかしてさ、大通り沿いの出入り口にいた?」

「え、うん。そうだけど。もしかして、他にも出入り口あったの?」


 待ってる間その可能性も頭を過ぎった。

 けれど、あきらかにそこに務めている社員のような人たちが続々と出てきていたから、大丈夫だろうと思っていたのだ。


「あぁ~……、そうなんだよな。裏の出入り口使う人少ないから、しょうがないんだけどさ。それで、こんな時間まで俺を待っててくれてたんだ?」


 直に言われてしまうと恥ずかしくて、視線を逸らしてはまごまごと口ごもる。

 素直に答えられない私の頭上からは、「怒るべきだけど嬉しいから困るんだよなぁ」と唸り声とともに呟きが落ちてきた。


「ええと、水谷は? どうしてここにいるの」

「同じだよ。はるの職場行っても出てこないから、もしかしたら仕事休んだのかと思ってインターホン鳴らしたけど出ないから、こうして待ってた」

「じゃあすれ違いになっちゃったんだね」

「そうみたいだな」



「「……」」


 夜の喧騒と車が走る音が遠くで聞こえる。

 けれど、私たちの間だけは静かな、澄み切った静寂が流れていた。


「でさ、なんで名字呼びに戻ってんの。俺悲しいんだけど」


 降り注ぐ声は口調のわりに柔らかくて暖かい。

 昔みたいに呼んでよ、とお願いされているような気持ちになる。

 急速に昨夜の熱がじわりじわりと押し寄せた。


「晴君……、好き」


 吐息をこぼすように呟く。

 昨夜のように熱に浮かされた瞳で見上げたら、私を見返す晴君も同じだった。

 降り注ぐ視線が熱くて眩暈がする。


「うん、俺も。はるが好きだ」


 満面の笑みで返されて、それがきらきらと眩しくて。

 私も嬉しくてへにゃりと綻んだけれど、見つめ合うのが恥ずかしくて晴君の胸におでこを預ける。

 視界に入った手を指先でそっと触れると、ひんやりと冷たかった。


「なんでかさ、はるを好きだって思ったことなかったのに、唐突に何してんだろうなって思い出すんだよな。それに人混みに紛れててもはるだけはすぐ分かっちゃうし。そんで、やっと気づいたわけ。俺ははるをずっと探してたんだなって」


 抱きしめたい衝動が駆け巡った。

 晴君の言葉全てが嬉しくて、声にならない衝動をぐりぐりと額を晴君の胸に擦ることで落ち着かせる。


「私も、そうなの。何気ない生活の中でふいに思い出すのは、いつも晴君だったの」

「っ、可愛すぎかよ」


 ぼそりと漏れ出たその声ははっきりと聞こえた。


「ね、晴君もご飯まだでしょう? おもてなしは出来ないけど、今日は上がってってくれるよね? 体も冷えてるし、そうしようよ」


 夏とはいえもう夜は冷たい空気が支配している。

 私の手も、そして晴君の手も冷え切っていて、それが二人してお互いをずっと待ち望んでいた証だった。


 早く温まりたい。

 ――晴君の温もりを感じたいのだ。


「それってさ、俺が狼になってもいいってこと? 酔った勢いだと思われたくなかったから、昨日は我慢したけどさぁ……」


 晴君の可愛らしい大きな瞳が細まって、光を放つ。

 投げかけられた問いかけには、言葉の代わりに触れていた指先を絡めて歩き出すことで答えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘れられないの 青葉 ユウ @ao_ba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ