忘れられないの

青葉 ユウ

前編


「――春菜。久しぶり」



 人々が行き交う騒めきの中、その声だけは鮮明に浮かび上がって耳に届いた。

 呼ばれた自分の名に、周りのスピードに合わせて動かしていた足がぴたりと止まる。

 『はるな』なんて、ありふれた名前だ。

 だけど、呼ばれたのが私だということは確信があった。


「水谷……?」


 歩道の中心で立ち止まる私を迷惑そうに避けていく人々の舌打ちが聞こえた気がした。

 隙間を潜り抜けながら、少しずつ歩道の端へと寄る。右へ左へと行き交う人々は中々途絶えない。信号が赤になれば少しは落ち着くのだろうが、信号が青に変わったばかりなのだ。待ちきれずに背伸びをしながらキョロキョロと辺りを見渡していく。

 そうして、目の前を背の低い女性が通った時に目的の人物を見つけた。

 ばちりと目が合うと、車道沿いに立つ私とは反対に建物の壁に背中を預けていた水谷はひらりと手を振った。

 私が見つけ出すのを待っていましたと言わんばかりに微笑んで。


 今回は随分と明るいアッシュグレーに染めたようだ。

 水谷は会う度に髪型も色味も変わっている。それに髪型に合わせて装いをガラリと変えるお洒落さんだ。

 けれど、やっぱり水谷は水谷なのだ。

 いくら見目を変えようとも、醸し出す雰囲気は何も変わらない。


 信号が変わり人の流れが途切れた一瞬を見計らって、水谷の元へと駆け寄る。

「久しぶり。田舎でもないのに、こんなにばったり会うなんて毎度のことながら驚くよね」

 向き合って話すとまた歩行者の邪魔になってしまうので、横に並んで壁に背中を預ける。首を捻り上げて見上げると、水谷もまた首ごと頭を下げて私へと顔を向けていた。

 薄い唇が弧を描いて頬を持ち上げている。

「それな。今日はこれから出かけるんだ?」

 今日の私の服装は、袖がシースルーの夏らしいワンピースだ。

 仕事のある日に出くわした時はスーツとまではいかなくてもきっちりとした格好をしていたので、仕事が休みの日だと判断したのだろう。


「うん。少し歩いた先にあるデパートの近くにカフェができたの知ってる? あそこのアップルパイが絶品だって聞いたから気になって」

「あ〜、そういえば俺も聞いた。絶対一度は食べろって言われたけど、中々行けてないんだよなぁ」


 当時の会話を思い出している最中のようだ。空を仰いでいるので表情は見えなかったが、その声音は食べたいと言っているように聞こえた。


 ――そういえば、水谷も甘い物好きだったっけ?


 母が遊んでいた私たちにケーキを用意した時はいつも、目を爛々と輝かせていた覚えがある。とはいっても、もう二十年近く前の話だ。そんなに時が過ぎていれば味の好みは多少なりとも変わっていることだろう。

 絶対に一度は食べろと言われているなんて大絶賛ではないか。ならば売り切れになる前に早く行かなくては。


 より楽しみになったと、売り切れになる前に急いで行ってくると言うつもりだった。

 いつものように、軽い挨拶だけで別れるつもりだったのだ。


 それなのに。

 口から出た言葉は思いもよらないものだった。


「――水谷は? もし空いてるなら一緒に、行ってみる?」


 元々大きく縁取られている水谷の瞳が、更に大きくなってこちらを凝視していた。

 そして、その瞳に映る私自身も目をまん丸と見開いていた。

 驚くのも無理はない。

 私たちは二人で出かける程仲の良い間柄ではないのだ。


「わるい、もうすぐ人が来るんだ。……ごめんな」


 その待ち人はもしかしたら彼女なのだろうか。

 言いにくそうに、けれどはっきりと伝えられた言葉は、逃げ出したくなるには充分だった。


「やだな、言ってみただけだよ? そんな二回も謝らないでよ。ほんとに軽い気持ちで言ってみただけなんだから。それじゃ、売り切れになってたら悲しいからもう行くね! また、ね。……また、どこかであったら」


 壁に寄り掛かっていた背中をすぐさま離して、水谷の正面に立つ。

 へらりと笑いながらペラペラと言い訳のように言い切ると、胸元で小さく手を振ってから歩き出す。

 信号が青になったことは確認済みだ。

 人の流れに入り込もうとするとスピードもグンと速くなった。

「ああ。……また、な」

 少し離れた距離からでも聞こえた水谷の声と、数分前とは違って重々しく掲げられた手を確認したら振り返ることやめて前を向く。


 いつも通りだ。それでいいじゃないか。


 そう心の中で自問自答していると、僅か数秒後に水谷の名を呼ぶ甲高い声がいやに耳についた。

 人や車、そして街中のあちこちから流れる音楽やアナウンスの喧騒の中でもはっきりと。


 人の流れに合わせていたのなんて、最初の数十秒だけで、その後は追い越す勢いだった。

 早足から、駆け足になって。

 それから全力で走った。

 周りへの迷惑なんて、既に考えられなかった――……



◇◇◇



 水谷とはどんな関係かと問われたら、『交流のなくなった、けれど復活しつつあるかもしれない幼馴染』だろうか。


 階は違えど同じマンションに住んでいたということもあり、小学校中学年までは頻繁にお互いの家を行き来していた。今思えば、保育所から同じだったため親同士の気が合っていた要因が大きい。

 けれど、高学年になってからは水谷はスポーツクラブに通い、中学生になってからはお互いに活動時間の異なる部活に励んでいた。それに、ちょうど思春期真っ只中だった。

 顔を合わせること自体が年々減り、男女の垣根ができてからは、もう同じ学校に通うその他大勢になっていた。


 高校も同じだと知ったのは、入学後のクラス分けを見ていた時だ。

 しかし同じクラスになったことは一度もなく、廊下ですれ違った際に目が合うことはあっても、これといって雑談するわけでもなかった。


 卒業後の進路は勿論違うし、就職先も知らない。


 親同士が今も交流があるのかは知らないが、私達が全く関わらなくなったことは周知の事実だろう。水谷の名を口に出さなくなった私に対して、母が水谷の母親から聞いているかもしれない水谷の近況を伝えてくることもなかったし、私も尋ねようとも思わなかった。


 だから、地元から遠く離れた都会でばったりと、それも何度も会うなんて思っておらず、毎回お互いに驚かされていた。


 一回目は大学に通い始めて少し経った頃だ。

 夕暮れ時、学校や仕事が終わり帰宅する人々で混雑した中、「春菜」と呼ばれた。

 なぜだか、自分が呼ばれたことに気づいた。

 けれど誰に呼ばれたのかはわからなくて、辺りを見渡しても人混みで分からなくて。気のせいだったかもしれないと歩き出そうとしたら肩を叩かれて、見上げたら水谷がいたのだ。


 二回目は就職活動中だった。

 雨がザーザーと降り、傘を差していることすら無意味に思えていた時、「春菜」と再び呼ばれた。

 私の名を呼ぶ声音だけで水谷だとわかった。

 お互い濡れ鼠だな、と笑いあって、風邪を引かないように気をつけようと話しただけだ。

 それだけの会話だったけれど、就職先が中々決まらず鬱々としていた気分は雨に流れ落ちた。


 三度目は仕事帰りの夜道だった。

 遅い時間だったこともあり足早に歩いていた時に、またもや「春菜」と呼ばれた。

 足元を見ていたから気づかなかったけれど、水谷は反対側からこちらに向かって歩いてきていたらしかった。家まで送ると言われたが、細道を通る必要がなく、街灯で照らされた道を歩けば辿り着くので大丈夫だと断って別れた。

 

 それ以降は数えることを止めた。

 幾度も偶然会ったといっても、一年の間に何度そんな機会が訪れたのかと問われると返答に悩むところだ。一年以上間があった時もあれば、一月もせずに再会することもあった。

 なのだから、そういうものではないだろうか。


 そうして、気づいたら声をかけて挨拶はするけれど、決して連絡先を交換しようだとか、お茶でも飲みながら雑談しようだとか、そんな一歩踏み込んだ仲になることは一切なく長い月日が流れていた。


 だから、『交流が復活しつつある仲』なのだ。


 その一歩を踏み込みたいと思ったことなんてなかった。

 偶然出会ったときに声を掛け合う距離感に満足すらしていた。


 けれど、そう思い込んでいただけなのかもしれない。

 実際はもっと近づきたいと、昔のように仲良くしたいと心の奥底で望んでいたのかもしれない。



「――――あぁ、やだな」


 こんな形で自分の気持ちに気づいてしまうだなんて。

 思い返せば、気づくきっかけはいくらでもあったのに。


 学生時代に水谷を好きだと思ったことなんてない。

 女の子と仲良く歩いている姿を見かけたことが何度もある。それに対してなんとも思わなかったのだ。それなのに、今でもその時見た二人の後姿を朧気ながらも思い出せる。


 私だって彼氏は何人かいた。中には二年ほど付き合い続けた人だっている。

 けれど、その誰にものめり込むことはなくて。いつも、冷めてるよねって、時には可愛げがないとも言われた。

 自分でもそうなのだろうと思っていた。

 好きだから付き合ったけど、結婚したいと思えるほどの人はいなかったし、別れた後に思い出して懐かしんだり、後悔したことなんてない。


 それなのに何気ない日常の中でのふとした拍子に思い浮かぶのは、いつも水谷なのだ。


 単に幼い頃の日々を懐かしんでいるだけだと思っていた。

 けれどよくよく考えてみたら、赤の他人になっていた中学生や高校生の頃の水谷の姿が浮かぶほうが多かった気がする。


 ――今更、もう遅いのに。


 先ほど会った水谷は、お洒落だけどラフな格好をしていた。

 どんな職に就いているのかは未だに知らないが、今まで見てきた様子からするに仕事ではないのだろう。となると、最も考えられるのは一つ。彼女との待ち合わせだ。

 掲げられた左手の薬指には指輪を嵌めてなかった気がする。

 けれど、それも時間の問題かもしれない。


 何も知らないから。

 知ろうとしなかったのだから、全て自業自得だ。


 思い返せば、いつも声をかけてきたのは水谷からだった。

 幾度と繰り返された再会の中で、私が先に気づいたことは一度すらなかったのだ。


 髪型が毎回変わるから、なんてただの言い訳だ。

 私は街を歩いている最中に、もしかしたら知り合いとすれ違うかもしれないなんて思ったことすらなかったのだから。風景の一部としてしか認識していなかった私が気づけるはずもないだろう。


 それでも。

 ただの言い訳だと思っても、それに縋るしかない。


 どのくらいなら明るくしても上司から注意を受けないだろうか。

 そんなことを考えながら、無機質で冷たい携帯を耳に当てて、コールを鳴らした。



◇◇◇


「春菜……? 驚いた、思い切ったんだな」


「……水谷。久しぶり」


 なぜ、気づいてしまうのだろうか。

 なぜ、私を見つけてくれるのだろうか。


 悔しさと嬉しさ、そしてどう接したらよいのかわからないもどかしさがない交ぜになる。


 あの日から半月も経っていなかった。

 なんてタイミングの悪い『偶然』なのだろうか。

 一年、せめて半年くらいは間を空けてほしかった。

 そうしたら、気持ちの整理ができていたかもしれないのに。


「印象が全然違うから、声かけて知らない人だったらどうしようかと迷ったよ」

「あはは。美容師さんがショートも似合いそうだって言ってくれたから、お任せしてみたの」

「うん、確かに似合ってる」

「そう? ありがとう。お世辞でも嬉しい。それじゃ、また、どこかであったら」


 胸元で小さく手を振って歩き出す。

 と同じように、一言二言だけであっさりと別れる。

 それでいいのだ。


 だって、どうしたらいいのか分からない。


 それに今日はこの後予定があった。長話をできる時間的余裕もない。

 だから、いいのだ。


 私の願望かもしれない。

 視界の端で手を伸ばしかけた水谷を、何かを言いたそうに口ごもる水谷を見た気がした――



◇◇◇


「お疲れさん、春菜」

「……え、なんで?」


 今度は絶対、偶然とは言えない。

 だって、仕事が終わって会社を出たら、正面の歩道の端で水谷が待ち構えていたのだから。


「この前帰省した時にさ、偶々に会ったんだ。そんで世間話してたら、春菜の勤め先も教えてくれたから」

「え、それで、……なんで?」

「ふはっ。なんでもなにも、偶にはゆっくり話でもしない? それとも、もう何か予定入ってた?」


 困惑して言葉の出てこない私を見て吹き出した水谷は、口角を上げて頬を持ち上げながら誘うなり、今度はしゅんと捨てられた子犬のように肩を下げた。

「今日、は真っ直ぐ帰って洗濯しようかと」

 未だに落ち着きを取り戻さない思考の中、仕事をしながら考えていた予定をそのまま口にする。

「なら大丈夫だな。実はもう居酒屋予約してんだ、行こう」

「あっ、待って……!」


 お盆でもお正月でもなければ連休もない今時期になんで帰省したのかとか、そんな偶然母とも会えてしまうものなのかとか、そもそも彼女は怒るんじゃないかとか、洗濯は今日のうちにしておきたいんだとか。

 そんな事はもう後でいいやと思えた。


 後ろも振り返らずにスタスタと歩いて行く水谷の隣に並ぶために、小走りで駆け出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る