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「・・・僕もそろそろ行くとしようかな」

 しばらく彼女を見つめ、僕はおもむろに口を開いた。

「また来るよ。寒いだろうけど、ちょっとの我慢だからさ」

 羽織っていたコートの襟を正し、置いていた鞄を手に提げる。そしてコートの内ポケットに手を入れると、僕はある物を取り出した。

「これ。少しの間、君に預けるよ」

 折り曲がらないように丁寧に取り出したもの。それは、一枚の写真だった。ジェスが大事にしていたものらしく、家で保管するより僕に渡したほうが良いということで、ジェームズが手紙とともに送ってくれたのだ。

 その写真には、僕とジェスが二人で写っていた。僕は黒のスーツ姿で、そしてジェスは真っ赤な長袖のドレス姿で、その手にシャンパングラスを持ち、お互い隣同士で立っている。白い歯を見せにこりと笑うジェスと、引きつった笑顔を見せる自分。これを見るたびに、あの時の記憶が鮮明に瞼に浮かぶ。

 三年前のあの時。これは、全てが始まった時の最初の一枚だった。心を弾ませ、希望を抱き、何よりも幸せだったあの瞬間。この写真が二人で写った最初で最後の一枚になるなんて、知る由もなかった。

 僕はそのまま写真を裏返した。そして、そこにある文字を見つめた。


 "The love of my life"


 特徴的な丸みを帯びた字だった。それは間違いなくジェス自身が、彼女の手で書いたものだった。少しその字体が歪んでしまっているのは、決して字が下手だというわけではない。動かなくなっていく体に精一杯抗い、彼女が時間をかけて言葉を紡いだ証だった。写真に鼻を近づけると、微かにジェスの香水の匂いがした。鼻孔を刺激する、柑橘系の匂いだった。

「・・・僕のこと、思い出してくれるといいんだけど」

 僕はそう呟くと、その写真を彼女の前に置いた。添えられた花を重しにし、風に飛ばされないよう上手く固定する。

「それじゃあ、僕は行くよ」

 鞄を背負い、コートのポケットに両手を突っ込むと、僕は振り返った。そして、そのまま彼女の元を離れようとした。

 その時だった。


 ソースケ、またね。


 僕は立ち止まった。後ろから声が聞こえたような気がして、思わずその場を振り返った。もちろん、そこに彼女はいない。僕一人しかいないことは、自分でも分かっていた。

 目の前にあるのは、その女性の名前が刻まれた小さな墓と、そこに添えられた花。そして、僕たちが写った一枚の写真。彼女はもう、ここにはいない。

 昨年の十月。ジェスは二十七歳という若さでこの世を去った。

 十代の頃から患っていた難病が死因だったというが、詳しくは知らされていない。僕が彼女の死を知ったのは、ジェームズから届いた一枚の手紙を日本で受け取った時だった。彼女の死から一ヶ月後、昨年の十一月だ。もちろん葬儀にも出席はしていない。知らされたところで、参加もできなかっただろう。日本とイギリスでは距離が遠すぎるし、そもそもサラリーマンの僕にそんな休みを与えられるはずもなかった。

 その後何通かジェームズとは手紙を交わしたが、彼女の死について詳しく語られることは一度もなかった。僕が聞かなかったということも理由にはあるのだが、一番は彼自身がそれを受け入れられなかったからだろう。彼から聞いたのは、ジェスは最期まで明るく、そして気丈に振舞っていたということだけだった。

 今日こうしてジェスの墓を前にして、僕は彼女の死と正対した。実際にジェスの遺体を見ていないので本当に彼女がここに眠っているのかは疑問でもあったのだが、今日ジェームズに会い、彼と話をしたことで、僕は悟った。彼女はここに眠っている。

 ジェスの声が聞こえたのは、彼女がここにいるからだろう。僕は目を見開いた。そう思うと、目の前に彼女が立っているように感じられた。

 それと同時に激しい動悸が僕を襲った。体が一気に熱くなり、それに耐えられず地面に跪いた。胸がズキズキと痛かった。彼女への思いが僕の胸の中でどんどんと強まっていくのが分かった。胸が張り裂けそうだった。いや、このまま張り裂けてしまえばいい、そう思った。君に会えるなら、この身がどうなろうと関係なかった。

 その瞬間、僕の頬に涙が流れた。抑えていた感情が一気に爆発し、僕はその場で泣き崩れた。ダムが決壊したかのように、涙も鼻水も止まらなかった。息がしずらくて、たまらず嗚咽が漏れた。その度に白い息が宙を舞った。顔を両手で覆った。手がかじかんで、感覚もなくなってきた。それでも僕はひたすら泣いた。ただ泣き続けた。今はもう、そうすることしかできなかった。ここにはいない、ジェスの存在。どれだけ願っても、会うことのできない存在。その声、その仕草。愛するその女性の全てを、僕は心の中で思い出す。


『ほら、私の瞳って青いでしょ。だから私に会いたくなったら、空を見上げて。そこに青空があれば、私はいるもの。そう考えれば、ソースケも寂しくはないでしょ?いつでも会えるわよ、きっとね』


 教会に響く鐘の音とともに、地平線にまで続く青い世界へと小鳥たちは羽ばたいていく。

 ドンカスターの空には青空が広がっていた。曇ることのない、青一色の澄み渡った空だった。僕は涙を拭うことなく、その空を見上げた。視界がぼやけても、今は瞳の奥を通してはっきりとその景色が見えていた。久しぶりに、君に会えたような気がした。


 またね、ジェス。


 僕は万遍の笑みを空に向け、彼女にそう答えた。

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ロンドンの雨が止む前に ぐーちょきぱん @gu-tioki-pan

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