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「来てくれてありがとう、ソースケ」

 後方から足音とともに声が聞こえたので、僕は振り返った。すると、そこにはこちらに近づく一人のイギリス人男性の姿があった。

「いえいえ」と僕はぎこちない英語で答えた。正直うまく発音できた自信はなかったが、その男性は気にしていない様子だった。彼は俯きながら僕の元へと歩み寄ると、再び口を開いた。

「君から連絡が返ってくるなんて思ってもいなかったよ。仕事で忙しいと思っていたからね。よくここまで来てくれたものだ」

 彼は革製の黒い手袋を外し右手を差し出すと、「ありがとう」と一言付け加えた。僕はポケットから手を出し、その握手に応えた。彼は薄っすらと笑みを浮かべていたが、その顔は少しやつれているようだった。交わしたその握手にも、力はあまり入っていなかった。

「こちらこそ、ありがとうございます。あなたからあの手紙を貰っていなかったら、きっとここに来る勇気はありませんでしたから」

 僕は小さくお辞儀をした。そして握手を終えると、目の前にいる女性へと目を移した。


 『娘に会いに来て欲しい』


 隣に立つイギリス人の男性、彼女の父親であるジェームズからその手紙を受け取ったのは昨年の十一月だった。僕がここに来た理由、そのきっかけを作ってくれた人でもあった。仕事の関係もあり、その実現まで一年という月日が経ってしまったが、その間に僕は彼と手紙を何通か交わしていた。事前に飛行機や列車の便を知らせ、彼はそこからある程度の時間を逆算し、ここで待ち合わせようと提案してきた。この場所に迷いなく来られたのも、彼がくれた正確な地図のおかげでもある。

 ジェームズは深く息を吐くと、僕と同じように彼女へと目を移した。特に何かを言うわけでもなく、ただ静かに立ち尽くしている。娘を見守る父親の姿が、そこにはあった。しかし彼の目の周りはほんのりと赤くなっており、顔の血色も決して良くはない。下唇を強く噛み締めているその表情は、何かを必死に堪えているように見えた。

 ジェームズと会ったのは三年前のことだった。娘が連れてきた男ということで、初めて会った時は訝しげな表情を浮かべていたが、すぐに打ち解けることができた。詳しい年齢は聞いていないが、おそらく六十代くらいだろう。白髪の混じったブロンドの髪を七三に分け、その目には銀縁の眼鏡をかけていた。体系は中肉中背で、その年にしてはスタイルが良い印象を抱く。物腰も非常に柔らかく、その紳士的な態度はまさにジェントルマンそのものだった。

 彼のファッションもまた彼自身を紳士的な人間に見せていた。これは僕の知る限りだが、私服にも関わらず彼はいつもジャケットを着ていた。黒や紺といったシンプルな色から、ベージュやワインレッドのものまで持っていたはずだ。それに合わせたシャツやズボンの着こなしも絶妙で、全てが計算されたコーディネートのように思われた。理由は聞いていないが、相当のこだわりがあるのだろう。あえてネクタイを締めないところにも、彼の哲学がそこにあるように思われた。今日はカジュアルなシャツの上に紺色のジャケット、そしてベージュのロングコートを羽織っている。もちろん、ネクタイは締めていない。

「相変わらずお洒落ですね」直接そう言おうと準備をしていた。きっとジェームズも少しは笑い、喜んでくれるだろうと思った。しかし、その姿を前に僕は言葉が出なかった。ファッション云々よりも、彼はすでに変わり果てた状態だった。肉体も、そしてその精神も、以前の彼の面影はどこにもなかった。

 ジェームズの顔は憔悴しきっているせいか、まるで生気を感じなかった。頬もこけており、そこには薄っすらとした影も見えている。白髪もかなり増え、眼鏡の奥にはシワが目立っていた。この一年でずいぶんと年老いてしまったような印象を受ける。その理由は、口にするまでもなかった。

 変わってしまったのは彼だけではない。僕自身もそうだった。この一年でかなり痩せてしまった。最近では、普段着ているスーツのウエストを調整し直した。ベルトの穴も、二つほど奥に入れるようになった。会社の同僚からは「ストレスか?」と心配されたが、とりあえずその場は「そうだ」と取り繕った。本当の理由は伝えたくなかった。伝えたところで何もならないことを、僕は知っていた。

「元気にしていたかい?」

 少しの間を置き、ジェームズは僕にそう問いかけた。そんなはずありませんよ、という本音を飲み込み、僕は小さく「元気です」と答えた。

「そうには見えないがね」と彼は少し眉をひそめた。僕を見つめ、視線を上から下へと移動させている。「君も痩せたように見える。私みたいにね。違うかい?」

 僕は黙った。外見は嘘をつけなかった。彼もまた、僕の姿を見て察したのだろう。そのまま目線を合わさずに、僕は下を俯いた。

「とても、辛かったです」

「そうだろうね・・・」

 彼は沈んだ表情でこちらを見つめた。「仕事のほうは順調かい?」

「ええ、それほどには」

「そうか。たしか、旅行系の仕事だったかな?」

「はい、そうです。おかげで航空券も自分で取れました」

「そうか。それは便利だね」

 僕は彼の言葉に「はい」と頷いた。すると世間話も長く続かないことを感じ取ったのか、ジェームズは指で眼鏡を押し上げると、太い息を吐いた。

「・・・私と妻もそうだったよ」

 彼はそのままこちらに歩み寄り、僕の肩をトンと叩いた。その沈んだ表情はさらに曇っているように見えた。

「私たちも、とても辛かったよ。まるで・・・生きた居心地がしなくてね」

 その声は震えていた。言葉をやっと絞り出したのか、息遣いは少し荒れているようだった。僕は「大丈夫ですか?」と彼に問いかけた。大丈夫でないことはその外見からも明らかだったが、その言葉をかけずにはいられなかった。

「ああ、まあね。ただ、気がつけばこんな姿になってしまったよ。おかげでこのジャケットも大きく感じてしまってね。昔から気に入っているものなのに。まったく、困ったものだ」

 ジェームズは軽く頭を掻いた後、コートの下に着ている紺のジャケットを両手で触れた。そのジャケットには所々にシワが目立っていた。クリーニングにしばらく出していないのだろう。出す気力もなかった、といった方が正しいのかもしれない。彼はそのまま小さく溜息をついた。

「それでも、こうやって彼女に会うことができてよかったです。少し気持ちが楽になりましたから」

「そうか。それを聞いて安心したよ。娘も、君に会えて喜んでいるんじゃないかな」

「ええ、そうだと良いんですが。きっと『少し痩せたんじゃない?』って、今頃笑ってると思いますよ」

「ははは。彼女らしいな」

 重い表情だったジェームズにも少し笑顔が見られた。しかし無理やり笑おうとしているのか、その頬は引きつっていた。

「ジェシカは・・・」と呟き、彼はすぐに表情を元に戻した。ジェシカとは、彼女の本名のことだ。僕は出会った時から彼女のことをジェスと呼んでいたが、それはあくまで彼女の愛称だった。

「ジェシカは、とても強い子だった。多くの困難があったが、彼女は決して諦めずに戦っていたよ」

 多くの困難。それが病であることは、それを聞いてすぐに分かった。僕は言葉が出ず、「はい」と相槌を打つことしかできなかった。

「彼女はいつも人のことばかり心配していた。自分のことを一番心配しないといけないはずなのにね。本当に・・・人思いの子だった。本当に・・・」

 ジェームズの唇が小刻みに震え始める。「あぁ、ジェシカ・・・」という言葉を最後に、彼は項垂れた。しばらくの沈黙がお互いの間に流れた。

 やがて「うぅ・・・」と啜り泣く声が聞こえた。彼を見ると、口に手を当てたまま涙を流していた。身をかがめ、その肩を震わせている。何かを必死に我慢しているようだった。

 しかしその我慢も時間とともに限界を迎えると、啜り泣く声はやがて咽び泣く声へと変わっていった。悲痛の叫びのようなものがこの教会に響き渡った。

 ジェームズは泣き続けていた。眼鏡のレンズには涙が溢れ、表面が白く曇っていた。途中でむせても、上唇に鼻水が垂れても、彼は泣くことを止めなかった。それを見て、僕は言葉を失った。ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 彼が泣いているのを見るのは初めてだった。いつも優しく明るい表情を見せながら、大人として強く気丈に振る舞う。それが僕の知る、ジェームズという男だった。彼は外見ではなく、立ち居振る舞いに至るまでジェントルマンそのものだった。

 しかし、その裏で彼はどれだけの涙を流したのだろう。この一年、恐らくそれは枯れることなく彼を苦しめたに違いない。彼の変わり果てた姿やその表情を見れば、それは容易に想像できるものだった。

「・・・すまない。みっともない姿を見せてしまったね」

 ジェームズは少し落ち着くと、ポケットからハンカチを取り出した。眼鏡を外し、目元を二、三回拭った。

「考えすぎると、どうしてもね。・・・娘が恋しくて仕方がないんだ」

 手に持つハンカチで額を拭い、眼鏡をかけ直す。その奥の目は真っ赤に腫れ上がっていた。

「そうですね。僕も・・・彼女が恋しいです」

 僕は再び下を俯いた。彼と目を合わせづらいこともあったのだが、その取り繕った回答に申し訳なさを感じていた。もっと何かを言うべきなのに、それ以外の言葉が見つからなかった。

「ソースケ・・・」とジェームズが僕に語りかけた。その口調はいつにも増して冷静に聞こえたので、僕は思わず顔を上げ彼を見た。彼の目はまっすぐに僕を捉えていた。

「今でも、ジェシカのことを愛しているかい?」

 穏やかではあったものの、その口調には真剣さが感じられた。次は取り繕うことなく答えて欲しい。彼のその表情は、僕にそう訴えているように見えた。

「もちろんですよ」と淀みない口調で僕は答えた。まっすぐにジェームズを見つめ返し、言葉を続けた。「一日だって忘れたことはありません。それくらい、今でも想っています」

 決して嘘をついているわけではなかった。言葉通り、一日だって彼女のことを忘れたことはなかった。いや、忘れることなどできなかった。一生忘れることもできないだろう。それくらい、今でも彼女のことを愛していた。

 ジェームズは僕の言葉に表情を和ませた。初めて見るような、穏やかな表情だった。そして、「そうか」と小さく呟いた。

「ジェスも、そうだと良いんですがね・・・」

「彼女のことだ。きっと、今でも君のことを愛しているよ」

「・・・そう言ってもらえると、ありがたいです」

 僕は小さく微笑んだ。彼なりの気を遣った言葉なのだろう。それでも、その言葉で僕の心がどこか救われたような気がした。

「それじゃあ私は車で待っているから、落ち着いたら来るといい。家まで案内するよ。もう一度、妻にも会ってほしいんだ」

 ジェームズはそう言うと、コートのポケットから車のキーを取り出した。

「はい、分かりました」と僕は答え、鞄を手に提げようとした。その時、ジェームズの掌が僕の動きを静止した。「いいや」と首を横に振り、その掌で僕の肩を再びトンと叩いた。

「慌てなくていいよ。ゆっくりしておいで。久しぶりの再会なんだから」

「・・・ありがとうございます」

 その後、僕たちは軽いハグを交わした。僕はいつもより強く彼の背中を抱きしめた。ハグをし終えると、「娘は・・・」とジェームズは言葉を切り出した。

「君のような男に出会えて、本当に幸せ者だったと思う」

 その頬に小さな笑みを浮かべ、彼は続けた。「来てくれて、本当にありがとう」

 ジェームズはゆっくりとした足取りでその場を離れていった。僕は彼の後ろ姿を目で追った。その背中に「ありがとうございます」と、小さな一礼を向けた。

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