長靴

いのかなで

第1話 農家の娘

 太陽に照らされ青々と育っている稲が波打つ。夏の光景を横目に私は全力で田んぼのあぜ道を愛用のチャリで激走していた。

 何しろ時間がない。いつもだったらこんなぼこぼこしたあぜ道をチャリで走るなんて考えはしないこと。でも今日は仕方ない。走り心地抜群なアスファルトを裏切りこの道を選択したのは、古典の課外に遅刻しそうだからだ。

 超怖い担任の古典の課外授業である。遅刻しようものなら、「あなた、遅刻したわね?」ってあのキリッとした目をこちらに向け整った眉をひくひくさせながら嫌味を言われるに決まってる。

 美人だから尚更怖い担任の顔を思い浮かべて冷や汗をかきながらさらに加速する。古典の授業だけは遅刻しないように気をつけてたのに、本当についていない。

 昨日夜ふかししてネットで小説を読んでいたのを後悔しても遅い。熱中すると止める事の出来ない性格が災いして夜中の3時までネット小説を読みふけっていた。目覚ましの音に気付いた時には時刻はすでに出発予定の時間を過ぎていた。


「あっやば!」


 思った時には遅いもの。チャリのタイヤが有り得ない深さの穴に入ってしまった瞬間だった。

 人間、この瞬間には全てを諦めて覚悟を決めるもの。私もこの瞬間覚悟を決めて、衝撃が来るであろう我が身に、どうか怪我はしませんようにと瞼をぎゅっと閉じながら祈った。


「いったぁ...」


 案の定、チャリごと田んぼにダイブした私。誰かに見られないよね?と周囲を見渡す。強打したお尻より一人で転んでるとこ見られる事を気にするあたりも笑えるけど。思いの外この稲のおかげか衝撃は少なかった様な気がする。

 私が突っ込んでしまった事で多大な迷惑をかけてしまった稲たちには大変申し訳ない。横たわってしまった稲を見ながらどうしようかと途方にくれていた。

 課外には完全に遅刻だ。制服も汚れてしまったし、一端家に帰って着替えなくてはとてもじゃないけど学校に行けそうにない。

 課外授業は諦めるしかなさそう。帰ったら「お前馬鹿じゃね?」と今日休みだと言っていた兄に馬鹿にされるのも癪だけどこれは仕方ない。

 くそう・・・。担任の嫌味も覚悟しないといけないけど、それより、この倒してしまった稲の事が気がかりである。まずは、ここの農家さんに謝らないとと思っていた。


「ちょっと大丈夫?」


 チャリを田んぼから必死にあぜ道にあげようとしていた時の事だった。日焼防止の帽子を被って顔面全体を覆うように完全武装した女性に声を掛けられた。

 日焼け対策なんだろうけどと思いながらも少し警戒してしまう。「大丈夫です」と苦笑いしながらももしかしてここの田んぼの持ち主なのでは?という事が脳裏をよぎった。


「あの、ここの田んぼの人ですか?」

「あ、え?」


 表情は完全武装しているから解らないけど、声で困惑しているのがわかる。ここの田んぼの人ですかって何だと自分が言った言葉に苦笑した。


「こけて、稲を倒してしまったんです。」


 先ほどダイブした辺りに視線を向けた女性は理解したみたいで「あぁ、大丈夫気にしなくていいよ」と言ってくれた。どうやらここの田んぼの持ち主であったらしい。これで一安心だ。


「ケガしなかった?爆走してたよねさっき。急に消えたからビックリしたよ」

「だ、大丈夫です。」


 さっきの事を一部始終見られていたらしい。恥ずかしさのあまり逃げたい衝動に駆られたけど、稲を倒してしまった手前、ここで逃げるわけにもいかない。すみませんと謝罪の言葉を口にする。


「謝らなくていいよ。ケガなくて良かった。学校大丈夫?急いでたんでしょ?」

「大丈夫です。課外はもう間に合わないと思うので一旦家に帰って着替えようかなって」

「そう。」と一旦考えるようにして女性はあーそうだと提案をしてきた。


「家近くなんだけど、よかったら来ない?制服同じのあるんだよね」

「はい?」


 思ってもみなかった提案に驚いた。


「去年までその制服着てたからさ、家にあんの。嫌だったらいいけど」


 何でもないような感じで気軽にそんな事をいう女性。どうやらこの女性私の先輩だったらしい。去年まで高校生という事は私より2つ年上のお姉さんだという事がわかった。未だに顔がわからぬままは変わらないんだけど。


「いやでも悪いですし」

「気にしなくていいよ。もう着る予定もないんだし、今更着るのってコスプレじゃん?」

「コスプレって」

「おいでおいですぐそこだから」


 結局ついて来てしまった。我ながら押しに弱い性格だ。


「ここで待ってて。あ、でも手洗いたいよね。洗面所、廊下わたって左にあるから」

「わかりました」


 純和風の平屋にお邪魔している。広いし何だろう、多分地主さんなんだろうなと

 敷地の面積に驚いて、家に案内されても驚く。座敷に案内されたんだけど、我が家とは比べものにならないくらいの広さである。名前も知らない人の家に来る事になろうとは想像もしてなかったんだけど、いや、さっき表札で確認はした。「田中さん」と言うらしい。それよりお姉さんの顔すら知らないんだけど、いまだに顔面を覆ったままの印象しかないという謎なお姉さんにほいほい着いて来てしまったわけだ。目はかろうじて拝見していたんだけど、目だけじゃ顔のパーツでしかないし。


「おまたせ」


 そう言われて振り向いたら、若い女性がそこにいた。軽くウェーブがかかった髪を横に流した美人なお姉さんが。私より二つ上という女性。大学生と言われれば納得な年齢なのかな?高校生の私なんかよりだいぶ大人に見えるのはお化粧のせいなんだろうか。


「どした?なんか顔ついてる?」

「いえ、何でもありません」


 あまりの驚きに顔を凝視していた私は慌ててお姉さんから視線を逸らしたのだった。


「えっと何ちゃん?」

あゆみです。」

「歩ちゃんか。これ制服。身長的にも多分サイズ大丈夫だと思うけど」


 そうお姉さんから言われて受け取った制服。受け取った瞬間にふわっと香るいい匂いはこのお姉さんの匂いなんだろうか。


「着替えたら、そのまま学校行く?汚れた制服は帰り取りに来ればいいし、荷物になるでしょ?」

「でも、本当にいいんですか?」


 見ず知らずの私に例えもう着る予定のない制服だからと言ってこう簡単にあげてしまってもいいものなのだろうか。申し訳ないのと、本当にいいんだろうかと不安に思ってお姉さんに聞いた。


「いいよ。歩ちゃんのスーパーダイブ見れたし」

「うぇ?」


 あははとからから笑うお姉さん。変な声出ちゃったし、コケたとこバッチリ見られていた事も恥ずかしい。


「自転車壊れてなかった?」

「はい、大丈夫です。」

「良かった。じゃあ、私ちょっと用事あるから行くね。着替え置いてていいから帰りよりなよ」


 そう言ってお姉さんは私を残して去って行ってしまった。いいの?と思いながらも、課外授業が終わる時間帯。そろそろ登校の時間になる。私はとりあえず、お姉さんからさっき受け取った制服に着替えてそのまま学校に行く事にしたのだった。


 学校に着いてから思った事。お姉さんすっごい美人だったよね。それにすごくいい匂い。お姉さんの制服を着ているわけで、お姉さんの匂いをまとっている今の私。変に意識してしまってちょいちょいぼーっとしてしまっている事があって、今日の私は明らかにおかしい。課外授業のサボりのお叱りはちゃんと担任から頂いた。次は遅刻しないようにしようと心に誓ったのだった。

 帰りにお姉さんの家に汚れた制服を取りに行くつもりなんだけど、またお姉さんに会う事にちょっと緊張しそうな気がした。なにこれ?私どうかしちゃったのかな?


「歩今日なんか制服違うくない?ワッペン三年のだし」


 そう友人に言われて気づいた。少々スカートは短いことは解っていたが、しまった、ワッペン付け替えるの忘れてた。ここの高校は学年ごとにワッペンが変わる学校。いつもの二年のワッペンは汚れた制服に付けっぱなしだった事に慌てる。


「あー。ちょっとこれには事情があってさ。田中先輩って知ってる?」

「田中先輩って?もう卒業されたあの田中先輩?」

「わかんないけど、有名な人なの?」

「え?知らないの?すっごい美人な先輩」


 あのお姉さんすごく有名な先輩だったみたいです。友人が興奮しながら教えてくれた。そんな有名な先輩から制服を頂いてしまった事実を友人に教えると、すごく羨ましがられた。帰りにまた先輩の家に行く事を伝えたら、「私も連れて行け」と言うので仕方なく、友人同伴で帰りに寄ることにしたのだった。


 放課後、友人と一緒にまた先輩の家を訪れた私は、明らかに緊張していた。


「ごめんください」と玄関で声を掛けたら、「はーい」と返事がした。先輩の声である。


「あー歩ちゃん。友達も一緒?」

「はい。すみません、制服ありがとうございました。助かりました。」

「いいよいいよ、上がってく?」

「いえ、制服取りに来ただけなので。」


 横から友人が肘で小突くのを無視して制服だけ貰って帰ることにした。


「歩、田中先輩だったじゃん本当に!」

「やっぱそうなの?」


 何か言いたそうにしていた友人に先輩の家から離れたところで言われた。


「間違いないよ、先輩今学校休みなのかな?大学に進学されたって聞いてたんだけど」

「へーやっぱり大学生なんだ。」


 この友人は情報通なのである。私何かは同級生の顔覚えるのやっとで先輩の事なんて全く知らなくて、友人に呆れられてしまった。


 家に帰って母に今日あった出来事を話したら、先輩のところに後日御礼にお菓子を持っていくように言われた。どうやら、また先輩とお話する機会ができたようだ。

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