指切り

澄田ゆきこ

 昔々、ひとりの神童がいた。音楽家の父と、年老いた家政婦と暮らしていた少年には、母がなかった。母は気が狂ったとも、身体を壊して亡くなったとも、父と折が合わず出て行ったとも言われていたが、少年は真偽を知らない。情報源はまわりの噂話だけ。父も家政婦も少年がいくら尋ねたところで、「そんなことは知らなくていい」と言うだけだった。

 父は母のいない少年に、余りある教育を施した。ピアノに触り始めたのは三歳の頃。始めてからは、一日たりとも、練習を怠ることは許されなかった。「どうして努力せずにいて平気なんだ?」「この程度で現状に満足できるのか?」父はとめどなく問いを浴びせ、少年は反駁することなく従った。父の理論はいつも正しく、言い訳を許さなかった。

 父は少年を音楽漬けにする以外にも、少年に著名な文学を読ませたり、映画を見せたりした。鑑賞の後には必ず、この作品から何を読み取ったのか、感想を言葉にして伝えなければならなかった。その感想も、理路整然とした、父の期待に適うものでなければ、深い失望の眼差しが少年を襲った。

 少年には友人がなかった。友達同士で楽しくつるむ同世代の子どもを見て、羨ましく思うこともあったが、「そんなことに現を抜かしていられるほど、お前は余裕なのか?」と父はまた問いかけた。少年は小学生の時分からコンクールに出、父の期待通りにいくつものトロフィーを獲得した。度重なるコンクールで公欠が重なっても、父は学業でもまた、他人に引けをとることを許さなかった。メディアはこぞって少年を天才だ神童だともてはやした。

 少年の演奏は見る者の心を震わせ、たちまち感動の渦に引き込んだ。正確さ、ダイナミクス、深さ、優しさ。全てを自在に操る少年の演奏は、自身の身体の成長と共に、力強さを増していった。十歳を過ぎると、少年はプロとして父と同じ舞台にも立った。

 やがて神童も真新しさを失い、ある演奏会での小さなミスを機に、少しずつ停滞を始めた。ほんの小さなミスであっても、父のプライドに傷をつけるには十分だった。それから少年は半ば軟禁状態でピアノの前に座り続けた。「あんなミスをして、どうして平然としていられるんだ?」という父の言葉が、少年を縛っていた。疲労で腕の痛みが取れなくても、鎮痛剤を飲みながら鍵盤をなぞった。鍵盤の重さを感じるうちは鍛錬が足りないのだと父は言った。弾いても弾いても鍵盤は重くなるばかりだった。少年は何度となく自分を責め、やがて舞台に立つ恐怖に蝕まれていった。

 十八歳になった折、少年は父親に、プロとしての仕事の休息を申し出た。音大で理論や音楽史を改めて勉強し直したい、演奏にまつわることを体系化しておきたい、という建前で。少年の実力をもってすれば、音大の合格は造作もなかった。少年はそれを機に一人暮らしを始めた。父からは防音とピアノ付きの部屋と、十分すぎる仕送りが与えられた。アルバイトをすることは学業と練習の妨げになると許されなかった。そうして得たかりそめの自由すら、少年の手には余った。ようやく許されたひとりの時間をどう謳歌していいのか、誰かに導いてもらえないと、少年にはまるでわからなかった。

 こうして手足をもがれ、檻の中で育てられた少年は、余りある賞賛の代わりに、それ以外の何も持っていなかった。プロとして舞台に立つことがなければ、操り手のいなくなった人形に等しかった。そうやって出来上がったのが、消えた天才たる僕だ。


 音楽の才と権威に恵まれ、それゆえ哀れな少年だった僕にも、生涯にひとりだけ友人と呼べる人がいた。名前を落合しのぶと言う。

 偲は小学校の頃の同級生だ。好奇心旺盛でおせっかいだった。父と自分だけの閉じた世界にいた僕に、その不健全さを指摘したのは彼だけだった。ことあるごとに遊びに誘われていたが、そのほとんどを僕は断った。たった一度だけ、それを了承したのは、父が海外に興行に出かけている時だった。

 父の目を盗んでの遊びは刺激的で、経験したことのない彩に満ちていた。用水路でのザリガニの釣り方、大きなカブトムシのいる場所、流行りのゲーム、自転車の乗り方。偲は僕の知らないことをたくさん知っていた。僕はザリガニの硬い甲殻に驚き、初めて食べたソーダアイスのおいしさに驚いた。ローマの休日のアン王女になったような気分だった。

 偲はミュージシャンになりたいのだと言った。だから僕にしきりに話しかけていたのだと。彼が敬愛している歌手は、世相に疎い僕でも名前を知っている人だった。一時は自殺のニュースでもちきりだったから、よく覚えている。「反体制なんかにかぶれるからだ」と、父が吐き捨てていた記憶があった。

 こうして過ごした偲との一日はあっという間に終わりを告げた。「また絶対遊ぼうな」という指切りもむなしく、僕が外に遊びに出ていたことは、家政婦から父の口に渡った。遊ぶ機会は恒久的に失われた。父は強く激することこそなかったが、滾々と僕の非を言い聞かせた。それから父の興行には必ず同行させられるようになった。


 目が覚めると、僕は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 中央に鎮座するグランドピアノ。家具は簡素な机とベッドだけ。ピアノのある独房のような部屋。自分の手は痣と傷にまみれていて、固まりかけた血が掠れていた。ベッドシーツにも点々と血痕がある。背中には偲の手の感触。僕は反射的に偲の顔を見た。この傷は君がやったのか。視線に暗に込められた意味を察したのか、これやったのお前だからな、と偲は苦しそうに言った。

「やっと正気に戻ったかよ」

 憎々しげに言い、偲は僕から離れてキッチンに向かった。水道をひねる音が聞こえる。僕は自分の手を凝視する。爪の間に赤黒い血が詰まっていて、ようやくこの傷は自分がつけたのだと腑に落ちる。

 偲が水を差しだしてくる。それ水道水でしょ、と言うと、偲ははあーっと溜息をついて、今度はウォーターサーバーから水を汲んできた。グラスを受け取る。水面が波立つ。ゆっくり飲んでいたのに噎せてしまって、水もまともに飲めない自分が情けなくなる。

 偲と再会したのは修士課程に進学した年の夏だった。往来で急に声をかけられた。服装も髪色も安っぽくて品がない、背中にギターケースを背負った男を、僕は最初偲だと気づかなかった。向こうは僕のことを当然のように覚えていた。「だってお前、有名人じゃん」と偲は憚ることなく言った。院に進んでからは、外での活動を細々と再開させていたので、何かの機会に目に留まったのかもしれない。

 それから僕たちは適当な店で駄弁った。父の目はもうないのに、僕は犯罪でもしているような後ろめたさに襲われた。偲は所作も言動もがさつで、だけどその粗野さが可愛げになっているのも相変わらずだった。

 店を出る時になって、偲は少しだけ申し訳なさそうに、「今オレ四十五円しか持ってないんだよね」と告白した。仕方がなかったので代金は僕が払った。それに味を占めたのか、偲はたびたび僕を頼るようになり、気づくと僕の家に転がり込んでいた。死んだように無機質な僕の部屋で、偲のギターケースとぐちゃぐちゃの荷物だけが、確かに血が通っていた。

 偲の存在は僕の拠り所でもあり、同時に苛立ちの種でもあった。卒業後も就職せず遊び歩いている偲の姿は、時に僕に制御不能なほどの不快をもたらした。ミュージシャンになりたいという言葉の通り、何かバンド活動の類はしていたようだけれど、家で練習する姿を見るのは数えるほどだった。スタジオでの練習すら「めんどくせえ」とぼやく彼が理解できなかった。「好きなものなのにどうして努力できないの?」と僕は尋ねた。この時ばかりは嫌味ではなかったはずなのに、それがトリガーになった。

「どうして目標が達成できていないのに遊んだりできるの?」「どうして夢があるのに必死になれないの?」繰り返し言葉をぶつけるたびに、甘美な毒がじわじわと僕を蝕んだ。「最初から全部持ってたお前にはわかんねえよ」いつか偲は苦々しげに言った。「だけど僕は血を吐くほどの努力だってしてきた。今だって毎日寝る間も惜しんで練習してる。環境に文句を言えるほど君は努力してるの?」僕がそう言った時、偲は諦めと憐れみを孕んだ目でこちらを見た。口先だけ大きくて、指摘されれば不機嫌になって、それなのに僕に頼りたがる偲の甘さが理解できなかった。

 強い言葉をぶつけた日の夜は、反動のように後悔に苛まれた。僕は偲を軽蔑しているくせに、偲が離れてしまうことが怖かった。いつしか「ごめんなさい」という自分のうわごとで目を覚ますようになった。自分で制御できない感情に僕は消耗し、自分も偲も傷つけ、そのことでまた感情が揺れた。僕が弱っている時の偲は嫌になるくらいに優しかった。

 追い打ちをかけるように、街中で一人のポップミュージシャンを見た。トーリ・ナカエ。名前と立ち姿を見てすぐに、中江藤里だ、とピンときた。同じコンクールに何度も一緒に出たことのある女の子で、小学生の時にはいつも、僕の隣で表彰台に立っていた。学部時代には級友でもあった。彼女も僕と同じように音楽家の親を持ち、幼いころからクラシック漬けにされていたはずだ。ピアノ科でも実力はとびきりで、そのまま音楽家への道も敷かれていたのに、藤里は平然とポップスに身を売った。信じがたかった。

 何より僕がショックだったのは、映像の中の彼女があまりに楽しそうに見えたことだった。今までの音楽とはまるきり違う、電子音のあしらわれたポップスは、僕が低俗だと毛嫌いしていた類のものだった。藤里はそれをまるで神聖なもののように歌った。どうやって両親とのしがらみを断ち切ったのだろう。どうやって今までの音楽を捨てたのだろう。僕は彼女に取りすがりたくなった。

 街中のどこを歩いていても、彼女の音楽を聴かない日はなかった。何も成果を出せなくなった自分の惨めさが浮き彫りになるようだった。その頃から不眠と情緒の揺れがひどくなった。八つ当たりみたいに偲を傷つけようとして、そのことに自分で傷ついて、そんなちぐはぐなことばかりを繰り返した。自分の馬鹿さはとうに自覚していた。どうして偲は僕を捨てないのだろうと思った。「お前がオレを切らないのはさ、オレなら安心して見下せるからだろ」いつか聞いた偲の言葉が脳裏をよぎった。


 ある時偲がライブの告知を持ち帰って来た。主催者は偲が惚れこんでいたボーカリストで、出ないかと声をかけられたのだと、いつになく浮足立っていた。名前には例の自殺した歌手の名前が冠されていた。彼の曲限定で行う、アマチュアや新米中心の野外ライブだという。会場はどこかの大学の構内。入場無料。たいした話ではない、と思った矢先、僕の目は出演者のリストに釘付けになった。一番上にはかのトーリ・ナカエの名前があった。今や売れっ子の彼女が、実績にもならないこんなライブに出ると言うのが不可解だった。「無料だし、興味あるなら来れば」偲は照れ隠しみたいに言って、さっそくギターのチューニングを始めた。

 直前まで迷いに迷って、当日、僕は会場に赴いた。開始時間からは少し遅れていた。人の姿が多い。僕は帽子を目深に被る。ちょうど誰かの演奏が終わったところらしく、天井のない会場はとめどない拍手で満ちていた。

 舞台から降りる人影に見覚えはなかった。トーリの演奏はもう終わってしまったのか、と焦った時、入れ違いにトーリは姿を現した。順番が前後していたらしい。彼女の姿が見えた途端、会場の空気が上ずったものになる。彼女は毅然と舞台に立ち、準備を進めた。

「こんにちは」

 マイクを通った声は、僕のよく知る中江藤里のものだった。甲高い歓声。ピアノの澄んだ音から演奏が始まる。そこに加わる弦楽器とパイプオルガンの音。スピーカーからはシンセサイザーの音が重なる。僕は音の波にのまれていた。厳かに、けれど穏やかに、彼女は歌う。安らいだ表情に胸がぎゅっと苦しくなる。僕は舞台で安らげたことが一度でもあったか。ピアノを前にして感じるのは、父からの重圧と、ミスの許されない緊張だけではなかったか。

 いつの間にか演奏が終わっていた。僕は何かに憑かれたようにステージを見続けた。偲の番はいくらも待たずにやってきた。ギターの音の大きさには驚かされた。がちゃがちゃでめちゃくちゃな演奏なのに、偲は弾けるほど楽しそうだった。音楽をずっと学び続けていたくせに、音楽、という言葉の意味を、この時初めて知ったような気がした。

 その日偲は打ち上げがあるとかで遅くまで帰らなかった。熱気にあふれていたあの場所から戻ると、僕の部屋は本当に抜け殻みたいだった。ここもまた父から与えられた檻なのだという事実だけが、身体に冷たくしみこんでいった。

 今日はまだ三時間しか練習をしていない。指を動かさなければならないのに、鍵盤の蓋を上げても、指はぴくりとも動かなかった。さんざん泣き腫らした目からまた涙が落ちた。僕はどうしたら許されるのだろう。あんな風に音を奏でられるのだろう。

 僕は椅子からゆっくりと立ち上がる。頭の重さに身体の重心がぐらつく。

 天才少年が奏でていたのは単なる虚構にすぎなかった。あんなものに心が動かされるなんて馬鹿みたいだ。だけど今の僕はあの頃の僕にすら追いつけない。飽きるほど貰っていた賞賛すら今ではかけらも残っていない。おちぶれた神童なんて吐いて捨てるほどいる。なのにプライドだけが当時のままなのが滑稽だった。誰も僕を見ないし、誰にも必要とされない。父の呪縛以外に何も僕を結び付けない。

 父は今でも僕を音楽界に引き戻そうとする。それはもしかしたら、僕への温情なのかもしれなかった。進学を理由にずるずると逃げ続けているのは僕だ。父は僕にとうに失望しているのかもしれない。あれほど父の支配がストレスだったのに、どうして僕は、父から見放されるのが恐ろしいのだろう。僕には当たり前の社会経験すらろくにない。音楽以外に僕に生きていける場所はない。それは紛れもなく父のせいなのに、僕には父を憎むことすらできない。自分で別の場所に飛び出す勇気もない。できるのは誰かを傷つけることだけ。

 僕はキッチンによろよろと近づく。包丁を手に取り、左手を。柄を握りしめる手が汗で滑りそうになる。

 僕は包丁を手の甲に振り下ろした。


 かくして天才少年は死んだ。

 神経と腱を傷つけたので、僕の手には後遺症が残ると医者は言った。リハビリをすれば日常生活は送れるだろうが、以前のような演奏は厳しいだろうと。怪我自体はたいしたことなかったが、精神状態がよほどひどかったらしく、僕は入院を強いられた。

 実のところ、強迫的な衝動に駆られたということ以外、僕はあの日のことをほとんど覚えていなかった。偲が血だらけで倒れている僕を見つけ、救急車を呼んだ。意識が戻ってからの僕はずっと薄笑いで、あまりに言うことに脈絡がないので、一時は薬物中毒すら疑われたらしい。すべて偲の受け売りだ。

 父が見舞いに来たのは入院の二日目だった。「なぜこんなことをしたんだ」と、父はいつも通りに静かに尋ねた。

「……わかりません」

「なぜ? 自分のことだろう」

 僕はうつむいたまま、包帯のかけられた自分の左手を見た。握力の未だ戻らない左手は、指を少し動かそうとするだけで強く痛む。

「ピアノをやめたかったんです」

 弾けなくなれば、弾かなくていい気がした。そんな僕を「浅はかだな」と父は断じた。その通りですね。僕は薄く笑う。ひと掬いだけ残った気力では、自分を嘲るので精一杯だった。

 やめてもいいですかと僕は尋ねた。好きにしろと父は言った。父が去るまで何の感情もわかなかったが、病室に一人になった途端、僕は安堵と絶望に同時に包まれた。

 僕の身体はピアノを弾くためだけにあった。僕の目は楽譜を見るためにあり、僕の手は鍵盤をなぞるためにあった。僕の人生も感受性もすべて、演奏に還元するためだけにあった。それだけが僕の生きる意味であり、価値だった。

 僕は使い物にならなくなった自分の手を見た。この手で何かをつくったり、誰かを愛したり、そういうことが僕にもできるのだろうか。背中をさすってくれた偲の手を思い出した。今更僕にも償えるんだろうか。偲と話がしたいと思った。

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指切り 澄田ゆきこ @lakesnow

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