父なる海
蓮河近道
父なる海
泡のようだ。
夢で見るたびに鮮明になって、目が覚めるたびにおぼろげになっていく。それで少しずつ少しずつ忘れていく。
記憶。ゆらぐ水面のようにキラキラとまたたいて、さっきまで見えていた輪郭を失っていく。あたしの中から消えていく。
たゆたう。絹糸のような髪。あの翡翠色の瞳。褐色の肌に散らばったうろこ。つめが無い代わりに、指の間を水かきがつないでいた。
その手が、たしかにあたしの額を撫でていったのだ。あの温度も、すべて消えていく。
あたしの世界には人魚さまがいる。
△△△△
産業廃棄物の源泉かけ流しのドブ川でおぼれてから、チカの頭はヘンになっちまった。
ばっしゃん!橋から落ちたあと、警察だの消防だの青年団だのがドブさらいして丸一日しらみつぶしに探しても出て来ないから、もう死んだものと思われてあきらめられた、その四日後にチカは打ち上げられた。生きたまま。
冬だったら氷漬けで死んでいた。湿気で身体の内側から腐っていくような夏だった。夏だったけど、海水浴なんかしようもないゴミ捨て場みたいな灰色の浜辺だったから、人なんか通らなかった。もしかしたら二日目か三日目には打ち上げられていたのかもしれないが、ともかく発見されたのは四日目だった。
大慌てで俺ん家に担ぎこまれたとき、チカは死体も同然だった。白魚のようだった手はズタズタで、つめはほとんど剥げていた。助かろうと手当たり次第に掴みかかったのだろうと親父が言った。だらりと放りだされた足は血色が失せてどす黒く染まって、生きているのが信じられないくらいだった。
それでも顔だけは比較的うつくしいまま、肌がうっすらと青みを帯びているだけだった。
親父が手や足をさすってあたためろと言ったのだが、俺は怖くてチカに指一本さわれなかった。そもそも俺が何かしようにも、チカの父ちゃんや母ちゃん姉ちゃんたちがチカを取り囲んでいて、割りこむ隙などなかった。
親父の治療の甲斐あって、チカはふたたび目を覚ました。だけどチカの頭は完全にヘンになっちまっていた。チカはおぼれる以前の記憶のほとんどを失っていて、中身が五歳児くらいに逆戻りしていた。
そしておかしなことを言うようになったのだ。
「うち、人魚に会ったがいぜ」
バカ? 南の島の青い海でおぼれたわけじゃない。チカが頭から突っ込んだのは、黒い煙をゴウゴウ吐き出す工場真横の用水路だ。
あれから十数年経ったが、チカの頭は十歳くらいで止まったままだった。
俺は責任を取るかたちでチカを嫁にもらい、親父の跡を継いで医者になった。
チカが橋から落ちたとき、一緒に遊んでいた俺が、おぼれる彼女を見殺した。
△△△△
まりんはチカの話を聞くのが好きなようだった。母ちゃん母ちゃんとチカの後を付いてまわり、人魚の国での冒険譚をせがむ。
「うちが目を開けると、五人くらいの人魚さまがうちを囲んどったが。うちが息できんで苦しんどるがに気が付いて、その中の一人、いっちゃん大きい人魚さまがうちの顔に手をかざしたん。そしたらうちの頭はぶわーっと大きい泡に包まれた。そん中でなら息ができたが。手、水かきが付いとったよ。おぼれとるが助けてもらったがに、うち怖くて、ふるえるばかりやった」
キャッキャッとまりんはよろこぶ。
子どもが実の母親になつくのは当然だが、生まれる前は不安もあった。チカの中身は幼い。ちゃんと母親をやれるのか。
しかし周囲の助けもあり、何よりチカが生まれた娘に愛情をそそいだことで俺たちはうまくいった。母親というよりは歳のはなれた姉のような雰囲気だが、チカはまりんの前では保護者をやってくれる。
まりんをあやしている時のチカの顔は、いつもの稚気が失せて、大人びていてうつくしい。
「チカ。たまにはこっちの絵本も読み聞かせてたれま。幼稚園とか入った時、みんな知っとる物、まりんだけ知らんだら可哀そうやんけ。みんなが桃太郎ごっこしとるがに、まりんだけできんかったり……」
「嫌やしー。だって桃太郎は嘘やもーん」
と子どもじみた口調でチカは言う。
いわく、桃から人は生まれてこないし、犬や猿や雉は喋らないし、鬼なんかいない、桃太郎は嘘だよーと。
人魚だっていない。いないが、いないと言うとチカは暴れる。
俺は溜息をひとつ吐き、今日も仕事場へ向かった。
△△△△
包帯を巻き終わったとき、患者が言った。
「ヤミイチ先生、嫁さんの悪口ばっかり言ってますけど、僕からしたらモグリの闇医者とキチガイ女でお似合いですよ」
「あん? 医師免許が何やちが。俺はンなもん取ろうと思えばいつでも取れるが。うちの家訓は、医師会のクソ溜めには死んでも入らんこと! そのおかげでオマエみたいな社会のクズが治療してもらえるがやから、感謝せんなん」
「ヤミイチ先生みたいなのは、嫁さんもらえるってだけで恵まれてるんじゃないですか?」
安倉のうざったい長髪が冷房に吹かれてそよそよと揺れている。
この患者、安倉という偽名を名乗る男は、俺が無免許であるという一点だけで俺を侮っているふしがある。腹立ちというよりは厭きれてしまう。あまりに頭が悪いと、他人の価値が測れないのだ。
しかし安倉は医療費を値切らず、ちょくちょくケガをしてくれるので、患者としては上客だった。
「にしても、人魚か。僕、人魚は見たことないですよ」
「当たりまえやにか。人魚なんかおらん」
「いやあ、漁師なんかやってると、色んな……ものすごいきらびやかな魚も、なんだかよくわからないヘンな魚も見ますけどね、そんなもの見てると、思いますよ。もしかしたら人間みたいな形した魚もいるかもしれないなって」
漁師をやって、と言うが安倉はけして健全な漁師ではなく、生粋の『密漁師』である。獲ってはいけない場所のサザエだのウナギだのを乱獲してヤクザに渡している悪党だ。そして、その対価に得たヒロポンをアホな若者に売りさばいた罪状で全国的に指名手配されている。
まあ、そのド悪党からヒロポンを買って仕事で使っている俺も、片棒を担いでいるのだが。
「ヤミイチ先生、あんまり嫁さんの悪口を言うものじゃありませんよ。聞いてて楽しいものじゃありません。客、来なくなりますよ」
「だら。こんなとこに来る奴ら、他に行くとこないがに」
「足元見ますねぇ。殿様商売もイイトコです」
また何かあったらお願いします、と安倉は帰って行った。
△△△△
まりんに絵本を読んでやっているとチカが起きてきた。チカは寝ぼけてブランケットや枕などを持ち歩くくせがある。
ぼさぼさの髪。寝ぼけ眼で「おなかすいたー」と一鳴き。犬や猫と変わらない。
「……まりん、母ちゃんおなかすいたと。何食べたい?」
「おむらいすー!」
元気いっぱいにまりんが答えたので俺はオムライスを作ることにする。米と卵とケチャップがあればそれらしくなるので、まりんの好物がオムライスなのは助かる。
チカがいっしょになってスプーンを指揮棒のようにしながら「オムライス♪ オムライス♪」と歌っているのはいただけないが。本来ならば食器で遊ぶなと注意しなければならない立場だ。
ケチャップで口のまわりを真っ赤にしながらごはんを頬張るまりんはかわいいが、チカはかわいくない。
おぼれる前、チカは同年代の中では大人びた子どもだった。クラスの誰より背が高く、長い前髪をかきあげたヘアスタイルはテレビで見る女優のようだった。成績は振るわなかったが地頭の良い印象で……。
それがどうして、と俺が言えばチカの家族は「おまえの責任だ」と言うのだろうが、俺だって当時は子どもだった。
娘もできて、今さら別れようとは思わないが……。
「愚痴くらい許してほしいもんやぜ」
「なーにー?」
「仕事の話。前にも話した漁師のあんちゃんがな、やっぱちょっと苦手やなって」
「前~?」
「おぼえとらんか。ほら、旅の人の。前にブリの頭くれたやろ」
「食べたー! おいしかったぁ。お魚くれる、良い人やんけ。なんで悪口言うがー?」
まりんもブリさんおいしかったよねー?とチカはまりんに身体をくっつける。まりんは魚が嫌いだ。生臭いから。
好き嫌いは良くないが、我が子の好き嫌いをまったくおぼえないチカのほうが、俺にとっては問題である。
その晩だった。
敷布団が汗で張りつき、寝苦しくて、冷房を付けたいと頭では思っているのに、身体が動かない。
金縛りだった。医者である俺が金縛りに霊的な恐怖を抱くことはないが、不快なものは不快だ。
こんなに暑くて、まりんは平気だろうか。俺達は川の字で寝ている。子どもは体温が高い。暑がりだ。冷房を付けてやらないと。
チカ。チカだって暑い寒いがわかるのだから、室温くらい管理できる。俺の代わりに冷房を。
ずる……と何かを引きずる音がして、ああチカが起きたのだと俺はホッとした。
しかし、安心はすぐに不快さに変わった。チカはずるずると部屋中を歩きまわるばかりで、一向に冷房を付けない。リモコンが見つからないのだろう。俺も起きて一緒に探してやらないと……。
俺は目を覚まそうとふんばったが、何にもならない。目も開かない。
そのうち、違和感に気づいた。
引きずる音がやけに重たい。布団や枕でこんな音は出ない。そして、足音がしない。探し物をするチカがこんなに静かなのもおかしい。いつも「ないー、ないー」とうるさいのに。
さらに妙なのが、その気配が俺のそばを離れないことだった。部屋中を歩き回るでもなく、寝ている俺のまわりだけをグルグルと……。
その、俺を中心に描かれた円がどんどん小さくなっている。引きずる音がどんどん近づいて、つんと生臭さが強く臭うようになってくる。
やけにひんやりとしたソレは、やがて俺の顔に、口に――――。
「うわあっ!?」
俺が飛び起きると、まりんにおやつをやっていたチカがスプーンを取りこぼした。
「びっくりしたー。なにー?」
「はあ、はあ」
夢だったのか?と汗をぬぐおうとして、顔中べったりと謎の液体がまとわりついていることに気づいた。
口に入ると塩っからい。バカになっていたらしい鼻が機能しはじめる。どぶの臭いがする。藻だか何だかわからないものが頬にこびりついていた。
「チカァ!!」
びくぅ!とチカの背すじが伸びる。
「オマエまた何かしたやろ!」
「な、何けー? 何かした?」
「とぼけるなや! 夜中に何かズルズルやっとったやろ! うるさくて目ェ覚めたわ、そんで俺ん顔に何かこぼしたやろ!!」
「なんかー?」
チカは本当に何が何だかわからないようすで首をかしげている。しかし、俺が近づくとハッとした。
「こん臭い……」
「おう、何したがや!」
「来たがけー」
「ああ!?」
「人魚さま、来たがけー」
来たのか、とチカは言った。来ることを知っていたように。
△△△△
「まあ、普通に考えたら嫁さんが何かしたんでしょうね。頭のいかれた狂信者なんでしょう? いつまでも人魚さまを信じない罰当たりな旦那に、実力行使に出たとか」
「俺もそう思ったがやけど、尻尾が掴めんがいぜ。もう一週間おんなじ目に遭って、起きるたびに怒鳴っとるわ」
「一週間!? 一週間も連続して金縛りになってるんですか」
「金縛りは続くもんや」
「さすがにおかしいでしょう」
安倉は厭味なほど長い足を組んだ。
「偶然ってことはないと思いますよ。ヤミイチ先生、腐ってもお医者さんでしょう。金縛りを強制的に起こす薬とかってないんですか? メシに一服盛られてるんじゃないですか」
「チカはメシなんか作れんよ」
とは言え、おかしいなとは思っていた。そうでなきゃ安倉になんか相談しない。
「そんでな、頼みがあるが。今晩でもウチに泊まって、チカのこと見張ってくれんかな」
「ええ!?」
と安倉はのけ反った。めずらしい反応だった。
「いや、僕が言うことじゃないですけど、それは良いんですか? 奥さんと小さいお子さんがいる家に、よく知らない男が泊まって。それも、先生が寝ている間に奥さんの見張り?」
「見張りと言っても、あんたは客間で寝てもらって、俺も客間で寝るって言って、それだけや。べつに寝ずの番をしてもらおうってわけやない。頼むわ」
「なぜ僕に」
「こんな家の恥になること友達に言えん。行きずりの患者ぐらいしか話しとらんし、患者はクズばっかやろ。そん中であんたはマシや。人ぉ殺すわけでも女ぁ犯すわけでもない、魚釣ってクスリ売っとるだけやろ? な?」
「まあ、先生にはお世話になってますから……」
先生がいいなら、と安倉はうなずいた。
△△△△
いつも魚をくれる人だよ、と言うと案の定チカはよろこんだ。
「今日はお魚ないんですかー?」と間延びした口調で問いかける。
安倉は「いやぁ、今日は何の手土産も無くてすみません」と大人の対応をしてくれているが、恥ずかしい。これだから普通の客は呼べない。
まりんは「なんで男のひとなのに髪の毛が長いが?」と首をかしげている。「好きな髪形にしていいんだよ」とたしなめて形だけ安倉に謝罪するが、子どものやる失礼だから俺もそんなに気にならない。
夕飯は外で総菜を買ってきた。客が来ていることを理由に飲物もペットボトルだ。
米をよそおうとまりん用の茶碗を探したが、ない。
「チカ、まりんの茶碗どこ行ったか知らん?」
「ごめーん、
「ああ!? またけ、あほんだら。無くしたがなら言えま」
説教しようとしたが、安倉が止めてきた。はやく夕飯にしたいらしい。たしかに腹は減っている。俺は腰を下ろした。
まりんは家に他人が泊まることが物珍しいらしく、しきりに安倉に質問を繰り返している。
話もそこそこに客間に案内してやると、安倉が耳打ちしてきた。
「ヤミイチ先生。奥さん、すっごい美人じゃないですか!」
「はあ? 何やおまえ、人の嫁はんにいやらしい」
「そうじゃないですよ。先生が嫁さんの悪口ばっかり言うから、てっきりブスなんだと思っていたんです」
「まあ、見慣れれば何とも思わんけど、たしかに美人やろうな。ココがコレになる前はモテモテやったわ」
こめかみを指してクルクルとまわすジェスチャーでチカの状態を表現する。
俺としては話を終えたかったのだが、安倉はまだ続けたいようだった。
「あと、先生が文句ばっかりだったっていうのもありますけど、単純に、先生ってブサイクじゃないですか。先生がブサイクだから、嫁さんもブスなんだろうなって勝手に思ってました」
「失礼やな! 男は見た目やなくて、中身や。アタマと金やぜ」
「だって。いや本当に。先生、子どもの頃の責任を取らされて自分に釣り合わない嫁さんを養うはめになってる、みたいに言ってましたけど、逆じゃないですか? 先生が釣り合ってないですよ。奥さん、引く手あまたでしょう」
声のトーンを変え、真面目ぶってそう言われて俺はおどろいた。
「あ、すみません。先生をなじりたいわけじゃありませんよ。ただ、もっと大事にしないと逃げられてしまうって話をしたいんです」
「逃げるって! チカがどこ行ける言うがや。外で働けんよ、あんなが。わかるやろ」
「まあ、頭が良いに越したことないですよ。でも、僕が見る限り、奥さんはマトモですよ。話が通じますもん。それで、とびきりの美人。先生みたいな闇医者じゃなくて、正規のお医者さんの正妻として、お手伝いさんに家事やらせてデカイ犬とか飼ってても違和感ないですよ」
「あんたなあ……」
いよいよ嫌になる。頼み込んで家に泊まってもらっているので、強くは言わないが。
「ちょーっとメシ囲んで話しただけで、ウチんこと何もわからんやろ。一緒に暮らしてみられ。やっとられんよ。子どもが二人おるようなもんや」
「……まあ、たしかに僕はよく知りませんけど」
しぶしぶ話を切り上げた安倉に布団をひいてやる。俺の布団も持ってきて、準備は万端だった。
「まあ、客が来とる時に何もせんと思うけど。なんかあったら頼むわ」
「今日の宿代が浮いてラッキー、と思っておきます」
△△△△
その晩も金縛りは起きた。
目をひらけないまま周囲の気配を探る。安倉はどうしているのか。あの気配はまだ来ない。
「うわああああ、ああああ、ああっ!」
男の悲鳴が聞こえて、俺の意識は急速に覚醒した。
金縛りが解け、はっと身体を起こす。部屋が明るい。布団に安倉はいない。俺は部屋を飛び出す。
安倉は廊下に寝転がっていた。
「何け、大声出して!」
「出ましたよ!!」
声をかけるや否や血相を変えて立ち上がり、部屋を見回したかと思えば、安倉はバタバタと走り出した。
「まりんが起きるやろ。なあ、どうしたが」
「どうもこうも!」
安倉は髪を振り乱して叫ぶ。
「マジですよ、起きてること!」
ぽかんとした俺を尻目に安倉は玄関へ向かった。俺はあわてて止める。
しかし安倉は聞かなかった。家を出て非常階段を駆け下りていく安倉を、俺は追いかけた。
夜の町を走り抜けた安倉は、繁華街に足を踏み入れるとようやく落ち着いたようだった。立ち止まる。
かと思えば、ばっと路地裏に飛び込んだ。
のぞきこむと、奴はげろげろと今日の夕飯を吐いている。
「安倉! 俺が寝とる時に何があったが?」
「……便所ぉ借りたくなって、目ぇ覚めたんです。で、便所の帰り……ずるずるずるずる、音がしまして。居間のほうから。においも。居間、奥さんとまりんちゃんが寝てるはずだから、何だろうと思って、のぞいたんです。そしたら」
はああ、と安倉は嘆息する。吐瀉物のすえたにおいが鼻をつく。
「暗くてよく見えませんでしたけど、あれ、人魚ですよ。上はヒトで下は魚。おとぎ話のまんま。身体は、人間より一回り大きい感じで。身長が、とかじゃなく、太さとかでかさが」
「ちょ、ちょ、待てや。アンタまで人魚とか言うがけ」
「そうとしか言えませんよ!」
安倉のバカでかい叫びは、周囲の喧騒に簡単にかき消された。
「言っときますけど、絶対に奥さんのイタズラではないです。というか、人のわけない。物音を立ててしまって、奴が僕に気づいた瞬間、そいつゴキブリみたいな速さで部屋から出てきました。そんで僕は叫んで、先生が出てきた。そいつは消えてた。終わりです」
「まさか」
「先生が信じないならべつにいいです。僕は僕の仕事をするだけです」
「仕事?」
「魚獲りですよ!!」
ぐわっ!と顔を寄せてきた安倉の目はギラギラと輝いていた。げろまみれの口からのぞく歯が白い。
「感極まりすぎて吐き気がしてきましたが、もう平気です。ちゃんと道具を用意します! また泊めてください。僕はね、お魚が好きで漁師やってんです。人魚の学名に俺の本名を付けるためなら捕まってもいい」
どすどす去ろうとした安倉は、ふと立ち止まった。背中越しに見えた人影に俺も足を止める。
寝間着姿のチカが、眠ったまりんを抱っこして立っていた。
「奥さん」
「安倉の兄ちゃん、怖がらせてごめんなー」
「チカ? なんでここに」
「人魚様、うちを迎えに来たが」
「ああ?」
「うちとまりんは、海に呼ばれとるが」
△△△△
チカの頼みで車を出して、俺達は近くの宿泊施設に転がり込んだ。
なぜか安倉も付いてきたが、まあ、チカの荒唐無稽な話を組み直すには安倉の証言があったほうがわかりやすいだろう。
安倉の言うことには。
安倉が居間をのぞいた時、人魚は這いつくばり、匍匐前進のように腕を使って、重たそうな尻尾を引きずって進んでいた。その先にいたのがチカだったという。
チカは起きていて、椅子に座った状態で、何やら段ボールの箱を持っていた。
「まりんのオモチャとか、うちの洋服とか渡しとったが。人魚さま、いつもソレ持って帰ってくが」
「まさか、まりんの茶碗もそれで……?」
「そー」
「なら、そう言ってくれたら」
怒鳴ったりしなかったのに。
「先生、その話はいいでしょう。つまり「人魚さま」は、チカさんとまりんちゃんを迎えに来ていて、チカさんは身代わりに自分たちの持ち物を渡すことで難を逃れていた。そうですよね」
安倉は興奮したようすで。
「ということは、人魚はまた先生の家にやって来るってことです! 僕はそこを狙って捕獲すればいい」
「安倉ぁ、あんた、人の家の危機をそんなふうに言うか?」
「言いますよ! 先生だって人魚捕まえたらもう安心でしょう」
「…………」
なんとなく流されていたが、そういえば俺は人魚を見ていない。この話すべてチカと安倉による狂言の可能性がある。
「やめて。人魚さま、捕まえんで。危ないよ」
チカはまりんを抱き直して、俺に向かった。
「ねえ。うち、もうあの家には帰らんよ。人魚さまが来るから」
「…………」
「それでいいですよ先生! 僕に鍵だけ渡してください。僕が捕まえときますから」
「だら! 鍵ぃ渡すほど信頼ないわ」
俺は頭を掻く。
そもそも寝ているところを叩き起こされている。慢性的な寝不足でもある。人魚の話が嘘にせよ本当にせよ、ここに避難したのだから、ここは安全なのだろう。
んんん、とまりんがぐずった。眠たいのに周りの大人がうるさくて寝きれないのだろう。ここまで起こさずに来られたことが奇跡だ。はあ。
「チカ、わかった。あの家には帰らん。でも、一回休もう。寝直そうや」
「…………」
「安倉、あんたも寝られ。どうせ次に人魚が来るがは明日……もう今日か、今日の夜やろうし」
不満げな安倉を無視して、俺は布団に入った。
△△△△
物音で目が覚めて、まだ部屋が暗いから寝直そうとした。
ガチャガチャと扉を開閉する音に、ああ安倉のアホが煙草でも吸いに出たのだウルセーなヤニカスがと思いつつ寝返りを打ったら、目の前に安倉の安らかな寝顔があった。不快さに背中を向けようとして、気づく。
出ていったのはチカだ。
飛び起き、電気を点けると、チカとまりんの布団がもぬけの殻だった。安倉が眠ったまま「まぶしぃぃ」と嫌そうにうなっているが関係ない。俺も部屋を飛び出す。
チカ、こんな時にどこへ。
幸い、すぐにチカに追いつくことができた。まりんをおぶって夜道を歩いている。
のどかな街並みだが電灯が少なく、人気もなく、何があるかわからない。
「あれー、追いかけてきたが」
「チカ! どうしたがこんな時に。危ないにけ」
「……せっかくココまで来たから、夜のうちに岬に行って、朝のお日さまと海、まりんに見せてあげようと思って」
海。そういえばここから近いのだった。と言っても海水浴ができるような綺麗な海ではないが。
「まりん、可哀そうや。今の時期は特に外に出られんで。日焼け止めも、ベタつくから嫌がるし。やから朝の、太陽が低いうちにと思ったが」
「……そうやな」
肌の弱い娘のために、母親らしいことをしようとしたのだ。ただ、まりんはまだ寝ている。まったくチカは……。
「いいけどな。せめて俺を起こしてくれや。変質者に遭ったらどうするが」
「ごめーん」
チカはぺろりと舌を出して笑う。俺はなんだか気が抜けた。
街灯の薄暗さのせいか、今日のチカはなんだか年相応に見える。連れ戻そうと思っていたが、やめた。
俺はまりんをおんぶするのを代わってやり、岬までを一緒に歩くことにする。
「チカ……人魚さまに連れていかれること、どうして相談してくれんだが?」
「やってアンタ、人魚さまのこと信じとらんにか」
「やけど、チカとまりんが危ないってんなら、なんとかしようと思ったわ」
「…………」
岬に着いた。波が打ち寄せる音がする。
チカは「まりんを返して」と手を差し出してきた。まりんを抱っこすると、チカは俺に背を向ける。
チカの寝巻、足首まで隠すスカートの裾がたなびく。
理由はともかく、チカはあの家を出たいらしい。たしかにあそこは手狭だし騒がしい。これを機に引っ越すのもいいかもしれない。
次はのどかな山が良い。新しい街で落ち着いたら、まりんに弟か妹を作ろうか。
「うち、危ないなんて思っとらんよ」
「え?」
「うち、人魚さまと一緒に行きたいが」
どっ、と全身が重たくなった。チカが何を言い出すのかわからない。
「うち、人魚さまと人魚の国で暮らすから。まりんも連れてくから。あんた、元気でね」
「何言うがけ」
「うち、人魚さまのこと好きなが」
俺はチカの胸倉を掴もうとしたが、チカはまりんを守るように身をよじった。
ふざけるな。
「人魚サマ? 気ぃ狂っとるわオマエ。一週間ちょっと前に、はじめて会ったがやろ」
「ちがう。子どもん時にも会っとる。人魚の国で。そん時からうち、人魚さまのこと好きやった。人魚さまも、きっと、うちのことずっと想ってくれとったが」
だから迎えに来てくれたのだ――というチカの胸倉を、今度こそ掴んだ。
まりんが起きそうになったが知ったことか。まりんは俺の味方になってくれるはずだ。母親がこんなことを言いだして、子どもが泣かないはずがない。
俺はあらん限りの大声を出す。
「河でおぼれて以来ヘンになっちまったオマエを、ずっと助けてきたんは俺やぜ!」
「アンタがうちを橋から突き落としたがやろ」
「なん」
冷や水をぶっかけられた気分だった。
どうして。忘れているはずじゃ。
「おぼれる直前のことは、よくおぼえとる。黙っとったがは、また殺されると思ったからや」
チカは、いつもの白痴の顔ではなくなっていた。恨みつらみに満ちた、女の顔だった。真っ黒い瞳で俺を睨みつける。
「ずっとずっとずっと、うちが本当に忘れとるかしつこく確認してきた。怖かった。嫌や言うとるがに迫られて口ぃ付けられそうになった時から、ずっと怖かった。うちが本当に本当に嫌になって、本当やめてほしくて話したら、逆上してうちを橋の上で突き飛ばした。陸に上がれんように、木の棒でうちの手を滅多刺しにした。そん時からアンタは何も変わっとらん。えらそうで自己中で、まわりが見えとらんで。お義父さんからも腫物扱いされとるん、気づいとらんやろ。うちを怒鳴るとき、うちしか見えとらんから、まりんが怖がっとるんも知らんやろ。欲しいもの、壊してでも手に入れて、壊れとるからぞんざいに扱う。クソ男」
「やめろ」
「逃げたかったけど逃げれんだ。うちの家族、誰も許してくれんだ。だって、うちの家、アンタの家が無かったらバラバラになるから」
チカの父親は不法滞在者だ。この国で普通の仕事には就けないから、俺の親父の下で看護師みたいなことをしていた。チカたち姉妹も戸籍がない。だから俺の親父の世話になっていた。
それを感謝されこそすれ、こんなふうに言われる筋合いはない。
この日を待っていた、とチカは恍惚として言った。
「いつか行けると思っとったが」
「どこへ」
「こんな地の底みたいな生活から、あのうつくしい海の底に」
フツと目の前が真っ赤になって、そこから先のことはよくおぼえていない。
△△△△
チカの首は握った形にくびれていた。首筋に垂れてきた唾液で、俺の手はべとべとになっていた。
それをズボンでぬぐい、俺はあたりを見回す。目撃者はいない。
まりんは地面に降ろされた体勢のまま寝ていた。一連の騒動の最中、ずっと眠っていたようだった。子どもの睡眠の深さに感心する。都合がいい。
俺はチカの足を掴み、岬の先、崖下の海へと引きずる。
――チカはまりんを人魚さまから守るために、みずから人身御供になることを選んだ。俺はそれを止められなかった。
だけどまりんは生きている。俺はチカの遺志を継いでまりんのために生きる。
それで終わりだ。まりん、俺の血をわけた娘。チカと違って頭がまともで、俺を拒絶しない娘。
何が人魚さまだ。そんなものはいない。チカの作った口実だ。
だが、その狂言は利用してやる。チカが人魚さまを妄信していたことは、チカの知り合いみんな知っている。チカが人魚さまのために死んだところで誰もおどろかないだろう。
チカ、おまえなんか嫌いだ。自分の策に、自分でおぼれて死ね。
チカの死体を落とそうとしたところで、ガサ、と物陰から人の気配がした。見られた。
俺は即座に顔を上げる。俺は恐ろしい形相のはずだ。誰だ。安倉か? 誰でもいい。まとめて消さないと。
「う」
視界に飛び込んできたのは、這いつくばった人間の上半身と、そこから伸びる魚の下半身だった。
ずる、ずるとあの音が近づいてくる。
△△△△
「人魚さま」は想像とまったく違っていた。チカの話とも違う。いや、チカの言っていたこととはすべて一致している。
一致しているが、それ以外のすべてが違う。
まず、奴の体表の質感は魚そのものだった。にぶく光る固そうな肌。あごが無いらしく、ひらきっぱなしの口は真っ暗の穴になっている。歯がない。舌もない。眼球は顔の左右、耳に近い位置に付いていて、正面から見るとのっぺらぼうのようだった。
あまりのおぞましさに言葉を失う。俺はこれに負けたのか?
寝ているまりんを抱え、俺は逃げた。宿に戻ろうとした。
しかし、一心不乱に走り抜けるうちに道を見失ってしまっていた。
立ち止まる。ぜえぜえと喉が悲鳴を上げている。どこでもいい。民家。民家はないのか。
どれだけ走ったろうか。最後は歩くより遅かった。とにかく進み続けた。
もしかしたら民家や店を通りがかったのかもしれないが、目に入らなかった。
はっと気づく。ここは、あの海だ。チカが打ち上げられた、あの浜辺だ。
もう一歩も動けなかった。自分の呼吸音がうるさい。頭が熱い。
俺は膝をつき、まりんの身体をゆっくりと地面に横たえる。
まりん、かならず父ちゃんが守ってやる。おまえを海の底に沈めたりしない。
ここからなら俺の実家が近い。そこで状況を立て直して、あの人魚の魔の手が伸びないところまで逃げよう。
まりんがいれば俺は、どこでも大丈夫だ。
ずる、ずる、ずる。
背すじが凍る。どうして、早すぎる。
振り返ると、やはり奴は来ていた。
ああ、安倉の言葉を思い出していた。『ゴキブリみたいな速さで』。あああ。魚の眼がこちらを見据えている。
俺は尻もちをついたまま両手で後ずさりしていた。まりんを手放して。
しまった。まりんを置いてきてしまった。もう人魚とまりんは目と鼻の位置だ。
「やめろ!」と咄嗟に叫んだ。しかし、人魚はすやすやと眠るまりんには見向きもせず、ずりずり、俺に一直線に向かってきた。
どんどん這ってくる。俺はもう動けない。
なぜ。どうして。チカは言っていた。「うちを迎えに来たが」「うちとまりんは海に呼ばれとるが」。
なら、俺は関係なかったはずだ。
気付く。そうだ、朝いつも、顔が汚れているのは俺だけだった。コイツは、いつも俺のまわりを這っていたのか。チカでもまりんでもなく、寝ている俺のまわりを。
どうして——。
人魚の手が俺の腕をつかむ。ぬめった肌。その穴ぐらのような口が、俺の顔に、目に――――。
△△△△
岬でチカの死体を発見した安倉は、そこから伸びる人魚の体液を道しるべに浜辺へとやってきた。
「先生!」
地面に転がったヤミイチは、既に頭が半分欠けた状態だった。
人魚はずりずりと這い、まりんに近づこうとしているところだ。まりんは気絶しているのか動かない。
不法投棄のゴミ山から手ごろな角材を掴むと、安倉は人魚に向かって振り下ろした。
「ギャアアアアア」
怪獣のような鳴き声だった。振り返った人魚はぎょろりと血走った目で安倉を睨み上げ、尻尾を振りかぶった。
吹き飛ばされた安倉は砂浜に転がる。
「ううう」
立ちあがると、安倉はふたたび角材を取り、今度は頭に向けて振り下ろす。
当たり所が良かったらしく、青い体液が舞って人魚は一瞬動きを止めた。しかし一瞬だ。
ふたたび尻尾の体当たりを喰らった安倉は、地面に転がってせき込んだ。
人魚は一心不乱にまりんに向かっていく。ビタンビタンと尻尾が地面を打ち、そのたびに浜辺に奇怪な模様が描かれた。
安倉はぐらぐらする頭を抱えながら、何かないかと辺りを見回した。ぼろぼろの漁船が打ち上げられているのが目に入ったのは、職業柄だった。
乗り込んだ安倉は目当てのものをひっつかむと、一目散に駆け人魚の背中にソレを放った。
ひき網である。
突如、四方を覆われた人魚は暴れたが、網から逃れることはできないようだった。
安倉は網のはじを漁船に括り付けると、縄を手に人魚に近づいた。動きまわる隙を突いて網に縄をからめ、簡単にはほどけないようにする。
「しょせん魚か」
人魚は網から出ることをあきらめたらしく、ぐっと手を伸ばしてまりんの頭に掴みかかろうとした。
水かきの付いたのっぺりとした手が、額に触れる直前、安倉は網を引っ張り人魚をまりんから遠ざける。
抵抗した人魚が尻尾を振り回そうとしたが、網がまとわりつくようでマトモに動けていない。
「死ねぇ!」
まりんから充分に距離を取った安倉は、角材を振り下ろした。人魚が咆哮する。青色の液体がパッパッと飛び散る。
こうなって安倉はようやく、この人魚の血がイカやカブトガニと同じように青いのだとわかった。
人魚は尻尾をバタつかせる。そのおぞましい蠢き。嫌悪のあまり安倉は半狂乱で、とにかく化物の動きを止めようと背中を滅多打ちにする。
「――――!!」
ひときわ大きく人魚が叫び、びくんびくんと跳ねた。安倉が何もしていない時だった。
人魚は何かから逃れようと身体を縮こまらせている。
安倉は、人魚をおびやかしたものが何か目をやる。
見れば、太陽が水平線から顔を出していた。
「ギャアアア」
人魚が灼けていく。
見る見るうちに皮膚がただれ、肉がむき出しになり、骨まで見えるようになっていく。断末魔だった。獣じみたすさまじい大声が辺りに響く。
人魚はもはや安倉の攻撃に対抗する余力もないらしく、ただただ両腕を動かして船ごと網を引きずって海へ向かおうとしていた。
ジュウジュウと肉の焼けるにおいがする。本当に魚を焼くにおいと同じで、それだけなら食欲をそそる。この光景さえなければ。
どさり。ついに人魚は砂浜に倒れ込んだ。
仰向けになり手を振りまわし、どうにか網から逃れようと。死に物狂いで。
やがて、それは起きた。人魚の腕がぽろりと落ちたのだ。
その断面から少しずつ焦げつき、ぼろぼろと崩壊していく。肉が融けていく。骨が崩れていく。
最後は青色の血溜まりだけになり、それもやがて消えていった。
「…………」
太陽は、もう完全に全貌を現していた。
安倉は木材を構えたまましばらく人魚の復活に備えていたが、それは起こらなかった。膝をつく。
終わったのだ。ヤミイチもチカも助からなかったが、まりんだけは生きている。そして自分も。
「はあ……」
安倉は脱力し、その場に腰を下ろした。朝焼けが嫌にうつくしかった。
煙草を取り出す。
安倉は肺いっぱいに煙を満たして、吐く。そして。
「あー。生け捕りにするつもりが、殺してしもうた」
安倉は頭を掻きむしる。柄にもなく奮闘してしまった。モラハラ闇医者のヤミイチはどうでもいいが、子どもに罪はない。助けなければと、思ってしまった。
「……ワシと同じで、親無しじゃけえ。苦労するやろうね」
もはや誰もいなくなった海辺で、気が抜けたのだろうか。安倉自身ひさしく忘れていた故郷の言葉が出ていた。
地面に転がっているまりんを見やる。大きなケガはない。すうすうと呼吸に合わせて腹が上下している。
とは言え、このまま寝かせておくわけにはいかない。この子どもを連れてどこかの民家を訪ね、電話を借りて、この惨状を通報しなくては。そして指名手配犯の自分は、隙を見て雲隠れだ。
「あれ。……ここの血だけ蒸発しとらんのぉ」
人魚は骨も残さず消えたにも関わらず、まりんの額に付着した青色だけは残っていた。なぜ?
……しかし、この血があれば人魚の存在を公に証明できるかもしれない。
安倉は煙草を離し、まりんの額をまじまじと観察する。
「あ」
違う、と安倉は口を動かした。ぽろりと煙草を取り落としてしまう。これは返り血じゃない。まりんが怪我をしているのだ。
まりんの傷口から、青色の血が漏れている。「人魚さま」と同じ。
「どうして」とか、「伝染した」とか「呪いだ」などということは、不思議と頭をよぎらなかった。ほぼ即座に安倉は確信した。
「遺伝……」
まりんの父親は。
まりんの本当の父親は。
△△△△
泡のようだ。
夢で見るたびに鮮明になって、目が覚めるたびにおぼろげになっていく。それで少しずつ少しずつ忘れていく。
記憶。
「まりん」
安倉のおじさんに呼ばれて、あたしは貝殻をひろう手を止めた。仕事帰りのおじさんは、いつもくたびれている。
「ダメ言うたんに」
「今日は曇りやから平気。日焼け止め使っとるし、日傘もある」
「違う。海がダメなん」
「入っとらん、砂浜まで」
「近づいたらダメなんよ」
「なんでダメなが?」
何回聞いてもダメなんだろうと理解しつつ、あたしは今日も聞いた。
おじさんだって何回言ってもダメで、そろそろ辟易しているだろう。あきらめてくれないだろうか。
「まりんの本当の父さん母さんは、まりんを海から守るために亡くなったけえ。ワシは、残ったまりんを海から守る責任があるんよ」
「海に入ったくらいで死なんし! じゃあおじさんはどうなるが!」
「ほうやの」
おじさんが目を伏せる。
「でも、まりんはダメなん」
呼ばれているんだよ、とおじさんは言う。
たしかに、あたしは海に呼ばれている気がしてならない。海そのものじゃなくて、海の中にあるどこか、海の中にいる誰かに呼ばれている気がする。
もしかしたら小さい頃、お母さんが話してくれた人魚さま。
おじさんは家に向かって歩きはじめた。あたしは後ろを付いていく。今日のお昼ごはんはあたし特製のオムライス。
最後に名残惜しくなって、あたしは振り返る。
「本当に呼んどるがなら……そのうち迎えが来るよね」
底へ。
こんなにもうつくしい呼び声が、悪いものであるはずがないのだ。
父なる海 蓮河近道 @H_Chikamichi
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