エピローグ

最終話 新しい仕事

 エイイチは今日も病院へとやってきていた。


 彼が訪ねるたび、病室の医療機器が日増しに少なくなっていくのが見て取れた。三日前に人工呼吸器が外れた。心電図のモニターもいつの間にか撤去された。ごちゃつくコード類も外され、いまやウメコに繋がっているのは、一本の点滴だけになっている。


「もうすぐ意識が戻るはずだよ」


 ベッド脇でそんなウメコをぼんやり見守っていたエイイチに、話しかけてくる声があった。見ると、白衣を着た中年男性が部屋に入ってくるところだった。


「あ、僕、新しい主治医の黒田ね」


 と、男は言った。


「白川先生のことは申し訳ないね」


「……はい」


 エイイチは答えた。黒田医師は白川医師よりもずっと若く、フレームのないメガネをかけていた。


 黒田医師は続ける。


「毒を止めたら、元の状態には戻るはずさ。時間はかかるかもしれないが、必ずね」


「そうなんですか……」


「そうだよ」


 と、黒田医師は眼鏡を軽く押し上げる。彼によれば、白川医師は患者に毒物を投与していたのだそうだ。その量を増減させることで病状を自在にコントロールし、治療費と称し患者家族から金銭を巻き上げていたのだという。


「でも、白川先生は本当に名医だったんだ」


 白川医師の悪行を語りながらも、黒田医師はどこか懐かしそうな顔をする。


「彼はどんな難病でも完璧に治療することができた。裏でなにか特殊なことをしていたみたいだけど、データも全部消えちゃっててさ。君、なにか知ってる?」


「いえ、……知りません」


 そこで会話が途切れた。


 ふたりの間に気まずい時間が流れ始め、しばらくして、窓の外で鳥が鳴くのをエイイチは聞いた。窓から差し込む日差しが柔らかい。もうすぐ春が来ようとしていた。


 結局、エイイチはエリクサーを持ち帰れなかった。あの後すぐに捕まったからだ。当然、ウメコの病気だって完治していない。


 だが、ウメコが死ぬこともまたなくなったという事実にエイイチは安堵していた。陽光にきらめくウメコの肌はいつもより白く透き通って見えたが、以前認めた妙な青みがなくなっており、順調に回復しているように思われた。


 再び意識が戻るだけでも十分だ。


 そう思ったとき、エイイチのポケットでスマホが震えた。


「失礼します」


 エイイチは黒田医師に一礼し、部屋を出た。


 スマホを取り出して見ると、新しいの依頼が入っていた。


 もともと本業の途中だったので、アパートに戻る必要はなかった。エイイチは病院内のコンビニでプロテインバーを一つ購入すると、ボロボロのデリバリーバッグに放り込み、外に出た。


 外に出ると、やはり冬が終わろうとしていた。寒さがあきらかに緩んでおり、ジャージの襟を立てる必要も感じなかった。


 そういやジャージ買い換えなかったな、そんなことを心のなかでつぶやいて、彼は自転車に乗って走り出す。しかし道は交通量が多く、すぐ信号にひっかかる。


 その待ち時間のあいだに、エイイチはふと思った。


 このままバックレたらどうなるだろう? なんて無視して、アパートに帰る。それで別によくないか? 


 別に構わないように彼は思った。誰かがなんらかのペナルティを与えにはくるだろうが、逃げればいい。アパートだって引き払ってしまえばいい。どうせろくな荷物もない。治療費も半年先まで振り込んであるし――


 そこまで考えたところで、信号が変わる。このまま帰る――それは彼にとって魅力的な考えに思われた。


 だけど、エイイチにそんなことはできなかった。彼はぐっとハンドルを握ると、目的地向かって走り始めた。


 ペダルを強く、がむしゃらにこいだ。さすがに吹き付けてくる風は冷たかったが、身体はすぐに暖まり、じんわりと汗がにじみ始める。都心部を抜けると澄んだ空気に光が揺らぎ、本当に春が来るんだ、と彼は思った。


 そうして彼がたどり着いたのは、一軒の廃工場であった。


 インターフォンなどはなく、エイイチが重い鉄の扉を引いて中に入ると、埃っぽい臭いが鼻をつく。この工場には窓がなく、いつもなら薄暗いのだが、今日は違った。


 コンクリート打ちっぱなしの床の上に、大きな円が描かれていた。円の中には複雑な文様とこの世界のものではない文字がびっしり描かれ、淡く青く発光していた。


 魔法陣であった。


 エイイチはその魔法陣を回り込むようにして奥へと進む。工場は殺風景であったが、隅に小さなデスクがぽつんと置いてあって、そこにクリスタリナが座っていた。


「遅かったな」


 と、彼女は言うと、エイイチは答えた。


「いやつか、なんでドラギちゃんがいるんすか?」


 普段通りスーツ姿なクリスタリナの隣に、なぜか今日はドラゴンが鎮座していた。それは、マルパスが飼っていたあのドラギちゃんであった。ワンボックスカーほどのその生き物は例の水玉のパジャマを着て、眠たげに目を細めくつろいでいた。


「あぁ、これは払い下げ品だ。処分されるくらいならと思ってな」


 クリスタリナはドラギちゃんの頭をなでながら続ける。


「ドラギちゃんだ。かわいいだろう?」


「いや知ってるし……」


 と、エイイチがため息まじりにツッコむと、ドラギちゃんはカッと目を見開き、彼を睨めつけてくる。


「のわっ」


 相変わらず凶悪なその眼力に、エイイチは思わず後ずさった。緑の鱗が魔法陣の光を反射し怪しく輝いていた。


 やっぱ帰りたい。


 そう思ったエイイチは、ビビっているのを悟られないよう、もったいぶった動きでバッグからプロテインバーを取り出した。そのままつかつかとクリスタリナに近寄って、デスクの上にバーを叩きつけた。


「ウーパーです。クリスタリナ・モルペウス・ノーベイルアウトさん」


「だからフルで言わなくていいから!」


 クリスタリナはバーを受け取ると、ムスッとした顔で答えた。とはいえ、デスクの上にはこれみよがしにネームプレートが置かれていて、言って欲しいんじゃないの? とエイイチは思った。


 妙な間を挟んで、クリスタリナが口を開く。


「……まぁいい、早速仕事だ。とある書面をムニューシンからイエレーンに運んで欲しい」


「あのー、今回もやっぱりタダなんですよね?」


「当たり前だろ。“社会奉仕活動”なんだから」


「ま、そうですよね……」


 エイイチはそう言うと、魔法陣の中央向かって歩いていく。


 彼は勇者としてベルナンケイアを救ったことで、これまでの悪行について酌量の余地ありと判断された。懲役のかわりに課されたのは、一千時間の社会奉仕活動。異世界から異世界へと、秘密裏に物資を運ぶのが彼の償い。それが彼の、新しいなのであった。


 エイイチはあと九百九十時間もそれをやらなければならなかったが、地獄にいる魔王や王様、クラーケンやマルパスに比べれば破格の待遇といえた。


 その中央に立つと魔法陣はひときわ強く輝いて、エイイチの肉体は異世界へと消えていった。



     <了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

偽装勇者と潜入女神の異世界運び屋 与田 八百 @yota800

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ