下に向かって暮らしていくの

草森ゆき

今でもまだ燃えています



 鳥のにおいが好きでした。

 わたしはほとんど目が見えないので、鼻と耳が頼りです。羽音がすれば心が躍って、羽毛から広がる香りはひどく自由で、一日中でも吸い込んでいられるほどでした。においにはさまざまな色があります。鳥はほんとうに多彩で、朝方にはほのかな緑色、昼時にはあざやかな青色、夕暮れにはくだけた白色、夜にはとめどない黄色の、めまぐるしい香りでわたしを楽しませてくれました。でもわたしは目がわるく、わたしの言葉はいつも誰かに笑われました。夕焼けは橙色だし、夜空は紺色だそうです。鳥はけものくさく、色のにおいなどしないのだと、言われます。

 羽があれば飛んでみたいと、誰もが思っています。わたしもです。そのことでも笑われます、飛べても目が見えないのなら、どこかにぶつかって死ぬだけだ。わたしはちがうと、前を飛ぶだれかのにおいをたどっていけば、危ない目にはあわないはずだと訴えました。笑い声はひどく据えた、排水溝のようなにおいがします。四方から笑われるととたんに気分が悪くなって、わたしはその場に吐いてしまいます。それで今度は、怒られます。火事のようなにおいには、息すら止まりそうになるのです。


 わたしにはお母さんとお父さんと弟がいます。

 ある朝、目をさますと三人ともいなくなっていました。家の中はしずかなにおいに満ちていて、なんの音もしませんでした。家の外、窓の向こうに、なごりだけは嗅ぎ取りました。枯れ草が先っぽから少しずつ膿んでいくような、うしろぐらいにおいでした。そのなかにきらめいた、飛び跳ねるような香りは弟のものでした。まだ小さいのです。あそびに出掛けるのだと、よろこぶ声すら聞こえてくるようで、かなしくなりました。わたしは捨てられたのですが、弟のことは、かわいがっていたつもりでした。無邪気なにおいは、鳥の自由なにおいも思い出させるようで、そばにいるとざわつきました。

 ひとりになったわたしを訪ねる誰かは、特にいません。しばらくはひとりですごして、雷の切り裂くにおいや雨のしたたるにおいを嗅いで、雲のうごく声や星のまたたく声を聞いていました。とてもしずかでした。ねむるような心地で毎日生きていましたが、いつしか本当にねむってしまうと思い、恐ろしくなりました。

 家の中に家族のにおいがしなくなったころ、わたしはひとりで家を出ました。会う人には饐えた笑い声を飛ばされて、馬鹿にするにおいを突きつけられました。悪意のにおいは真っ暗です。それはとても怖いことでした。わたしの頭の中で、笑う人はじわじわ饐えて饐えつづけて、どろだらけの醜いいきものにかわっていくのです。逃げ出そうとしたときに、すぐにつかまって殴りつけられました。理由はたぶんなかったのでしょう。笑っていました。ぐるぐると、うずまいていく腐った香りの中心で、わたしは泣いたり、吐いたり、どこかを切ったり、気を失ってはまた殴りつけられたりしましたが、なにもできなくなってからだの力を抜いてしまえば、わっと蜘蛛の子を散らすよう、誰も彼もまわりからいなくなっていきました。あとには鬱蒼とした悪意のなごりがあって、わたしの血のにおいのほかは、ゆっくりと消え去っていきました。

 誰もいないところに行こう、と思いました。なにも見えなくても、誰もかまわないところへ行こうと。私はあてもなく歩き出しました。ざんざんと、さざなみのような雑草が鳴いていました。潮の香りはしませんでした。


 すずやかな、草花のにおいがひろがった場所にたどりつきました。

 とても落ち着いたかおりがいっぱいで、わたしはたまらなくなり、声を上げて泣いてしまいました。星のちいさなにおいが降り注いできました。ごうごう流れる雲の濡れたにおいは、好き勝手に夜空の上を歩いているようでした。空はみんな自由なのだとわかりました。でもわたしは鳥ではないし、星でもなければ、雲でもありませんでした。

 その場にうずくまって、泣き続けました。かなしいのかくるしいのか、わかりませんでした。なんだか泣いていればどうにかなるような気がしたのですが、冷え冷えとした空気のにおいが、はやく進めと言っているようでした。どこにでしょうか、わたしは目が悪く、みんなに好かれず、家族にも捨てられて、ほとほとひとりぼっちでした。それでも鼻の下で虫のひかえめな香りがしたとき、わたしには爪があることを思い出しました。

 掘りました。たちこめた土のにおいは湿っていて、すべてのにおいがいっしょくたに閉じ込められていました。わたしは星にはなれませんが、星の上にはいるのでした。ひとつ土をめくるたびに、いきものの香りが濃くなっていきました。

 どんどん掘り進めました。奥へ、奥へと、爪を食い込ませていきました。からだはぐんぐん土の中へとはいっていって、まわりからはかぐわしい土の香りしかしなくなりました。とても、おだやかでした。音はあまり聞こえなくなって、香りだけが息をしている空間が、わたしの全身をじっとりと包んでいきました。ねむっていたミミズの親子を起こしてしまって、怒られるかと謝りましたが、わたしにあまり興味がないようでした。ぬるりとしたミミズのにおいは独特で、おいしそうでした。掘り続けるうちにおなかがすいていたので食べました。あふれでたからだの汁が、からからの喉に染みました。また掘ります。どこまで掘ればいいのか、わたしはちゃんと知っていました。においがします。鳥のにおいが好きでした。自由で、どこにでもいける、三百六十度の香りでした。地下深くを目指して掘るたび、わたしの爪はぐんぐんと伸びて、どんどんと折れて、そのうちに、深く頑丈なかたちになって、がちんとかたい、岩肌のような土くれも、ばきばきと割り進めるようになりました。もうほとんど何もわからなくなっていました。土のにおいに血のにおいがこもっていて、それはわたしが流したものでした。弟をおもいました。饐えた悪意のきざさない、まっさらな香りの弟をおもいました。わたしはきっと、両親にあいされる弟をねたんでいました。わたしは饐えたにおいを放っていたことでしょう。それを弟は、知っていたのでしょうか、知らなかったのでしょうか、どちらでもいいようにおもいます。今はなにもねたましくありませんでした。がきん、と新しい岩をやぶりました。どんどん暑くなっていきます。まわりの土が熱をもって、わたし自身もゆっくりと熱くなっているようでした。そのうち、爪に火がともりました。ぼうと燃え盛るものではなく、じわりじわりと、染みのように燃え広がっていくものでした。くすぶった香りの中で、信じられないものを見ました。まぶたの裏側、わたしのつかいものにならない眼球は、幻覚でしょうか、真っ赤な指先をたしかにうつしてくれました。それは地下深く、だれにもわからない場所にねざしたいのちでした。ぱっとひらいた赤色が、点々と散っていきました。星がうまれたと思いました。更に奥へ、あせって突き入れた腕はごうと火を噴きました。そのまま全身が炎につつまれ、わたしはやっと、満足しました。まわりにはなにもありませんでしたし、すべてのことがありました。悪意のいのちも、無邪気の弟も、赤く溶けたわたしの上でずっとずっと生きていきます、そうだとは知らないまま、土の中に沈みます。

 星の中は、燃えているのです。わたしとともに、わたしのように。

 

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