第11話 幸 2

私はその足で佐伯さんの病室に向かった。

別に佐伯さんのことを愛しているだとか。佐伯さんと駆け落ちをするとか。そんなことではない。ただ私が清彦から解放されるきっかけを作ってくれたのが佐伯さんだ。だから清彦と別れてきたことを真っ先に佐伯さんに報告したかった。


夜の病院はひつそりとしていた。私は佐伯さんにいる特別室に向かった。

でもそこには誰もいなかった。この時間は患者さんは絶対に病室にいて、寝ていなければならない時間だった。なのに佐伯さんはそこにいなかった。というよりその病室はまるで何年も使われていなかったように、人の気配がなかった。人のいたという痕跡がない。ベットだってとてもきれいだし、横のテーブルにも何も置かれていない、ここには確か佐伯さんの読みかけの週刊誌や水差し。花の活けられた花瓶などがあったはずだった。

私は持っていたスーツケースをそこにおいた。

シーンと静まりかえった病室には。月の光がさしこんでいた。そして私は、目が覚めてゆくような感覚に襲われた。だんだんに意識がはっきりしてゆくような、こんなにもリアルに感じていた夢が夢であることが認識できるように、目が覚めるように。




「佐伯さん、佐伯さん。どうしたんですか。また考え事ですか」

佐伯さんはまた廊下隅にうずくまっている。そのパジャマ姿のまま廊下の隅にうずくまっている姿というのは、また何かあったのではないかと思ってドキッとする、仕方なく私は佐伯さんを病室に帰らせるために、近づいた、そうしないと立ち上がりそうになかった。たいていうずくまっていないときはぼーっとと窓の外を眺めている。それならまだいい。廊下にうずくまっているのはよくない。

「さあ、佐伯さん。病室に帰りますよ。さあ立ってください。佐伯幸さん」

彼女は簡単に言えば重度の自閉症というところだろうか。自分の殻に閉じこもって出てこようとしない。原因は不明だ。そもそも精神障害とはそういうものだ、投薬も対処療法の域を出ない、根治を目指した治療ではない。でも彼女はそんな自分を良くは思っていないようには見える。まるで彼女は彼女自身の中で別の人生を歩んでいるかのように見える。

その憂いに満ちた美しい横顔は知らない人が見れば、彼女が重度の精神病患者だということさえ分からないだろう。ただ反応がないだけなのだから。感情があらわになることもないから患者としては扱いやすい方に入るのだろう。

焦点の合わない目で窓の外をぼんやり見つめている姿は、綺麗なのかもしれない。現実の中にいながら心は現実の中にいない。この世の汚いものを見ず、純粋に精神世界に身を置いておける。


「せっかく解放されたのに」立ち上がりながら佐伯幸さんはつぶやいた。

「えっなんて言ったんですか」つい私は返事をしてしまう。彼女に私のことは分かっていない。見えているのに、それは道端にある石ころのように意識の中には入っていかない。だからこうやって何か口ばしっても、それは私にかけられた言葉ではない。でもその美しい顔と目は彼女の心が壊れていることを忘れてしまう。

「せっかく私は、解放されたのに」

「何ですか、解放って」

「また、戻ってしまった」

「なぜ、戻ってしまったのですか」

「自分に、出会ってしまったの」

返事をした。佐伯幸が私の言葉に返事をした。いやまて、考えるんだ。彼女が正常に戻ってきていると思うのは早計だ。私の頭の中で様々な思いが浮かぶ。そのうちに佐伯幸はさらに続ける。

「特別室にいた佐伯さんは私自身だったんだわ。それなのに、私はそんなことに気づきもしないで、私は、私の言葉にそそのかされて清彦を捨てた。彼は私のことを本当に愛してくれていたのに」

「僕が?今度の夢の中ではこの友田清彦が相手だったんですか」

「そうあなたは私を縛っていた。そこからの解放を目指して。私は、私のことを愛してくれていた清彦を捨てたのに」

「夢の中で僕はどんな人間だった」

「友田清彦は私を独占しようとしていた。でも私はそれが煩わしかったそれが破局の原因」

「確かに僕は君を拘束している。この病院の外には出さないようにしている。でもそれは君自身が望んだことじゃないか」

「私が望んだ?」

「そうだよ」

佐伯幸はその驚いたような言葉と表情を最後に自分の中に戻っていった。そしてまた。何を言っても反応しなくなった。

佐伯幸は最近何かというと解放という言葉を口走っていた。それがなにを指しているのか私には分からなかった。あるいは私からの解放だったのか?

なぜ。

私が彼女を拘束したというのか。いや確かに拘束と言えばその通りだ。でも病院の中では自由にさせているし、拘束着のようなものだって着せたことはない。もっとも彼女はとてもおとなしいので、そんなものは必要ない、またおとなしくなくて、も華奢な彼女だ簡単に抑えることが出来る。

まあいい。また明日になれば彼女は別の世界にいるのだろう。

彼女はいつだってここに、この病院にいることを忘れて、べつの世界に飛んでいる。あるいは本当に行っているのかもしれない。ただそれが私たちには分からないだけなのかもしれない。どっちにしろ、佐伯幸のその目の中には何が映っているのか、我々には図りしれない。

「それでは」と言って私は清々しい風の入ってくる特別室を後にした。

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解放 帆尊歩 @hosonayumu

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