第10話 佐伯さんはどこ


次の日また佐伯さんは病室にいなかった。

ただ開いた窓から清々しい風が入ってくるだけだった。白いカーテンがその風になびく。ベッドはきちんと整っていて、まるでそこに住人なんていないかのようだった。白い部屋には余計なものは何一つなくて、ただ白い空間がそこには広がっていた。

「佐伯さん」私はそこの誰もいないことが分かっていて、佐伯さんを呼んだ。

「佐伯さん」私はもう一度呼ぶ。急に佐伯さんの存在が危ぶまれて。さらに呼ぶ。

「佐伯さん」でもそこは百年間も誰もいたことがないかのように、人の気配のしない白い空間が広がっているだけだった。

とたん私は佐伯さんのいない寂しさに身を苛まれる思いがした。ただ、佐伯さんがいないだけなのに、なぜこれほどまでに。

私は居てもたってもいられなくて、病室を出た。そして気が狂ったように病院の中を歩き回った。それはひどく滑稽な姿だったに違いない。途中清彦が私を見つめているのが分かった。でもその清彦を私は無視した。そしてそんな姿の私に清彦は戸惑、立ち尽くしているだけだった。その時私は確信した。

私は清彦を絶対に愛していない、快楽に溺れ愛していると思っていたのはやはり間違いだった。もしかしたらほんの少しでも愛しているのではという淡い思いが完全に崩壊した。

解放だ。

私は友田からの解放を願っている。たとえ本当に私が、薄汚い獣だとして、私はここから出てゆかなければならない。

結局行き着いたのは屋上だった。でもそこにも佐伯さんはいなかった。屋上に干してあるシーツをかき分けてもそこに佐伯さんの痕跡はなかった。

ただ茫然と私は白いシーツがはためく屋上に立ち尽くしていた。


荷作りをする私の姿を清彦はなにも出来ず眺めている。

それはまるで何が起こったか分からないという感じだった。

「どういうことなんだ。何が不満なんだ」

私は何も答えなかった。勢い余って言ってはならないことを清彦は口走る。

「お前はこんなことできる立場じゃないんだぞ」言ってしまってから、清彦の理性が戻る。

「ごめん、言い過ぎた」

お前は金で買われたんだ。と言われているような気がした。これは暗黙の了解だ、状況はまさにそのとおりだ。でもだからこそ、その言葉は言ってはならない言葉だった。

でも今の私はそんな言葉にも腹が立たなかった。せめてもの救いは「誰のおかげで医者になれたと思っているんだ。という言葉が出なかったことだ。

「お世話になった分のお金はお返しします」

「そんなことを言っているんじゃない。僕はお前に出て行ってほしくないんだ」そうだ清彦は決して悪い人ではない。清彦は悪くない。私の問題だ。清彦はいい人で、私のことを大切にしてくれる、ただ私が清彦のことを愛せなかっただけ。私自身が買われたような気がして。我慢が出来なくなった。ただそれだけ。

「お世話になりました。」

「どこの行くんだ」

「まだわかりません」

「あの男のところに行くんだろう」

「あの男?」

「そうさ、あの佐伯のところ」

「そんなんじゃ、ありません」とは言ったけれど、私は心の奥底で佐伯さんのことを愛しているのかもしれない。

「頼む、行かないでくれ、なんでもするよ、幸がいないと僕は駄目なんだ、悪いところがあれば直すよ」

その言葉で、私がいかに清彦から愛されていたのか気付いた。

「ごめんなさい、清彦さんは全然悪くないの、清彦さんは私のことを愛してくれた。ありがとう、でも私は清彦さんことを愛することが出来なかったの、ただそれだけ」そして私はスーツケースをもちあげた。

「お世話になりました、そしてもう一度、ごめんなさい」そして私は出てゆく。


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