夢はいつか覚める

「お疲れ〜 あれ兄ちゃん、今来たの? ちょうどだったね。電車一緒だった?」


 別の男性の声に合わせ、玄関のドアがさらに大きく開いた。油まみれのジャンバーに、ビニール袋を下げている。


「正二郎、俺たちはこれ買ってたからもっと早く来てる。電車は違うよ、浜松町で人身事故あったみたいだけど大丈夫だった?」

「ああ、それは次の電車かな。な? 美代子」


 うしろから、にゅっと若い女性も顔をだした。


「お疲れ〜そうそう、あれちょっとやばかったらしいよ」


 そんな話をまるできつねにつままれるようにカオルは聞いていた。


——どういうこと? あなたたち、ひょっとして慶太、正二郎、美代子なの? だってあなたたちは子どものはずでしょ? どうして大人の姿に?


「母さん何つっ立ってんだよ、入るよ」


 そういって正二郎が工場の匂いがしみついたジャンバーをゆらしながら、カオルの横を抜けていった。ツーンと油のにおいが鼻をついた。それにつづいて、美代子も「あぁ、うちはやっぱなんか落ち着くな」と言いながら家の中に入っていった。慶太と一緒にいた女性と子どもも、それに続いた。

 目を丸くして突っ立っているカオルを見て、慶太が耳元で囁いた。


「母さん大丈夫? 今日母の日だよ? 母の日は毎年みんなそろってお祝いしてるじゃないか」

「え? そ、そうだったわね。ごめんごめん、最近ちょっと物忘れがひどくて——」


 どういうことだろうか? 子ども達が大きくなって、母の日を祝ってくれている。でもなぜ——。

 何はともあれ、カオルは楽しいひとときを過ごした。慶太は孫である澪にめろめろだという話、正二郎は職場であった危うく車に潰されそうになった話、美代子は彼氏の自慢話。それをうんうん聞いていると、カオルはやがてなんだか本当は元からこんな生活をしていたような気がしてきた。

 どれだけ時が過ぎたのだろう。楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。


「あれ? もうこんな時間、俺帰るね」

「康太、帰るってどこに?」

「家に決まってるだろ、澪風呂にいれなきゃ」

「だって……家はここでしょ?」


 正二郎がタバコの匂いがしみついた頬を近づけた。それからニヤリと得意げな笑顔を浮かべた。


「なんかあったらすぐ駆けつけるからさ、心配すんなって。んじゃ!」


 それから慶太親子、美代子も帰り支度を始めた。


「待って、お願いもう少しだけここにいて、お願いだから……」


 そんな声も届かず、皆一斉に玄関のドアを抜けた。ドアがバタンとしまる。部屋は一気に静寂に包まれた。

 そしてまた再び、あの時の孤独と不安が大きな波となった襲ってきた。


 また一人になってしまった……。


 するとその直後、突然玄関のドアが開いた。


「慶太、やっぱり帰ってきてくれたのね……」

「慶太? 何言ってんだ」


 そこに立っていたのはカオルの夫、良夫だった。


「大丈夫か? 取り乱してたみたいだけど。先輩にお願いして仕事早めてもらった」


 そう言いながら、良夫はスーツを脱ぎ、ネクタイを緩めた。


「あの、あのね、今子ども達が……」


 言い終える前に良夫が寝室のふすまを開けた。


「あのね、いなくなったんだけど、その後——」


 良夫はそんな声も気に留めず、そのまま部屋の中へ入っていった。そしてすやすやと寝息を立てる三人の子どもの寝顔を見つめた。


「やっぱ子どもは可愛いよな、ほらお腹いっぱいで眠っちゃってる」


 そこにはいつもと変わらぬ光景があった。11歳の慶太、5歳の正二郎。起きている時は怪獣だった2歳の美代子。寝息を立てる3人、いつもと何も変わらない。


「この笑顔のために1日頑張ろうって思えるんだよな、カオル、いつもありがとうね」


 そう言って、良夫は背中に隠していたカーネーションの花束を渡した。


「今日母の日だろ? いつか子ども達が大きくなって祝ってくれるようになるといいな」


 その言葉を聞いて、思わずカオルは頬を緩めた。


「そうね、慶太なんか子ども連れてね」


 今は大変だけど、いつかそれも終わる。子どもに手をかけなくてもよくなる頃、それはきっと巣立ちを意味する。その頃は今度はいよいよみんなそれぞれの家に帰ってしまう。そう思うと、この忙しさも宝なのかもしれない。

 思いを巡らせながら、あのクモは悪いクモじゃなかったのかもしれない、カオルはそう思い始めていた。

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消えた家族 木沢 真流 @k1sh

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