中華戯劇譚

敦煌

月の出前の小宴

 北京の宵は美しかった。

 その中でもひときわ太師張平チャン・ピンの庭は、さながら仙界のような絶佳であった。

 松や竹に囲まれた池の対岸には、苔生した白亜の大岩が聳え立ち、石燈籠は黄や橙に灯っている。その四方に石橋が渡されていて、燈籠の光が揺蕩う黒の水面に、金銀錦の鯉が遊んでいる。

 その中央に浮かぶ赤屋根の亭に幾つかの赤提灯を吊り下げ、席をこさえて、彼は、他二人の大臣とささやかな宴を愉しんでいた。

「いやはや、こうして三人で酒を酌み交わすのも何日振りかね」

 白髪頭に頭巾を被り、はだけた山吹の着物から恰幅の良い腹を覗かせた男が、立派な白い顎髭をしごきながら感慨深く言った。彼こそ太師の張平チャン・ピンである。

「全くだ。俺なんざ最近は特に忙しいんでろくに寝てもいないさ」

 こちらも小冠を戴き、ゆったりした赤い着物を召した太傅李朋リー・ポンはケラケラと笑いながら張平チャン・ピンの盃に酒を注ぐ。陶器の水面に、夕暮の空色がゆらゆらと現れた。

 その隣に座る太保の王龐ワン・パンも酌に応じた。黒の雷巾に緑色の着物を着、片膝を立ててため息を吐いている。

「今日とてどうせ束の間の休息になるだろうがな」

 それを聞いた張平チャン・ピンは侍女の方を向いて、こう呼びかけた。

「おおい、月の出は何時じゃ」

 若い侍女が気怠げに亭の柱の辺りに佇んで、柄の長い芭蕉扇でゆると三人を扇いでいたが、その問いかけを聞くと顔を上げて答えた。

「戌の刻ごろでございましょう。さいきんは陽が長うございますので」

「あと半刻か、まあよいわ」

 張平チャン・ピンは不満そうに低く漏らしたが、すぐに元の調子に戻って二人に言った。

「時間の許す限り飲もうではないか。『酒に対ひては当に歌うべし、人生幾何ぞ』これはかの曹操の歌じゃ」

 そうして暫くはあれこれ賑やかに話しながら盃を交わしていた三人であったが、ふと王龐ワン・パンが、遠くに光る石灯籠をぼんやりと見つめて不平を口走る。

「それもこれも全て蘭朵ランドゥ姫のおかげだ、何故ああも己に惚れた男どもを殺そうとする」

 それを聞いた張平チャン・ピンは静かに笑った。

「仕方あるまい。我らは与えられた仕事をただこなすだけじゃ。今宵の王子とてどうせ結果はわかっておろう、なあ」

「そう、!」

 李朋リー・ポン王龐ワン・パンは顔を見合わせてそう叫ぶとからからと高らかに大笑した。張平チャン・ピンもその二人に身体を寄せて、わざと小声で言ってみせる。

王龐ワン・パンの準備は済んだのか?」

 王龐ワン・パンは懐から緑の扇を取り出して首元を扇いでいたが、張平チャン・ピンの問を聞いてパチリと閉じると胸を張って答えた。

「むろんさ。白い棺に弔いの白提灯だろう、それから没薬に供物の果物や肉、凶事の坊主。全て万端だよ」

「これだけ己から死を選ぶ馬鹿な男が多いとなると、姫のおかげで処刑人どもも丸儲けだろうな」

「おい李朋リー・ポン、貴様、万が一の為の婚礼の準備はしておろうな」

 張平チャン・ピンは口元に盃を運びながら、ゲラゲラと笑う李朋リー・ポンを一瞥してまた言った。

「もちろんだとも。赤い輿に祝いの赤提灯、それから伽羅に供物の果物や肉、吉事の坊主。王龐ワン・パンと同じように全部揃えたさ、まあ使うことはないと思うがね」

 そう答えて愉快に笑う李朋リー・ポンは、もうすっかり酔って目元を赤く腫らしている。一方の王龐ワン・パンはいくら飲んでも、なお景気の悪そうな青白い顔のままであった。暫く二人のやり取りを見ていたが、盃に残っていた酒を呷るとまた口を開いた。

「やれやれ。それで今宵死ぬのは健陀羅ガンダーラの王子か?さっき一目見たが、ああも赤青の宝石で着飾って、ただそれも姫の三つの謎かけの前には憐れ儚く散るとなると全く切ないね」

 すると李朋リー・ポンは、すかさず赤の扇で王龐ワン・パンを指すと早口で言う。

「ああ、俺も見たさ。あの鈴の耳飾りをつけたなんとかとかいう王子だろう?三人であれだけ説得してもまだ謎かけに挑むつもりか。全く馬鹿げている」

 三人はそうとも、じつに愚かだと笑っていた。朝鮮や、韃靼ダッタンや、颯秣建サマルガンドの、蘭朵ランドゥ姫の謎かけに敗れ処刑場の露と散っていった王子の話を回想してひとしきり盛り上がり、笑い疲れたところで、張平チャン・ピンはまたぼんやりと宵闇の青に包まれた園林を眺めていた。池の向こうの黒々とした松の影の上に、明星が一つ出ているのを見た。

「しかし、姫は変わってしまわれた。幼き頃の蘭朵ランドゥさまは、美しく、無垢で、葉についた虫すら慈しむ優しい心をお持ちであったというに」

 そして譫言のようにそう呟いた。

「そういえばそうであったな。私としたことが、すっかり忘れていたよ」

「姫は年々お美しくなられている。それこそ、異国の王子達が一目見だだけで恋に落ち、命を投げ打ってしまう事すら厭わぬほどにだ。しかしそれと同時に、年々そのお心は氷のように冷たくなっておいでだ」

 王龐ワン・パン李朋リー・ポンも、ぽつりぽつりとそう言う。姫の、雪の様に透き通る肌、柳の眉、夜空で染めあげたかの様な瞳の奥の凍る眼差し、熟れた果実の様に赤い唇から紡がれる、決して解けることのない、愛か死かの謎かけの言葉が三人の頭に思い出された。

「わしは姫が怖ろしい。何があの方をそうさせたのであろうか、楼玲ロウリン姫の故事か?」

 白髪頭を抱える張平チャン・ピンに、王龐ワン・パンはきっぱりと答えた。

「否、違うだろう」

 すると今度は李朋リー・ポンが、はたと顔を上げて言う。

「馬鹿を言え。姫が謎かけを出される前、異国の男どもによくその故事をお話になるだろう。きっと楼玲ロウリン姫にご自身を重ねられているのだ」

 韃靼ダッタンの男に騙され、その妃となったのち無惨に殺された楼玲ロウリンという姫の故事を、蘭朵ランドゥ姫が幼い頃三人で語って差し上げたことがあった。

 顔を赤く腫らした李朋リー・ポンと、頭を抱えて俯いたまま動かなくなってしまった張平チャン・ピンを交互に見ると、王龐ワン・パンは亭の柵に腕を掛けて、池の鯉を見ながら静かに口を開いた。

「いいや。ただ、真の愛を知らぬのだ。それだけさ」

「どういう事だ、やはりお前の言うことは変に透かしていて俺には良く分からんね」

 李朋リー・ポンにそう文句をつけられたが、これ以上の付け足しは無粋と思ってかれは何も語らなかった。

 一面の深い青に、石灯籠の灯りが星のようであった。鮮やかな鯉の遊ぶ水音だけが聞こえていた。

「お三方、そろそろ儀式のお支度をなされませ。まもなく月の出の鐘が鳴りまするぞ」

 侍女は東の空を窺うと、芭蕉扇で扇ぐのを辞めて告げた。

「まことか。全く宴の時間の経つのはすこぶる早いものだ」

 暫く臥していた張平チャン・ピンはおもむろに立ち上がると、今度は忙しなく着物の裾を整え始めた。李朋リー・ポンも同じように懐に扇子を仕舞うと大息を吐く。

「また一人の男の死を見届けに行くのか」

「さあ、忙しくなるぞ。急ぎ礼服に着替えねば」

 王龐ワン・パンもそう言うと、他の二人とともに亭を出て石橋を急ぐ。屋敷に帰り、召使たちに典礼の衣を着付けられながら、張平チャン・ピンはふと一笑に付した。

「何が真の愛だ。愛とはこうも死を呼ぶものなのか」


 それから四半刻もしないうちに月が出て、紫禁城の広場には、あの三公と文武の百官、それから数万の民衆が集められた。

 目に焦燥の色を滲ませた健陀羅ガンダーラの王子が奥の天子と姫の方へ跪く中、御簾が取り除かれ、そのみ姿があらわになると、官吏が高らかにふれを読み上げた。

「北京の民衆よ

 掟を知らせおく

 高貴なる杜蘭朵ドゥ・ランドゥ姫におかれましては

 これよりのたまわる三つの謎を

 全て解いた者の妃とならん……

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