宝石砕き

志波 煌汰

この世で最も美しいもの

 昔から、美しいものを見るのが好きだった。壊すのは、それ以上に。

 子供の頃は、よく蝶を捕まえて遊んでいた。僕らの家近くの野原には、いつも蝶がひらひらと飛んでいた。黒い翅に赤い斑点が美しい、妖艶な蝶だった。

 僕は虫網でその蝶を捕まえると、翅をつまんでよくよくその美しさを鑑賞した後、いつもその哀れな昆虫を小さな手で握りつぶした。手を開くと、あれだけ綺麗だった蝶の翅がぐしゃぐしゃになり、重力に引かれふわふわと落ちていく。ばらばらになった黒の破片が鱗粉と共に風に煽られてちぎれ飛ぶ。

 その様が、幼い僕はたまらなく好きだった。

 朝から夕まで何匹もの蝶を捕まえてはそれを潰し、千切り、綺麗な翅が台無しになっていくのを悦に入って眺めた。

 一緒に遊んでいた姉さんはそんな僕の姿を見てはいつも「そんなことしたら可哀想だよ……」と控えめに、だが悲しそうな顔で咎めた。


 その姉さんに――僕は今、首を絞められている。


 姉さんの細い腕からはにわかに信じられないほどの力で、その華奢な指が僕の首を万力のように締め上げている。

 呼吸がまるで出来ない。頸動脈に伝わる圧迫感が、血液の代わりに姉さんの殺意をこれでもかと僕の脳に送り込んでくる。

「あんたさえ……あんたさえ、居なければ……!」

 霞む視界の中心に映る姉の顔は、今まで見たこともない表情をしていた。いつも優しかった姉さん。主張が控えめで、よく泣きそうな顔をしていた姉さん。誰よりも笑顔が綺麗な姉さん。その顔が――今は、真っ赤な殺意で膨れ上がっていた。

 その顔を見て、僕は。

 知らず、口の端を吊り上げていた。

 姉さんの手にさらなる力がこめられる。先ほどまでに感じていた痛みを、むしろ少しずつ感じなくなってきていた。

 少しずつ黒に塗りつぶされていく視界の中心にある姉さんの顔を見つめながら、僕は――これまでの人生で一番の幸福感を味わっていた。


    ◇     ◇


 僕らはある男の子供として生まれた。

 兄弟は僕と姉さんの二人だけ。姉さんは僕より四歳年上。

 物心ついた時には、母は家には居なかった。僕が三歳の頃に死んだと聞かされていたが、それが本当かは分からない。今思えばあの父に愛想を尽かして逃げていったのかもしれないし、あの父のせいで心労が溜まり本当に死んでしまったのかもしれない。家に仏壇はなかったが、あの男が死んだ女のためにそんなものを作るとも思えないので、結局のところは分からずじまいだ。今更確かめようとも思わない。

 とにかく、僕は気付いた時には小汚いボロ家で姉と父、そして僕の三人で暮らしていた。

 父は――いや、あの男は、はっきり言ってしまえばこの世で最低と罵倒して差支えのない、それどころかそんな表現でさえ追いつかないような人間だった。飲んだくれで乱暴者。顔も不細工で性格も悪い。気分屋が激しく、機嫌が悪い日には理由もなく痣を作られたものだ。仕事もしているんだかしていないんだか分からずいつもパチンコにばかり行っていて、そんな有様だから当然家はいつも貧乏で雨漏りもし放題だった。姉は頑張って家の中は綺麗にしようとしていたが、あいつが酔うたびに暴れるので片付いているよりも散らかっている時間の方が多かった。その癖散らかっていることに気付くと僕らを殴りつけて自分がテレビを見ている間に片付けをさせる。人間の悪い所を全て鍋の中に入れてぐつぐつに煮込んでそのアクを抽出したような、およそ長所や美徳というものが欠片も存在しない人間。それが僕らの父という男だった。

 そんな最低な男の子供として一緒に育った僕らだったが、二人は血の繋がりを疑うほどに似ていなかった――容姿も、性格も。

 僕は、自分で言うのもなんだが美少年と呼ばれる部類だった。ただ立っているだけで大人たちには誉めそやされ、行く先行く先で将来が楽しみだと絶賛された。そこに居る、ただそれだけで世界から祝福されるような――そんな顔をしているのが僕だ。

知る人によると、どうやらこの容姿は母譲りだったようだ。幼いころはそれほどまでに美人だったという母が何故父のような最低な人間を選んだのかさっぱり疑問だったが、あの父のことだ、無理やり手籠めにでもしたのだろうと今は思っている。

 居なくなった母を思わせるような容姿をしていたせいか、父の僕に対する扱いは姉に比較して随分と優しかった。父は事あるごとに僕を褒め、なんやかんやと菓子をやり、とにかく甘やかし可愛がった――そう、色んな意味で。それとも、あれは虐めたというべきなのだろうか? 少なくとも、布団の中で囁かれる言葉を愛情表現だと感じたことは一度もない。

 姉の容姿は、僕と比較すると父の要素が大きく出たのだろう。はっきりと不細工と言うほどではないが、綺麗と言うには憚られる顔をしている。それを不幸だとは、僕は思わない。もし仮に姉が僕と同じような容姿をしていたとしたら、あの父は間違いなく手を出していただろう。どちらかと言えば、そちらの方がよほど不幸で残酷なことのように思える。

 ただ、あんな父に日常的に虐げられていたにも関わらず、姉の性格はいっそ恐ろしいほどに優しかった。聖女という言葉を初めて知った時、真っ先に姉を連想したくらいだ。あの男を父に持ちながら「家族なんだから、仲良くしないと駄目だよ」なんて言ってのける人間が聖女でないならば、他に何と呼ぶべきなのだろう。

どうやら姉の性格は母の教育の賜物だったらしく、姉はよく幼い僕に母の教えを語ってくれた。それは「人を傷つけてはいけません」とか「嘘を吐いてはいけません」といった一般道徳の極みのような話で、普通の家庭ならともかくこんな破綻した家で何の意味があるのだろうと幼いながらに僕は思ったものだが、姉は居なくなった母の残した教えを心から信じて実践しているようだった。それこそまさに、主の教えを健気に信じて生きる聖女さながらに。

 そんな姉を持つ僕の方はと言えば、残念ながら姉の教育の甲斐なく、あるいは不幸にも父の教育の甲斐あって、聖人の如き姉とは正反対のろくでもない性格に育った。――そう、あの男の息子にお似合いな、人でなしの性格に。


    ◇     ◇


 小学二年生の頃だったろうか。きっかけは確か、図工の授業だったと記憶しているが、クラスでビー玉遊びが流行ったことがあった。本当は授業以外では学校に持ってきてはいけないのだが、皆先生の目を盗んではこっそりと持ち込み、休み時間にぶつけたり見せびらかしたりと男女問わず大変に盛り上がっていた。今思うと先生たちが気付いていなかったわけがないのだが、元々授業のために持ってこさせたものだし多めに見ていたのだろう。

 僕の家にはビー玉がなく(買ってもらうことも出来なかった)、その流行に参加することは出来なかったが、それでも僕はそのブームを好ましく思っていた。その前に流行っていたバトエンは見ているだけでは面白さが分からなかったが、ビー玉遊びは参加できずともその煌めきだけで僕の心を潤してくれたからだ。

 美しいものが好きな僕にとって、校舎の窓から差し込む光に照らされて机の上で輝くビー玉を眺める時間は至福のひと時だった。

 男子の関心は専らぶつけて競う遊びにあったが、女子はビー玉それ自体の美しさに重点を置いていた。即ち、宝石の代替品としてのそれだ。女子はこぞってビー玉を収集し、誰が一番綺麗なものを持っているか競うようになっていた。

 ある日、クラスでも色々な意味で目立つ女の子が、とっておきと称したビー玉を持って来た。なんでも、親の知り合いに頼んで特別なものを貰ったのだとかなんとか言いながら、彼女はそれを手で包んで隠すようにしながらランドセルの中から取り出し、まるで恋人に婚約指輪を差し出すかのようにゆっくりと手を開いて好奇の目を向けるクラスメイト達に見せつけた。

 現れたのは、なるほど確かに他のビー玉とは一線を画すほどに美しい、特別さを感じさせるものだった。

 それはまるで、星空だった。深い蒼の天体の中に、金や銀を初めとする色とりどりの欠片が散りばめられ、キラキラと煌めいていた。子供の手の中に納まるほどに、二つの指で摘まめるほどに小さな、だけどもあまりにも精緻に形作られた宇宙。太陽に透かすとほの青い影の中に光が散らばる様が机の上に展開されて、深海に咲く花火のようだった。夜明け前の空の輝きを捕まえて、そのまま閉じ込めたと言っても信じられそうだった。

 誰しもが、一目見た瞬間に息を呑んだ。それの出現は、今までの有象無象の争いに一発で決着をつける、いわば飛び道具にも等しいものだった。他のビー玉は所詮ガラス玉に過ぎないとしても、その真球だけは芸術品と呼ぶのが相応しく思えた。これ以上に美しいビー玉などないと皆が思った。

 当然、そのビー玉はクラスに留まらず、学年、いや学校中で話題になった。他のクラスや学年からもその美しさを見聞しようとたくさんの人が集まった。

 そうして彼女を囲む多くの人の外側からその球体を見ていた僕は。

 あまりに美しいそれを、自分だけのものにしたいという気持ちが沸き上がるのを自覚していた。


 なので盗んだ。


 特に難しいことはなかった。建前上、いくら話題になっていても先生の前では隠さざるを得ないし、そのタイミングは頻繁に訪れるわけで、ビー玉が人の目から隠される時間はそれなりにあった。あとは体育の時間やトイレの時など、いくらでもある隙を見てそっとそれを抜き取るだけだった。

 当然それだけ話題に出していたのだから窃盗の発覚も早かったのだが、僕がその犯人として疑われることはなかった。ビー玉は小さなものだったので誰も気づかないところに隠しておくことは容易だったし――何より、その女の子と僕は以前からそれなりに親しい間柄だったからだ。僕は盗みの容疑者として疑われるどころか、むしろ宝物が無くなって泣きじゃくる彼女を心底から心配して慰めることに徹し、結果として彼女のみならず、教師を初めとする周囲の人間全員から全幅の信頼を獲得した。

 結局、盗品のビー玉が見つかることはなかったため、犯人も分からずじまいで表向きは紛失ということに落ち着いた。子供たちの間では以前から彼女と対立していたある女子を疑う動きがどこからか発生し、その子をあからさまに犯人として扱うことで事態は収束した。疑われた無実の少女はその後いじめを受けて転校していったがそれは僕には関係のないことだ――例えその少女が犯人ではないかと皆の印象を誘導したのが僕だとしても。

 そうやって多くの人間を巻き込んで手に入れた芸術的な蒼玉だったが、それが実際に僕の手元にあった時間はとても短かった。

 ビー玉を盗んで持ち帰ったその日に、僕がトンカチを使って粉々に叩き壊したからだ。

 美しい宝玉は、僕の手に握られた美しさのうの字もないトンカチによって、叩かれ、砕かれ、蹂躙され、粉々になった。

 まるで天に昇るかのような、最高の気分だった。

 初めて射精をした瞬間の数百倍、あの瞬間の方が快感だったと今でも断言が出来るほどに。

 あれだけ皆の心を虜にしたものが儚くも壊れ、この世から失われた哀しみ。そして、それをこの手で行ったという実感。

 それは、蝶の翅を粉々に握りつぶすのとは比較にならない興奮だった。

 破片になった煌めきの結晶を、何度も何度も武骨なハンマーで叩き、叩き、叩き。その美しさの欠片も残らないほどに小さくした。

 いつか。

 いつか、テレビで見るような、誰もが羨むほどに美しい本物の宝石もこうやって砕いてみたいと――砕き終わった後、そんな気持ちが心の隅に根付くのを感じた。

 世界に存在する、最も美しいもの。いつかそれを砕いてみたいと思った。


    ◇     ◇


 僕はあの蛆も逃げ出すような父を唾棄しながらも、その父と同類ともいうべき性格を育んだ。他人に共感せず、人を平気で傷つけ、臆面もなく嘘を吐き、自分のことだけを考え、征服欲に溢れた、良心を欠片も持ち合わせていない人間だ。

ただ父と違ったのは、僕には生まれつきの美しい容姿と、優れた頭脳が備わっていた、という点だ。

 容姿がいいというのは、それだけで強みになる。僕はろくでもない性向を有していたが、母譲りの人に好かれる容貌と父から学んだ狡猾さで他人に悪印象を抱かれることはなく、むしろ気持ちのいい性格をした少年として認識された。この評価の構築には、沸点の低い父の顔色を窺う生活で身に着いた、人の気持ちを察し、気を利かせることに異常に長けているという特性も大いに役立った。父のおかげ、などと言うつもりはなく、単なる防衛本能からの学習なので感謝など微塵もないが。

 仮に人の胸を開いて心の中身を見ることが出来るような装置があったとすれば、僕を良く出来た子供だと認識していた周りの大人たちは、その心根の悍ましいほどの黒さに吐き気すら催していたんじゃないだろうか、そんなことすら感じる。だがそんなものはなく、そのおかげで僕は完璧な外面の通りの、気立てが良く爽やかな少年として扱われた。

 僕のすぐ近くで起こった窃盗騒ぎで、容疑者の候補にも挙がらないほどに。


 だから、父を殺した時でさえも誰一人僕を疑うものはいなかった。


    ◇     ◇


 小学三年生の夏、月の綺麗な夜だった。

その日、父はパチンコで大勝ちしたらしく、珍しく気分よく僕を連れて居酒屋へ向かった。姉は確か、中学校の行事か何かで家に居なかったはずだ。泡銭をこれでもかと使って飲み食いをし、ふらふらに酔った父を連れて、僕は帰路に着いた。僕らの住む町は海沿いの小さな港町で、少し歩けばすぐに海を遮るように作られた防波堤に行き当たる。その日も、海風を感じながら車どおりの少ない道を帰った。

 しこたま飲んで酔った父は、本当に上機嫌だった。だが僕には、明日の朝二日酔いで不機嫌になった父がまた僕を嬲るのだろうということが嫌になるほど理解出来た。いつものことではあるが、いい加減そういうのは嫌だな、と思った。

 だから、父を殺そうと思った。

ねえお父さん、と僕は父に呼びかけた。ふらふらと歩く父は真っ赤な顔で振り返り、なんだぁ、と答えた。

お月さま良く見えないねえと言うと、お前はちっこいからなぁと返し、俺くらいになるとこんな防波堤ごときじゃ大した壁にならないぞぉ、と僕の頭をぐりぐりと上から押さえつけた。

 僕は父に、月が見たいから防波堤の上に乗せてよ、とせがんだ。機嫌のいい父は快諾し、乱暴な手つきで僕の腕の下に手を回し持ち上げた。

 父の肩より少し高い防波堤に乗った僕は、わぁとわざとらしく声を上げた。

 ねえお父さん、一緒にお月様を見ようよ、とってもとっても綺麗だよ。

 僕が無邪気な声色を装って言うと、父はお前がそういうなら、と疑いもせずに防波堤をよじ登ってきた。僕は手を貸す振りをしつつ、さりげなく父の後ろをとった。

 穏やかに澄んだ風が夜の街を駆け抜けていった。僕は暗い海に反射した蒼銀の月光が横顔を照らすのを感じながら、テトラポッドが砕く波の断末魔を聞いていた。防波堤の上はそんなに広くはなく、足元すぐ左、絶壁の下から響いてくる海の音は、奈落へと生者を引きずり落とそうとする死者の呻き声に似ていた。

 父は、確かに綺麗な月だなぁ、と大声を漏らしながら防波堤の上をふらふらと歩いていた。その足取りは多量のアルコール摂取によってかなりおぼつかなくなっていたが、奴はふらつきながらも何故か足を踏み外さず器用に狭いスペースを前に進んでいった。その様はさながら、舞台の上でおどけながら芸をする道化のようだった。

 勝手に落ちてくれれば楽だったのになぁ、と僕は思いながら後ろを着いていった。

 それから、五分ほど歩いただろうか。父が、いやぁ本当にいい月だ、この綺麗さに気付くのは普通じゃねえ、お前はきっと芸術家の才能があるぞ――などと宣いながら、笑って僕の方を振り返った。

 その時。重心が左に寄り、右足が虚空に浮いたタイミングを見計らい、僕は父の体を、ほんの少しだけ、軽く軽く押した。

 それだけで、十分だった。

 父の顔が笑顔から虚無、そして驚愕へと移り変わりながら黒々とした闇の中へ落ちていくのを、僕は冷淡に見つめていた。

 不格好な頭部がテトラポッドにぶつかる音は、潮騒の叫びに呑みこまれてよく聞こえなかった。

 眼下で後頭部から一目で致死量と分かる血を流して動かなくなった父を確認した後、僕はその夜初めてきちんと空に目を向けた。

防波堤の上から見る満月は、金色の光を街に煌々と降らせ、世界に醜いものなどないかのように照らし出していた。僕はすぐ下で死体と化した父のことも忘れ、自分が巨人だったらあの月も握りつぶせるだろうか、なんてことを考えた。


    ◇     ◇


 父の死は、酔った末の事故として処理された。元々町中の嫌われ者である父の死に対する警察の捜査はおざなりなものであったし、僕がそんなに労力を費やさずとも疑われることはなかった。

 もっとも、姉の方は何か勘付いていたのかもしれない。父が死んだことを知らされて戻って来た時、僕の顔を見た瞬間にはっとした表情を浮かべていたから。ただ、僕が父を殺したと気付いていたとしても、姉はそれを誰かに告げようとはしなかった。幼い弟に父殺しの汚名を着せるなんてこと、あの聖女には到底許容できることではなかったのだろう。

 父の葬儀で、僕は泣いた。あんな男でも父だったのだから、一応泣いておいた方がいいだろうと思ってのことだった。

 姉は、泣かなかった。ただ、その目には大粒の涙を湛えていて、ぎゅっと服の端を掴んだ手が、彼女が本当に父の死を――あんなろくでなしの父の死を、心から悲しんでいることは知らせていた。

 どこまで彼女の心は綺麗なのだろうと、多少呆れ気味に思った。

 父の死後、僕達姉弟は遠い親族だという子供のない老夫婦の下へと引き取られた。僕たちの惨状を今まで見て見ぬふりしておいて今更善人ぶりされてもな、などと思ったものだが、どうやら彼らは僕らのことについて知りもしなかったらしく、迎えられた家庭では本当に優しくしてもらった。

 僕は祖父母というものを知らなかったが、もし居たとしたらこういうものなのかもしれないなどと想像した。新しい家庭では理不尽に灰皿で殴られることも、口答えしたからと言って煙草の火を押し付けられることもなく、本当にごく一般的な子供が享受するような優しさと温かさを存分に受け取ることが出来た。それは、今までろくな人生を歩んでくることのなかった僕達姉弟にとってまさに天国のように幸せな日々だった。

 まぁだからと言って僕のねじくれた性格が矯正されることはなかったのだが。

 そもそもこの幸福に満ち溢れた生活そのものが僕が父親を殺した結果によるものなので、今更いくら真っ当な愛情を注がれたところでまともな人間に育つはずもなかった。僕は既に、遺伝子からして悪徳に染まっているのだから。

 母の愛で漂白された姉とは、違うのだ。

 僕は養父母の下で健やかに育ちながら悪行を積み重ねた――露呈しないように、露呈しても自分が疑われることが一切ないように、慎重と大胆を以て、巧妙に、巧妙に。

 色々なことをした。その多くは自分の利益のために行うくだらない悪事だったが、たまにどうしようもなく抑えきれなくなって綺麗なものを求め、手にしては壊した。

 花壇の花を踏み荒らしたこともあった。飾られた絵を八つ裂きにしたこともあった。教会のステンドグラスを叩き割ったこともある。

 一番楽しかったのは、やはり学校一の美少女を壊した時だった。女友達を誘導しそれとなく孤独に追い込み、陰から執拗な嫌がらせをし、人間不信に陥ったあたりで飢えた男たちに凌辱させた。そのうちに彼女は学校に来なくなり、やがてその机に花瓶が置かれることとなった。

 あの時机の上で咲いていた花以上に美しい花を、未だに僕は知らない。

 一方で、表向きの僕は家庭という憂いからも解き放たれ、どんどんと好青年として皆に認められていった。毎日ちゃんとした食事が与えられるようになったおかげで体格も良くなり、スポーツの成績もあがった。勉強も今まで以上に集中できるようになりみるみるうちに伸びていった。他人相手に作り上げた人当たりのいい性格で交友関係も充実していったし、彼女だって出来た――誰も本当の僕なんて知らない、仮初の関係だが。

 ただ、その完璧な外面のおかげで、誰一人として僕の裏側に気付くものは居なかった。いや、たった一人姉さんだけは何か勘付いていたらしく、ことあるごとに「ねえ、学校……大丈夫?」などと探りを入れてきたものだが、僕が笑顔で「大丈夫だよ」と否定すると、心配そうな、あるいは悲しそうな表情だけを残してそれ以上の追求はしてこなかった。それは父の死を知った時に僕に向けた表情と同じものだった。

 姉は――姉は、変わらなかった。いつだって彼女は決して怒ることも咎めることもなかった。学校でいじめにあった時も、初めての彼氏が友人だと思っていた女に奪われた時も。彼女は怒ることも咎めることもせず、ただ少し寂しそうに笑っていた。いつまでそんな聖女のような振る舞いが続くのだろうと興味深げに見ていても、その善性は筋金入りで決して曲がることはなかった。

 どんな裏切りにあっても、どんな困難にあっても、彼女は決して怒らずに、不格好でも不器用でも少しずつ前に進んでいた。

 そんな姉とは対照的に僕の人生は何一つの障害もなく順調に進んでいった。心配事も、不安も、どこにもないように思えた。中学、高校と何一つトラブルを抱えることなく成長し、受験もなんなくこなし、やがて大学を出て一流銀行に勤めるようになってからは金にも困らなくなった。およそ自由に美しいものを手に入れ、それを自由に破壊することが出来た。

かつて願った宝石を手に入れ――それを砕くことだって、本当に出来るようになっていた。

 きっとこれで自分の美しいものを壊したいという欲求は満たされるだろう――そう思っていた。

 なのに。

 それなのに、僕は何故か満足を得られなかった。

 あんなに砕きたいと願っていた宝石を砕いても、心の底からの満足感を得ることは出来なかった。

 働いて金を貯め、何度も宝石を買っては砕いたが、むしろ徐々に虚しさが募っていった。

 自分が本当に壊したいと思うものは、本当にこんな宝石だったのだろうか? 自分が本当に美しいと思うものは、もっと他にあるんじゃないか?

 何度も何度も自問をしたが、自答は一度も出来なかった。ただ、自分はそれを既に知っているという感覚だけが、胸の奥に刺さって抜けない針のように鎮座し続けていた。


    ◇     ◇


 そんな少しずつ大きくなっていく違和感を抱えたままのある日、姉が会わせたい人物がいると言ってきた。

 婚約者とのことだった。

 いい男だった。僕に比べれば劣るが、それにしたって俳優で十分通りそうないい男だった。

 何より、澄んでいた。目も、心根も真っすぐで美しい男だと一目見た瞬間に分かった。穏やかな日差しの下、草原を駆け抜けて小さな花を優しく揺らしていく風のように気持ちのいい好漢だった。いっそ目を背けたいほどに。

 容姿だけ見るなら、明らかに姉とは釣りあっていないだろう。もっと他に器量のいい女を、それこそモデルとか女優あたりをあてがった方がお似合いだ。それなのに、二人が寄り添う様子はあまりにも自然で、まるで最初からそうなるように作られていたかのように調和がとれていた。

 神様が幸せを形にしたらこの二人になったんじゃないかと、そんなことを考えた。

 ……僕が天性の容貌を頼りに、偽りの笑顔と小狡い立ち回りで薄っぺらな人間関係を広げていた間、姉はただその深い真心と愛情だけで本当の信頼をつかみ取っていた。

 容貌で馬鹿にされて、馬鹿正直さで損を見て。それでも諦めず前に進む彼女の元には、その尊さを理解する本当に善い人々が少しずつ集まり、絆を紡いでいた。

 きっとそれは僕には永遠に掴めないものだ。

 その極みのような男が、目の前に立っていた。二人はお互いに、深く深く信頼し合い、愛し合っていた。姉と彼の世界はきっと優しさと愛に包まれていて、悪意や害意のような不純物は塵一つであっても混入しないのだろう。

 ……いや。

 いや、いや、いや。

 そうではない、そうではなかった。塵ならば存在する、悪意なら存在する。他でもないこの僕自身だ。

 僕こそがこの綺麗なものだけで出来た世界における一番の、そして唯一の穢れだ。

 だったら、その僕がこの幸せをずたずたにしてみるのも、きっと面白い。

 だから、そうすることにした。


    ◇     ◇


 ……どこか遠くで、雷の落ちる音がした。

 朝から降り続く雨は止む気配を見せず、天蓋に重くのしかかる暗雲は頭部に物理的な圧迫感さえ錯覚させた。

 電気も付けていない部屋の中は昼だと言うのに薄暗く、僕はまだ真新しいソファに座って、欠片も興味がない園芸の雑誌をぱらりとめくっていた。光源のない部屋で見る色とりどりの花々はくすんでいて、園芸への興味を駆り立てることは不可能に思えた。口にくわえた煎餅は湿気ていて、噛み砕くと情けない味がした。

 不意に大きな音がして、同時に雨の匂いが家中に蔓延した。姉さんが帰ってきて玄関を開けたのだろう。強い足音が少しずつこちらに近づき、すぐに扉が開け放たれた。

「おかえり、姉さん。悪いけど邪魔してるよ」

 僕は朗らかに言った。ここは姉さんと婚約者の、新居になるはずの家だ。

「……何、してるの」

 ずぶ濡れで髪から雫を垂らしながらも、それを一切気にせずに問う姉に僕はひらりと手元の雑誌を見せた。

「特に何も。姉さんが来るまで暇を潰そうと、ね。煎餅いただいちゃったけどいいかな」

「そうじゃ、なくて」

 姉さんの息は切れていた。義兄さんからのメールを受け取って走ってきたのだろう。全身ずぶ濡れなのは、傘も投げ捨ててきたからだ。

 僕は少し考えるように口に指を当てながら、強いて言うなら、と口火を切った。

「義兄さんの自殺現場の保全、かな?」

 雷光が、灯りのない部屋を照らした。

 二人の新居となるはずのリビング、その梁からは、僕の義兄になるかもしれなかった男がロープでぶら下がっていた。

 充血した目玉は飛び出し、だらしなく開かれた口からは舌が伸び切り、足元にはズボンにぶちまけられた腸の内容物が足を伝ってカーペットに水たまりを作り、異臭を放っていた。二枚目もどこへやら、という様相だ。

「まさか自殺するなんてね。姉さんもさっき遺書受け取ってやってきたんでしょ? 隠していたみたいだけど、いつのまにか凄い額の借金を作っていたらしいね――」

 姉さんは何も口を挟まなかった。ただ、小刻みに震えている。それが濡れた寒さのせいなのか、愛する人を失ったせいなのかは、床を見つめ続ける顔のせいで分からない。

 なので、僕の表情も見えないだろうが、あえて僕は満面の笑みで告げた。

「ま、その借金を作る原因は僕なんだけどさ。義兄さんは騙されたなんて思いもしなかっただろうけど」

 ……姉に自分が為した悪事について告げるのは初めてだった。だから、どんな表情が返ってくるかは予想も出来なかった。

 姉は、どんな顔をしているのだろう? 泣いているのだろうか、それとも絶望に打ちひしがれているのか。

 その表情を見てみたいという衝動のまま、僕はそっと立ち上がって姉の傍に近づいた。

 姉が顔を上げると同時に、再び雷光が部屋を照らした。

 その閃光の下に浮かび上がった表情は、哀しみでも絶望でもない、僕が一度も見たことのない姉の表情だった。

 姉さんは、あの穏やかな姉さんは、生まれて初めて憤怒の表情を浮かべ、こちらを視線で射殺さんばかりに睨み据えていた。

「――え」

 呆気にとられ、思考が止まった、その刹那。

 姉さんの手が蛇のように素早く宙を走り、その指が僕の首に掛けられていた。




 姉さんの細い腕からはにわかに信じられないほどの力で、その華奢な指が僕の首を万力のように締め上げている。

 呼吸がまるで出来ない。頸動脈に伝わる圧迫感が、血液の代わりに姉さんの殺意をこれでもかと僕の脳に送り込んでくる。

「あんたさえ……あんたさえ、居なければ……!」

 霞む視界の中心に映る姉の顔は、今まで見たこともない表情をしていた。いつも優しかった姉さん。主張が控えめで、よく泣きそうな顔をしていた姉さん。誰よりも笑顔が綺麗な姉さん。その顔が――今は、真っ赤な殺意で膨れ上がっていた。

 その顔を見て、僕は。

 知らず、口の端を吊り上げていた。

 胸の奥に刺さっていた針が抜けた音がする――嗚呼、ようやく理解した。

 僕がどれだけ非道を重ねても、どれだけ宝石を砕いても満たされなかった理由。

 僕が一番壊したかった、最も美しい輝き。

 それは――姉さんそのものだったのだと。

 何があっても怒ることのない、純潔なる慈愛の聖女。

 その何よりも美しく、透き通った心をこそ、僕は砕きたかったのだと。

「何笑ってるの……よくも、よくもあの人を!」

 姉さんの手にさらなる力がこめられる。先ほどまでに感じていた痛みを、むしろ少しずつ感じなくなってきていた。

「死ね、死ね、死ね、あんたなんか、死んじゃえ!」

 あの姉が――何よりも純粋で、誰よりも穢れを知らない、聖女のような、天使のような姉が!

 今、その聖性を地に投げ捨て、憤怒のみで僕を、実の弟である僕を殺そうとしている!

 嗚呼、嗚呼。これだ。これこそが。

 僕が生涯全てをかけてでも砕きたかった宝石なのだ。

 呼吸が荒くなるのは、締め上げられた脳が酸素を求めてのものか、それとも興奮ゆえか。

 もうそんなことも、僕には判別がつかなくなっていた。

「死ね……あんたみたいなろくでなし、さっさと死ねば良かったんだ!」

 少しずつ黒に塗りつぶされていく視界の中心にある姉さんの顔を見つめながら、僕は――これまでの人生で一番の幸福感を味わっていた。

 ……ようやく。

 ようやく、僕と同じところまで堕ちてきてくれたんだね、姉さん――。


 近いような、遠いようなどこかで、何か大切なものが折れる音が聞こえたような気がした。

 音も、味も、匂いも、感触も、それまで僕を構成していた全てが崩れて跡形もなくなった。

 それでも、最後にたった一つ。

 一番欲しかったものが手の上で砕ける光景を魂に焼き付けて、僕は満たされた思いで全てを手放した。



(完)

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