老人と少年

 シャンシャン…


 照り付ける太陽がアスファルトを焦がす真夏の昼過ぎ。

 手にした携帯電話に視線を向けながら車一台がやっと通れる程度の細い路地を歩いていた男が、微かだが確かに聞こえたその音の方へと視線を移すと、そこには見窄みすぼらしい身形みなりの老人が杖をついて歩いていた。


「おいクソじじい!目障りだから俺の前を歩くな!」


 老人は聞こえているのかいないのか、男から浴びせられたそのいわれのない罵声に何も言い返さず、男に追い抜かれた後も前だけを見てゆっくりと歩みを進めた。

 地を這うカタツムリの様にじりじりと進む老人へ道行く人は次々と罵声を浴びせた。


「邪魔だジジイ!」


「ちょっと退いてよ!」


歩いてんじゃねえぞ!轢かれてえのか!?」


 徒歩で、自転車で、自動車で、それぞれの移動手段で老人を後ろから追い抜く、或いは前から擦れ違った者達は男女を問わず老人に罵声を浴びせた。だが、それでも老人は決して歩くのを止めなかった。目指すは町外れの山、その頂上で待つ友達のもとへと向かう為に老人はただひたすらに歩いた。

 しかし…


「おいジジイ、邪魔だから早く死んでくれねえかな?道ってのはみんなの物だから。お前みたいな奴が道を塞いでいると他の人に迷惑だから。頼むからさっさと死んでくれよ」


 前方から来た男がそう言いながら立ち止まると老人をにらみつけた。そのは男というよりは男と呼ぶべき少年だった。

 まだあどけなさの残るその少年は見下すような視線で老人を睨みつけながら行く手を阻むように正面で立ちはだかり、少年に睨みつけられながら尚も無言で歩みを進めんとしていた老人を強引に引き止めた。


「……キミは何を泣いているのかね?」


「は?」


 唐突に口を開いた老人が言い放ったその言葉の意味が少年にはわからなかった。


「そうか…父親が亡くなって母親は男遊びに夢中で君を構わなかったのか…なんともかなしい現実だな……」


「なっ!?なんだとジジイ!てめえナメてんのか!」


 図星だった。

 老人の言う通り少年は父親を亡くしていた。父親の死後、父子家庭だった少年は他に身寄りもなかった事から物心つく前に離婚した母親に引き取られたが、母親は少年に遺された唯一の財産である父親の生命保険の保険金が目当てで母性愛など皆無だった。少年は引き取られたその日から母親の下で暮らし始めたが、その暮らしには一切無かった。

 少年は父親の遺した財産を食い潰す母親に邪魔者扱いされ、その母親が意図的に未納のままにしている給食費や授業料の支払いを担任に催促されながらもえをしのぐ為に学校へと通い、夜になると男を連れ込む母親から外出を強要されるという毎日を過ごしていた。


めてなどいない。ワシはかなしい…キミがなぜのかと、それを想うとワシはかなしい……」


「は?なに言って…えっ!?」


「気が付いた様だな。そう、その透けた肉体からだが示すようにキミはもう死んでいる。享年は十歳か十一歳か、何れにせよまだランドセルが似合う年頃だったろうに…どれ、試しに背負った姿を見せてもらおうか」


 老人がそう言うと半透明な少年の背に深緑色のランドセルが現れた。


「あっ!えっ?なんで!?だってこのランドセルは…お父さんが僕に買ってくれたこのランドセルはあの日お母さんに捨てられちゃったのに……」


 少年が母親に引き取られたその日、母親は亡くなった少年の父親の面影が残るという理由からそれまで少年が使用していたあらゆる物を捨てた。その捨てられた物の中でも小学校の入学に際して父親が昼夜働きづめで買ってくれた深緑色のランドセルは少年にとって特別なだった。

 母親に捨てられたはずのたからものが瞬間、すさんでいた少年の心に清新な風が吹き、それまで自らを偽って粗暴に振る舞っていた少年は初めて老人の前で自分らしさを露にした。

 少年はまさしく少年に戻っていた。


「すまんな……ワシはキミに何もしてやれなかった。いや、これからも何もしてやれん。それでもよければワシと共に来るか?」


「おじいさんはいったい誰なの…?」


 やさしい眼差しを送りながら手を差し伸べる老人に少年は訊いた。


「ワシが何者か気になるのか?ワシが何者なのかは時期が来ればおのずとわかるが、取り敢えず名前くらいは教えてやろう。ワシの名前は黒須クロス三太サンタだ」


黒須クロス三太サンタ?…それなら黒須クロスさんと呼んでも言いかな?」


「うむ。では、次はワシが訊こう。キミの名前は?」


「僕は中井ナカイトウトウは戦うっていう意味なんだって。前にお父さんが言ってた」


中井ナカイトウ、か。……むはははは!トウよ!やはりキミはワシと共に来るべきだ!いや是非とも来てくれ!共に来てワシのを手伝ってくれ!」


 少年の名を聞いた老人は突然、溢れんばかりの活気で満ちた明るい声でそう言った。


「仕事?何の?僕にも出来るの?」


「うむ!キミなら出来る!いや、キミにしか出来ん!今はまだワシが仕事をする時期ではないが、その準備としてこれから世界を見て回ろうと思っていたところだ!トウよ、キミもワシと共に世界を見て回り、時期が来たらこの世界中に笑顔を届けに行こう!」


 中井斗という名の少年は黒須三太と名乗る老人の誘いに乗った。

 それから二人は共に歩みを進めて老人の友達が待つ山の頂上へと辿り着いた。そして、夜が訪れたのと同時に二人は老人の友達がく乗り物で空へと飛び立った。

 その夜、真夏の空に雪が舞った。

 暑さに負けずひらひらと舞う雪は荒んだ人の心にぬくもりを届けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【更新無期停止】鈴の音がきこえる 貴音真 @ukas-uyK_noemuY

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ