第7話:聖女の名

 ――公爵は重い瞼を開いて、自らの傍らに目を向けた。


「…………チッ」


 不愉快そうに舌打ちを漏らし、腹に乗ったものに手を伸ばす。いまだ倦怠感が残ってはいるが、痛みはなかった。

 教会の信徒により受けた〝聖なる刃〟による傷は、すっかり塞がっている様子である。


 ――どれほどの時間を眠っていたのか。

 ベッドの隅で小竜が丸まり、すぅすぅと寝息を立てている。


「………………あ」

「起こしたか」


 腹に伏していたのは聖女の白銀の頭であった。公爵の指が、銀糸の髪を弄ぶ。


「……傷は」

「ない。お前の仕業だな?」

「…………はい」

「俺は許した覚えはないが」

「………………はい」


 公爵はかつて聖女へ告げた。――俺が教義だ。もう《癒しの奇跡》を使うことは許さぬ。聖女は教義を破った形と相成った。


 ――ゆえに聖女は問いかける。


「…………私を鞭で、打ちますか?」

「鞭では打たぬ。だがお前には、わからせてやらねばならぬようだ」

「…………はい」


 公爵は大儀そうに身を起こし、聖女の身をしとねに引き込み、押し倒そうとにわかに腕に力をこめた。


 聖女は身を硬くして、しかして抵抗する素振りはない。もはや観念したかのように虚ろな瞳を公爵へ向ける。


 そのまま、しばしの時がその場に流れた。


 ――やがて聖女がポツリと尋ねる。


「…………私が」

「……ぐっ、なんだ?」

「……自分で倒れ込んだほうが、よろしいのでしょうか?」

「…………わからせるのは、後日とする」

「……いま一度、治療を――」

「ならぬ」


 公爵は短く言い捨てる。やがて聖女を寝所に引き込むのを諦め、その頬を嬲るに今は留めた。


 白銀髪の少女の頬はすっかり人間らしい丸みを帯びており、微かに朱が差し込んでいる。教会の聖女であった頃の見る影は、もはや失われたようだった。


「……なぜ、」


 ――俺を助けた?

 公爵はそう続く言葉を呑み込んだ。無粋である。


 代わりに、いつもの問いを口にした。


「……お前のまことの名を、俺に教えてくれないか?」


 この男とて人である。傷を受けた影響か、常よりも、些か柔らかい口調であった。


「………………私は」


 ――祈り人形です。


 公爵は静かに瞼を閉じて、続く言葉を覚悟した。かの男の胸を抉る聖句である。


 しかして聖女は、男に一つの要求をした。


「………名を、持ちませぬ。なので、恐れながら――」

「っ、」


 ――それは、聖女が公爵の元へ生贄として捧げられ、初めて口にした願いであった。


「――どうか私に名を、授けてはいただけないでしょうか? ともに、生きてゆくために」

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感情の無い聖女様は、公爵への生贄にされてしまいました 伊澄かなで @Nyankonomicon

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