美々子と運命の一冊

紫月 冴星(しづき さら)

運命は予期せぬところに


 うっとりした余韻に浸って本を閉じた。高揚感と満足感から自然と笑みがこぼれる。夢中のあまり呼吸をほとんどしていなかったことに気づき、背伸びをしつつゆっくりと息を吸い上げ、身体の強張りを追い出すように鼻から息を吐いた。鼓動は早く、頰は少し熱をもっている。興奮はまだ冷めそうにない。


 「――面白い。やっぱり面白いわ」


 手元の本――『資本主義と他者』――に目線を落とした美々子はつぶやいた。


 表紙は一見白っぽく見えるが、ほんのりラベンダーブラッシュががっている。

 ささやかにプリントされたタイトルと著者名。

 その主張の少ない、奥ゆかしささえ感じる装丁の中では刺激的でドラマティックな論考が繰り広げられているのだから、ただならぬ本だと美々子は思う。


 この特別な本との出会いは、大学時代にまで遡る――



 とある社会学系の講義(講義名は忘れてしまった)で、定期試験を実施しない代わりにレポート提出が求められた。何冊か指定された本の中から一冊を選んで、その内容についてまとめるというオーソドックスな課題である。

 一冊読み切るのはそれなりに体力が要る。せめて興味が持てそうな内容にしようと美々子は指定された本を確認しに大学図書館に向かったものの、考えることは皆同じであったのか、目をつけていたメディア論系の本は軒並み貸し出し中。

 残されていたのは社会学の古典理論をはじめとする難解そうなタイトルばかりであった。


 そういえば、一緒に講義を受けている知り合いから「メディア人気! 図書館に急げ!」というメールをもらっていたような気がしないでもない。

 出遅れたか、と心の中で地団駄を踏み、美々子は少しでもレポートが書きやすそうな本を物色した。


 こうなったらボリュームの少ない本を優先的に選ぶのもアリか。

 とはいえ、どれもこれもそれなりに分厚く、似たり寄ったりだ。ええい、それじゃあ目を瞑って手に取った本にしよう。無理そうならもう一回やり直せばいい。美々子は即席のマイルールに従い、ぎゅっと目を閉じてしばらく手を浮遊させたのち、一冊の本をひっ摑んだ。


 ん? 思ったより軽い?

 ハードカバーの手応えとともに瞼を開けると、『資本主義と他者』というタイトルが目に飛び込んできた。


 美々子は目を細め、静粛な場に気を遣って大げさにならない程度の溜息をつく。

 残念ながら資本主義には何の興味もない。やり直しである。


 資本主義は理論系の講義で習ったマックス・ヴェーバーでもうお腹一杯なのだ。

 あれだろう、「どうして近代の西ヨーロッパにだけ資本主義が生まれたのか」とかいうの。

 たしかキリスト教…プロテスタントの禁欲的な態度が関係してたっていう。

 とても印象的な内容だったこともあり、しっかり記憶している。別にいまさら取り立てて知りたいとは思わない。


 とはいえ、既知の内容が入っている方がレポートは書きやすくなるかもしれないなと美々子は見るともなく目次のページを開き見た。

 ああ、面倒くさい。美々子の気はだんだん重たくなっていく。大多数の友人はレポート派のようだが、美々子にとっては制限時間内に終わる試験の方が手間もなく有難い。


 四ページに跨る目次。七章構成のようだ。



第一章 追憶の秩序

1 共同体秩序の形成……9

2 追憶の秩序と暴力……14

3 両義的な他者……18

4 商品経済と両義性……21



 「共同体秩序」や「暴力」などはさておき、見慣れない言葉が並ぶ。

 ヴェーバーの回で「追憶の秩序」や「両義的な他者」なんて話は出なかったはず、だ。

 まぁ著者オリジナルの切り口かなと深追いはせず、次章に目を移す。



第二章 沈黙の部分 ―『曽根崎心中』における「経済」―

1 追憶の秩序と幕藩制……26

2 商品経済と追憶の秩序……29

3 他者の両義性の顕在化……31

4 交換の規則……35

5 沈黙の部分 ー世間の支配ー……38

6 心中の意味……42

7 社会学的認識枠組……46

8 相互関係論的認識枠組……51

9 究極の恩……60

……



 ――いやまて、『曽根崎心中』って…相思相愛の男女が心中する、あの『曽根崎心中』?!

 美々子は面喰らい、両眉を上げ、かろうじて驚きの声を飲み込む。


 『曽根崎心中』。実在する心中事件を題材に近松門左衛門が書いた江戸時代の世話話である。

 美々子は高校の課外授業で『曽根崎心中』の人形浄瑠璃を観たことがあったため、それなりに覚えていたのだが、いくら記憶を手繰れど資本主義の話とはおよそ結びつかない。


 さっさと見切りをつけて選び直すつもりが、思いもよらない展開に興味をそそられてしまった格好である。

 左肩のトートバッグはどんどん重たくなり、腰を落ち着けたかったが定期試験前の図書館は自習目的の学生で満席状態。ただし中には居眠りする者も幾人か散見され、美々子は(ここで寝るな! もしくは譲れ!)と内心で毒づく。

 しゃがんで読むのは品がない。荷物を床に置くのも抵抗がある。仕方なく、美々子は立ったままの状態で次章以降をざっと確認することに決め、トートバッグを右肩に持ち直した。


 目次にはキリスト教やプロテスタントどころか、「平田篤胤の世界観」「葛飾北斎」「おかげまいりとええじゃないか」等、美々子にとっては社会学というより高校の日本史に馴染み深いキーワードが並び、戸惑いはますます加速する。

 試しにパッと開いたページには「ニーチェ」に「アダム・スミス」、「本居宣長」がちらっと見えた。縦横無尽すぎやしないか。


 たしかに、社会学の視点はさまざまな角度から対象を捉えることを強みとしている。一見まったくつながりのなさそうな、別々に起こっているとみなされるような事柄同士が実は関連し合っているということがわかったときのあの感動は美々子の心を掴んで離さない。


 そうは言っても、点と点がここまで結びつかないとは。

 ここが大学図書館でなく、美々子の自室であれば「なんでやねん!」と声を大にしてツッコミたいくらいである。その衝動を抑える一方で、一体この本が“何を“明らかにしようとしているのか知りたくなった。急いで「はじめに」の部分に目を通す。

 タイトルの示すごとく、「資本主義」がテーマであることは確かだろう。

が、何か――ひどく単純で、しかしきわめて重大な点――を見落としているような気がしてならない。


 本書は、資本主義の起源を探ることをめざしている。(p.5)


 ――資本主義の起源。

 そもそも「世間」だの「恩」だの、ましてや「ええじゃないか」なんて、西欧にそんな文化は……あれ?

 ここで美々子はようやく気がついた。

 この本は、かつてヴェーバーが研究対象とした「西欧」の資本主義、つまり「西欧で」なぜ資本主義が発展したのかなどを問うてはいない。

 「日本」の事例に即して、資本主義の起源を捉えようとしているのである。


 美々子は内容をろくに確認もせず、「資本主義=西欧の話」と無意識に決めつけていた自身の思い込みの強さにハッとした。「資本主義」という言葉に引っ張られて、いや違う。正確には、「資本主義」について自分が知っている範囲の物事だけで判断していた。


 「社会学好き」が聞いて呆れる。今度は自分自身にツッコミたくなった。


 知らないことを知るのは楽しい。

 しかし、それ以上に、自らの盲点や死角に気づかされる、見えなかった景色が見えるようになることの楽しさや喜びの方がはるかに勝る。

 逸る気持ちに任せて、美々子はページをめくった。



 カール・マルクスの「商品交換はまず共同体の間で行われる」という指摘は、商品交換の起源を論じる際に、しばしば引用される。(中略)しかしより重要なのは、それが暗に、共同体がその内部に商品交換が拡がることを制約してきたこと、この制約を越えて商品経済が一般化するには、何らかの決定的な変化が起こらなければならないことを示している点である。(p.8)


 資本主義の起源を理解するためには、この変化を明らかにする必要があるが、マルクス自身は、共同体の間で行われていた商品交換が、あたかも自然に共同体内部で一般化していくかのように把握しており、いかなる契機によって、商品経済が共同体内部へ拡がっていくのかについて、残念ながら深く追求してはいない。(p.8)



 何らかの決定的な変化が起こらなければならないこと…

 あたかも自然に共同体内部で一般化していくかのように把握して…

 そうか、そうなのだ。美々子は自らの視野の狭さを改めて思い知らされたような心地になり、息を呑んだ。けれども、悔しい気持ちは微塵もなく、むしろ得体の知れない好奇心がどこからかむくむくと芽生えてくるのを感じ、思わず口元が緩んでしまう。


 近代の西欧で資本主義のメカニズムが生まれ、発展したからといって、自然発生的に他の地域や国で資本主義が拡がっていくとは限らない。

 ヴェーバーが明らかにしたプロテスタントの禁欲的な態度が資本主義を生み出したという分析だけだと、キリスト教の影響がほとんどなかったはずの日本において、いかなる資本主義の起源があり、どのように生成していったのか等の説明がつかないのである。


 どうやら美々子はとんでもない「アタリ」を引き当てたらしい。

 この本は、常人では思いつかないような角度から、今現在すっかり馴染んでしまった社会のシステムの起源を――、大きな「謎」を解き明かそうとしている。

 こうしてはいられない。立ちっぱなしによる脚のだるさを物ともせず、美々子は早足で貸し出しカウンターへと向かった。


 結局、あまりの面白さに本を借りたその日に大学生協の書籍部に在庫確認をし、取り置きをお願いして翌日には入手。図書館のものはさっさと返却した。

気に入ったものはすぐに手に入れたい性質なのである。




 あの運命の出会いからもう10年近くが経っている。


 もう既に何十回と読破しているため、何が書いてあるかはもちろんわかっている。どういう展開で論が運ぶのかも覚えてしまった。それでも、今なお読むたびにザワザワした落ち着かない気持ちに駆られ、説明し難い凄味に呑まれてしまう。


 学生の時には感じることができなかった「凄味」。


 社会人になって、学生時代とはまた異なるベクトルの理不尽に見舞われ、時には心身が壊れる程に追い詰められたこともあった。

 振り返れば、そうしたときは必ずと言っていいほど「世間のあたりまえ」、「社会の常識」に苦しめられてきたように思う。渦中にいながら自分を俯瞰したり、集団と距離をとるのはとても難しい。

 それでも、美々子が壊れずにぎりぎりの線で踏み止まることができたのは、意識的に社会学 ――主に『資本主義と他者』から得られた学びを実生活に活かそうとしたからだ。


 馴染みのある物事ほど、自分が日々身を置いている世界ほど、死角や盲点が生まれやすい。

「灯台下暗し」ということわざも示すように、距離が近すぎて気がつかなくなってしまう。


 いちばんこわいのは、だれかの価値観や意識を鵜呑みにしていくうちに、“ただしいもの”と受け入れていくうちに、いつのまにかそれらが自分が考えたもののようになって、自らの思考や行動を規定し制限するモノサシにすりかわってしまうこと。


 そんなことじゃあ『資本主義と他者』のような本は生まれないのだ。


 美々子にとって『資本主義と他者』は単なる学術書には収まらない。

 自分を守り、理想となる生き様や思考の態度をも示してくれる「運命の本」である。

 ハードカバーも味があっていいけれど、いつか文庫バージョンがでないものかと願ってしまう。


 文庫がダメなら電子書籍でも…


 ピロン♪


 これからが楽しくなりそうな想像に待ったをかけたのはLINEからの通知、しかも緊急度も重要度も皆無の宣伝LINEだ。今日は何者にも邪魔されず、「好き」に囲まれてリフレッシュしようとしていたのに、スマホの電源を切るのを忘れていた。うっかり仕事関係の連絡など受けてしまったら、美々子の性格上、無視することもできなくなってしまう。

 美々子は固い表情で電源を切り、またしても自分の呼吸が浅くなっていたことに気がついた。


 美々子は昔から呼吸が浅いタイプで、集中したり夢中になると呼吸がさらに浅くなるか止まってしまう。そのせいで頭痛をしょっちゅう引き起こしている。


 これからもう一度『資本主義と他者』の世界観に耽ろうとしているのに、このままだと顔をしかめて頭を抱えることになるのは目に見えている。それでも本は読みたい。身体と脳を感動で満たして、明日からの仕事に備えたい。


 そうだ、と美々子は立ち上がり、買ってそのままになっていたアロマディフューザーとエッセンシャルオイルをショッパーから取り出した。残業続きの日々にやっと目処がついた先週末の帰り道、無性に気分転換がしたくなって立ち寄ったアロマの専門店で購入した品々である。


 要は呼吸したくなるような空間にすればいい。

 美々子はうきうきした気持ちで香りを選ぶ。ローズ、ラベンダー、レモングラス、マジョラム、パチュリー、スイートオレンジ…違うな、この本に合うのは…フランキンセンスかな。

 ディフューザーに水を入れ、フランキンセンスのオイルを数滴垂らしてスイッチを入れると、深呼吸したくなるような香りが漂い始めた。ウッディーで、ほんのり甘くて、スパイシー。

 やっぱりとても合うなぁと美々子は上機嫌になる。


 立ち上がったついでに、昨日の晩作っておいた水出しミントティーをグラスに注ぎ、少量の蜂蜜を入れる。


 BGMはいらない。読んでいるうちにイメージされる曲がその都度勝手に脳内で再生されるためだ。美々子にとっての読書は色と音に満ちている。


 さぁ準備は整った。

 人がダメになると名高いクッションに背中をもたれさせ、ローテーブルに常備しているハイカカオチョコレートを一粒、口に運ぶ。

 舌でチョコレートを転がし、ほのかな甘さを堪能しながら美々子は改めて表紙をめくった。


 どの章も素晴らしいが、やはり最初に目が釘付けになった例の第二章は格別の思い入れがある。


 『曽根崎心中』における「世間」とは、ひとつには「監視システムとしての世間」だ。

 借りを返すまで関係を解消することが出来ない「交換の規則」が守られているかを監視する。



 明文化された規範があらかじめ世間の側にあるわけではなく、各人が自らの置かれた状況に応じて、世間の意向を判断しなければならない(中略)この判断は、日常生活における他者との付き合いのなかで不断に行われる。例えば、日常会話におけるうわさ話などを通じて、世間の意向が読み取られるわけである。(p.39)



 各人は世間から分離しているのではなく、各人の中にも、それぞれ世間的な常識をある程度持ち合わせているため、世間と自分を照らし合わせているのである。自分が属している世間を分離させて、「客観的」に見るのは難しい。

突き放して見ようとしても、結局は周囲との、世間との答え合わせのようなことをしてしまうことは美々子にも覚えがある。



 世間として意識されるのは、意識する者の生活に直接に関わる可能性がある世界である。この意味で、世間は意識するものによって異なった空間的拡がりを持つ。(p.39)



 世間は、それを意識する者の外にありながら、意識のなかで再構成されなければ存在しえない。それは、明確な境界線を持たず、意識する者の交際範囲や手持ちの知識によって、至るところに拡がる可能性を秘めており、この可変性が、相互監視システムとして世間を機能させることになる。その存在が意識されていながら、姿をはっきりと現すことなく沈黙し続ける空間、それが世間である。(p.40)



 『曽根崎心中』から描き出された「沈黙した世間」。ただ存在しているだけで、自己懲罰させるシステムが出来上がっているのだ。世間と自分を対比させたりする点において、世間は無関係とまでは言えないが、心中や罪、恥といった意識などは、最終的には個人の裁量によるものが大きい。

 「世間」の存在が意識されているからこそ、“監視”されているという意識も生まれる。

 世間から見られているという本人の意識が、実際の行動につながる…この本人の意識は結局のところ、自己規律に相当するのだから、一筋縄ではいかない。


 ああ、楽しい…!

 現代の話かと錯覚しそうになるのは、きっと人間集団の真理を掴んでいるからか。

 フランキンセンスの香りが変化していく。

 多面的で、神秘的な、美々子の「運命の本」にぴったりの香り。

 美々子は思い切り息を吸い込んだ。口の中のチョコレートはすっかり溶けてしまった。

 ミントティーで喉を潤し、脳内を流れる豪奢なオーケストラの音色に肩を揺らす。


 美々子は今、友人が欲しい。

 この『資本主義と他者』の話で盛り上がれるような友人。

 想像するだけでたまらなくなった。

 もっとも、片頬だけで笑う美々子の顔はとても友人を欲しているようには見えなかった。



(了)


参考文献およびオススメ書籍

▪️荻野昌弘(1998)『資本主義と他者』

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