第4話 歩き方と飲み方と食べ方に相関性はない
歩くのが速い、とよく言われる。看護師の歩き方をしている、と言われたことも二回ある。一度は揶揄を込めて。一度は単に雑談で。
「看護師さんて、ホントよく飲むよね」
これはその中間。少しのからかいと、場を持たせようという気遣い。私は少し笑って答える。
「私ね、最近お酒やめたんです」
「えっそうなの」
どうして、と続けて聞くのは新顔の上田さん、五十六歳男性。新顔と言っても、一週間もいればだいぶ打ち解けてくる。特にこの人は、大酒飲みだったらしいおおらかさと明るさで、若い子、中堅、ベテラン問わずよく喋る。悪いお酒の飲み方ではなかったんだろうな、と想像できるだけに、少し切ない。
「なんか、歳とったらお酒に弱くなっちゃって。前は確かに、ガブガブ飲んでたんですけど、すぐ酔って気分悪くなっちゃうので、やめました」
数年前までは確かによく飲んだ。看護師の歩き方をしている、と言われた一回目もストレス発散目的の合コンだった。前の彼氏と別れたあとに行った合コンで散々飲んで、それでも帰り道ふらつくこともなくキビキビ歩いていると、もう顔も覚えていない男に言われたのだ。
そんなこと、三年付き合った元彼にも言われたことなかったのに。
「それはさ、飲む酒を変えればいいんだよ。松村さん、日本酒飲める?」
明るい声に我に返り、その内容の毒気のなさとしょうもなさに苦笑する。
「飲んでましたよ。お高くていいお酒も、いろいろ」
「そうか~、それなら、しょうがないのかもねえ」
引き際の良さも、憎めなさにつながっている。なんていうか、得な人だと思う。
「はい、戻りましたよ」
「悪かったね、ありがとう」
いえ、と答えてカーテンを開け彼をその中に導く。トイレへ付き添った帰り道だったのだ。飲んだ後みたいによく出たよ、との言葉から酒トークも始まった。
「一人で行ければ迷惑かけずに済むんだけど」
「ダメダメ、まだ結構ふらついてますよ。転んだ方が大変だから、次も呼んでくださいね」
それじゃあ、とカーテンを閉めひとつだけ呼吸する。それから早足で歩き出した。
午前四時。もう夜よりも朝が近い。日が昇って人々が起き出せば、ジェットコースターのような朝が始まる。それまでに、いろいろと準備して仕事しておかないと。ああでもその前に、一度巡視にも行かなくちゃ。
病棟では決して走らない。最大限の早足と、ふらつく人に付き添う時の亀のようなゆっくりした歩きと、その間しかない。走るのは急変があった時だけだ。
『私たちって、KYTをやり過ぎてるんだよね』
とは、例の合コンに一緒に行ってくれた同期の言葉だ。KYT、危険予知トレーニングをやり過ぎていて、前から人が来ればいち早く気付いて道を譲るし、視界の端に困っていそうな人が映ればついついそちらを見てしまう。
酔ってふらつく女を支えてやろうと狙っている男のやり口にもすぐ気付く。
まああの合コンは、こちらも安く飲ませて貰おうという魂胆があったのでどっちもどっちだったわけだけど。
あの時私の部屋に場所を移して、朝までげらげら笑い合ったあの子も、去年結婚して退職してしまってもう何ヶ月も連絡を取っていない。
空き巣のような忍び足で個室の巡視を終え、またすたすた看護師の歩き方でステーションに戻る。
さあ、朝までもう少し頑張ろう。
「看護師さんて、食べるの速いよね」
朝、私にそんなことを言ってきたのは沢田先生だった。こいつ、説明が下手くそなだけでなく日常会話のチョイスも下手だったのか、と明けのささくれだった心で思う。そういえば、去年の忘年会の帰り道で歩き方について例の言葉を寄越したのも、この先生だった。
「仕事の休憩中だけですよ、食べるの速いのは」
脳内で暴言を吐いていて無言の私に代わり、隣で仕事をしていた小島さんが答える。小島さんと私は同じチームリーダーなので、夜もチーム運営についていろいろと話をしていて仕事が進んでいなかったのだ。
「先生たちこそ、食べるの速いじゃないですか」
「速く食べないと、呼び出し来て食い損ねるかもしれないだろ」
「プライベートでも食べるの速いんですか」
「えーどうだろ。あるもん食ってるだけだけど」
あれこの人は既婚だったかな、と考える。それとも外来のナースと付き合ってるんだっけ。それは保坂先生の浮気相手だったかな。どうでもいいことでひっかかっていると、やはり小島さんが尋ねた。
「先生、自炊するんですか」
ということは未婚かな。ありがとう小島さん。有能で人当たりのよい後輩には、助けられることも多い。その分この子は、いろいろ背負い込んでしまっているのだろうけれど。
「しないよ。コンビニ飯ばっか」
身体に悪いですよという言葉を聞きながら、私は、帰ったら何食べようと考える。
その時、なんの相関性もないけれど唐突に忘れていた仕事を一つ思い出した。上田のおじさんの体重を入力するのを忘れていた。体重測定も付き添いが必要だから、後で測りましょうと言って忘れていたのだ。
「ちょっと忘れてたことしてくるね。終わったら先帰ってて」
そう声をかけて席を立つと、待ちますよ、と小島さんは笑った。要領の悪い子だと思うけど、きっと私自身も、先輩たちからはこう見られていたんだろうな。
上田さん、と声をかけてカーテンの隙間から覗くと、彼は驚いたように目を丸くした。
「松村さん、まだいたの」
「ちょっと仕事が終わらなくて。それで思い出したんですけど、私上田さんと体重測りに行き忘れてましたね」
ああ、そういえばと彼は頷いた。
「でも俺、朝メシ食べちゃったよ」
「二時間くらい経ってるしいいかなって。行けそうですか?」
いいよ、と軽く答えて上田さんは身体を起こす。それに手を貸すと、悪いねと彼は笑った。
「疲れやすくなったな、とは思ってたんだけど、ここまで病気が進んでるとはね」
参ったね、と小さく続ける。彼は会社の健診で異常を指摘され即入院となったが、この世代にはそういう人が多い。仕事から急に切り離され入院すると、張りつめていた糸が切れたように急に身体が弱ってしまう。
体重を測定し、ベッドに戻ろうとするとちょっと待ってと上田さんは支える私を見下ろした。
「あのさ松村さん、本当に申し訳ないんだけど、コンビニに買い物とか行けないかな」
「コンビニ? 地下の?」
そう、と頷いて自嘲気味にまた笑う。笑顔以外の表情をほとんど見たことないな、とふと気がついた。
「ほら俺、差し入れてくれる家族もいないでしょ」
ああそうか、と納得する。病歴や家族関係の聴取内容に、奥さんとは数年前に別れて子供も奥さんについて行った、とあった。私はこの人を元酒飲みで気の良いおじさんだと思っているけれど、昔からそうだったのかは分からないし、人は多面性を持つ生き物だ。
「……うーん、今時間外だから、さすがに上田さんを連れ出すのはできないけど、私が買ってくるのでもいいですか?」
「いいの? 買ってきてくれる?」
「お酒以外なら」
「煙草だけだよ」
ニカっと笑ってそう答えるので、それもダメ、と笑う。うそうそ、と上田さんは冗談ぽく続けた。
「スポーツドリンク二本くらい買ってきて欲しいんだ。あと炭酸、サイダーみたいなやつ」
「それだけ?」
「あとチョコ。アーモンド入ってるやつ」
酒飲みの喫煙者がそのどちらも取り上げられた時にありがちなチョイスに、分かりましたと私は頷いた。病室に戻り引き出しの財布から千円札を取り出して、上田さんはまた笑う。
「お釣りは松村さんのお小遣いにしていいよ」
「やったーハーゲンダッツ買って帰ろっと」
軽口で答え、私はもう一度小島さんに声をかけてから地下のコンビニまで行ったのだった。
律儀に私の帰りを待っていた小島さんと並んでちんたら歩き、十字路で別れる。彼女は隣駅で実家暮らしをしている。
コンビニで買い物した後、師長にばれないようにステーションを通らず病室に行き戦果とお釣りを渡すと、上田さんは意外そうな顔をした。
『お小遣いにしなかったの』
『自分のぶんは、自分で買います』
帰ってから何か作る元気はなさそうだったので、パスタを買った。沢田先生に何も言えないな、と思いながらビニール袋をがさごそ揺らして、家の鍵を開ける。
シャワーを浴びると、どっと眠気が押し寄せてきた。早く寝たい。だけどご飯も食べたい。
ビニール袋からパスタの器と、もう一つ買ったものを取り出す。これは院内のコンビニにはなかったので、帰り道でわざわざ別のコンビニに寄って買ったものだ。
ここ最近ご無沙汰していた、缶チューハイ。一番弱いやつ。昔はこんなのジュースだと思っていたけれど、今の私にはてきめんに効くだろう。
チーン、とレンジが鳴る前にもう缶を開けて一口。しゅわしゅわの炭酸に、ごちゃごちゃこんがらがっていた頭の中身が溶けていく気がした。
看護師になってから気が強くなったと言って別れた彼氏も。
看護師の歩き方だと言って引いたあの男も。
看護師は食べるのが速いと決めつけた考えなしの同僚も。
薄いアルコールに溶けて消えていく。
私は看護師だ。でも、そのために生きてるわけじゃない。生きるためにやっている仕事だ。
私の歩き方も食べ方も飲み方もそして生き方も、仕事とは関係のないことだ。
今この世で一番私のことを分かってくれるのは、一緒に夜を乗り越えた後輩と、家族を失い酒を飲めなくなって笑顔が張り付いたままのおじさんかもしれない。二人は今頃、何を食べているだろう。
レンジが止まって、あつあつの器を取り出す。薄いビニールを破いて、いただきます。
二人とも、なにかおいしいものを食べられていますように。
夜勤明けごはん なかの ゆかり @buta3neko3
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