第3話 リーダー業務と残り物には福がある

 リーダーやりますよ、なんて言うもんじゃなかった。

 いえ私がやりますよ、私も、それならどうぞどうぞとダチョウ倶楽部を期待したのに、実際手を挙げたのは私一人だったので実に平和的に今晩のリーダーに収まってしまった。

 ナースコール連動とは別のPHSを持ち、ポケットが重い。

 夜勤リーダー、と言えば聞こえはいいけれど、実際のところただの貧乏くじだと思っている。自分の受け持ちだけではなく病棟全体の患者について責任を持ち、夜勤スタッフに関してもまた責任を負い、雑多なリーダー業務を一手に引き受ける。

 申し送りの後からしてもう運が悪かった。

「松村さん、ちょっといい」

 長い申し送りを終え、さて自分の受け持ち患者の検温に回ろうと思ったら、師長さんに捕まった。断れるわけもなく、はい、と答えて師長席に行く。

「あのね、小島さんのチームのことなんだけど」

 その言葉でだいたいの内容を察して、はあ、と相槌を打つ。

 小島さんは今年からチームリーダーを始めた後輩である。一年目の頃からよく知る、真面目で優しい良い子なのだけど、いかんせん優しすぎる。チームメンバーをまとめることに苦労しており、何度も話を聞いてあげていた。

「最近入院した、六号の山本さんいるでしょう? あそこのご家族とのことでいろいろあのチーム苦労してるじゃない? それで、松村さんにも力になって欲しいと思って」

「はあ、力になれるかは分かりませんけど、話は聞いてますよ」

 そうよね、小島さんも言ってたわありがとう、それでね、山本さんの担当は二年目の太田さんじゃない? 太田さんも頑張ってるんだけどやっぱり難しいみたいで、小島さんが相談に乗ってるんだけど、なかなかいい考えが出てこないみたいで…………と、怒濤のように言葉が続く。

 この師長さんとは三年の付き合いになる。内容をまとめずに話し出すことと、勤務表の作り方があまり上手でないこと以外は、悪い人ではないと思う。けれど夜勤開始直後のこの忙しい時間に捉まると少し焦れったい。

「松村さんなら小島さんとも仲が良いでしょ?」

「なかなか勤務被らないので難しいですけど……今度、リーダー会の後にでも話してみます」

 後輩の力になりたい気持ちがあったとして、勤務的物理的に無理なときもある。勤務表を作成する方に対する、ちょっとした自己主張である。

 それで話を打ち切り、急いで検温に回り始める。夜なので簡略版ではあるが、一応全員の顔を見てバイタルを取って……と動き回っていると、リーダーPHSが鳴った。

「はい、七階リーダー松村です」

『お疲れ様です、保坂です』

「ああ先生、お疲れ様です」

 肩でPHSを挟んで抑えて、バインダーとノートパソコンを落とさないように支えながらワゴンを押して、廊下に出る。この時間にドクターからの電話は、あまり良い予感がしない。時間外の指示変更か、はたまた緊急入院の打診か。

『あのさ、夜勤て何人いる?』

「は? 三人ですけど」

『医局で研修会があって、焼き肉弁当余ってるけど、いる?』

「えっいいんですか? やったー! ありがとうございます」

 思わず声が弾んで、少し抑えて礼を言った。嫌な予感が杞憂に終わり顔が綻ぶ。

『じゃあ、後で病棟行くとき持ってくんで』

「ありがとうございます。お待ちしてまーす」

 通話を切ってPHSをポケットにしまい直す。リーダーPHSは持っていると嫌になることも多いけど、たまにはこんな風に良いこともある。

 幸先いいな、と思ってしまったのが運の尽きだった。

 それから夜中まで、怒濤の電話ラッシュ。やれ薬剤部から返却されてない薬があるだの、違う科のドクターから体重が入力されてないだの、それ夜中に聞く必要ありますか? と聞き返してしまいたくなるようなことばかり。だいたい朝の体重入力忘れたのは悪かったけど、それに夜まで気付かないのもどうなのよ。

「松村さん、代わりに探しますよ。お弁当一つ残してますから」

 混注台の付近や薬品かごをあちこち探し回って、ないと言われた薬品を探していると、そう声をかけられた。

「そう? ありがとう。もう、なかったらなかったでいいから」

 分かりました、と答えた後輩にPHSも渡して休憩へ行く。保坂先生がナースステーションまで持ってきてくれたお弁当は、先に休憩に行ったスタッフによって運ばれていた。見れば思った通り、有名店の焼き肉弁当。こんな時でなければなかなか食べられないやつだ。

 ぱきんと箸を割って、手を合わせる。先生方、ありがとうございます。いただきます。

 大変おいしくいただいて、戦場に戻る。さきほど捜索とPHSを託した後輩が座っていたので声をかける。

「戻りました。ありがとう。何かあった?」

「薬剤部から電話があって、探してたやつ、やっぱり薬剤の方にありましたって」

「えっ」

 私が探し回ったあの時間は何だったのか。あの時間あれば別の仕事できたじゃないか。せめて直接その電話を取っていれば、嫌味の一つも言えたのに、と性格の悪い考えが頭をよぎり、首を振って打ち消す。

 邪念が良くないものを呼ぶのだ。清く正しく美しくあれば、平和に夜勤を終えられるはずである。邪念には期待感も含まれるので、「今夜は静かですね(朝まで静かだといいですね)」という言葉も厳禁だ。

 しかしそんな私の自制心を笑うように、クレームです、と呼ばれたのだった。


「責任者を出せと言ってるんだ、俺は」

 退院間近のおじさんは、空調が強すぎる、と訴えている。大部屋の空調はベッド毎の調整などできないし、管理上空調を止めることもできない。何度説明しても勝手に消してしまうし、受け持ちの説明では納得しないと言う。

「この時間帯の責任者は、私です」

 こういう手合いは理屈ではないと思うので、私はただ淡々と繰り返した。

「私の説明で納得できなければ、師長が来るまで待ってください」

 この台詞ももう三回目である。ああ、本当はこの時間にやらなきゃならない仕事がいろいろあるのになあ。

「なんでお前みたいなのが責任者なんだ」

「夜は私共スタッフしかおりませんので、その中でリーダーを決めています」

 若い女だから、看護師だから、何を言ってもいいと思っている人は多い。このおじさんは暴言がない分ましな方だ。それでも、この人が廊下の椅子で座り込みを始めたばかりに、その横で膝をつかずにしゃがみ続け足が痺れてきた。もうちょっと別の場所で始められなかったものだろうか。

 後ろをスタッフが通過するたび、何かあったのではないかと気になる。ごめんね、手伝えなくて。そんなことを考えながら同じ言葉を繰り返した。

「おまえの話では納得できない」

「分かりました。それでも結構です。太田さんの訴えは師長が出勤次第伝えます。ただ、ルールがありますので、もし今晩太田さんが空調を消していたら、私たちがまた点けます」

 一時間話して結局これ。なんだったんだ、この時間。

 ごめんごめんと仲間たちに合流して、私たちは空調を消されては点け、消されては点け、の一晩を過ごしたのだった。


 これほどまでに、師長さんに早く会いたいと思った夜勤がこれまであっただろうか。考えてみれば結構あったな。もっと悲惨だった夜とか。

 スタッフより早く出勤する師長さんを、昨晩とは逆に私の方から声をかけて捕まえて、夜に会った出来事を話す。あらあらそんなことが、と言って師長さんは私の対応で正しい、と受け合ってくれた。こういうところがあるから、なんだかんだこの人が上司で良かったと思えるんだよなあ、とほっと息をつく。

 たとえ相手の方が変なことを言っていると明らかでも、自分が責任を持つと請け負うのは緊張するし本当にあれで良かったのか考えてしまう。上司がそれを認め、更に責任をぶん投げられるというのは、本当にありがたいことだと思う。

 受け持ち間の申し送り、リーダー間の申し送りと長い長い申し送りを終え、私はステーションの机で撃沈していた。なんだかいろいろ仕事が残っている気がするけど、よく分からない。

 ぐったりしていると、隣の席に見慣れた白衣姿が座った。保坂先生だ。

「お疲れ。明けの顔してんね」

「そりゃあ、明けですからね」

 会話が刺激になり、ようやく指が動き出す。ぽちぽち文字を打ちながら、そうだ、と横を見た。

「昨日のお弁当、ありがとうございました。おいしかったです」

「どういたしまして」

 保坂先生は少しだけ考えるように沈黙し、それから声を落として私の方に身をかがめた。

「あの弁当、あと一つだけ残ってるけど、持って帰る?」

「えっなんで?」

「いや教授がね、食べないで帰っちゃったから。昨日のだから今日はもういらないって言うけど、特上のいいやつだから若いのにあげようかと思ってたんだけど」

 ただでさえおいしくて豪華な焼き肉弁当の、更にいいやつ? 想像が付かない。クラクラしながら答えを迷っていると、保坂先生は笑って手を振った。

「松村さんが一番疲れてる顔してるから、持って行きなよ。医局の冷蔵庫にあるから、電話しとく」

 本当に私がもらっていいんですかあとで恨みっこなしですよ本当ですねと念を押し、私は特上のカルビ弁当を持ち帰る権利を得た。

 そこからは急ぎ足で仕事を終え、着替えてから医局に立ち寄る。あまり行くことのない場所だけど、知った顔が冷蔵庫から弁当を出してきてくれた。ありがとうございますとそこでも礼を言い、心はウキウキ、スキップで帰る。もちろん、疲れて足が動かないので気持ちだけだけど。


 お風呂に入って身を清め、弁当の前に正座で背筋を伸ばした。何千円か知らないけど、自分では絶対に手が出せない代物だ。いつもの箸に、いつものコップにいつものお茶はちょっと残念だけど、まあ夜勤明けだしこれで許してもらいましょう。

 手を合わせて、いただきます。いつもの、習慣としてのいただきますではなく、本当に拝むようにしてから蓋を開ける。

 ああもう、見るだけでおいしい。

 あのとき疲れた顔していて良かったなあ。リーダーやってて良かったなあ。役得だなあ。

 ……なんて、そんな訳ない。リーダーじゃなくてもきっとヘトヘトだったし、保坂先生はたまたま隣にいた私に声をかけただけだ。

 まあ、頑張った自分へのご褒美と思おう。

 分厚くて、よくタレの絡んだお肉にかぶりつきながら、開放感と幸福感を噛みしめた。

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