第2話 低血糖に捧ぐキャラメルフラペチーノ

 今ひしひしと血圧が下がっているし、血糖値も低くなっているのを感じる。


 夜中に急変があった。ちょうど日付が変わる頃、当直医を呼んで、家族を呼んで、主治医を呼んで。平行して患者の処置をして、採血して、ルートを取って、点滴落としてやっぱりだめでICUに連絡して。

 ICUのリーダーにチクチク突っ込みを入れられながら申し送りして、主治医が家族に説明するのに同席して、説明されて余計混乱している家族をなだめて、案内して、とりあえずこっちでの仕事は一段落して。

 私が病棟に戻ると、他スタッフがなんとか他患者のことを回してくれていた。ICUが困らないように最低限でも記録しな、と座らせてもらう。

 元の席に戻ってカルテを開き、どこから手をつけたらよいものかしばし呆然としていると、さきほど専門用語混じりのとんちんかんな病状説明をした若手の医者がエレベーターホールの方からやってきた。

「どうしたんですか」

「白衣忘れた」

 ああ、と彼が向かった処置室を覗く。ゴミやリネンが散乱していたが、片付ける気にはなれなかった。ただひたすらに、面倒くさい。救急カートも補充しなくちゃだけど、まあ、後ででいいか。

 白衣を羽織り、先生は私のとなりの椅子に、どっかりと落ちるように座り両手で顔を覆った。疲れた様子に、ふふ、と少し笑う。病状説明の時は、なんて説明が下手な人なんだといらだちもしたけれど、急変時の連帯感は怒りも上書きしてしまう。

「いいんですか、下行かなくて」

「保坂先生がいるから」

「なおさら、沢田先生が行かなきゃダメでしょ」

 上級医の名を挙げる先生にツッコむと、彼は返事はせず覆った手の下で笑った。

 この先生――沢田先生とは同期だった。私が一、二年目のころ研修医としてあちこちの科を回っており、その後入局。私はこの人が研修医だった頃をもはや覚えていないが、先輩方はこぞって、昔から説明が下手だった、と言う。

 説明は下手だけど、悪い人間ではないと思うし、歳が近い気安さもあって仲は悪くない。ぽちぽちと、普段の三分の一くらいのスピードで文字を打ちながら、私は尋ねた。

「持ち直しますかね」

「どうだろうね、まだ若いけど、予備力がね……」

 それなりに治療歴も長い、よく知る患者さんだった。一度全身状態が悪化したら難しいだろうな、ということも分かっている。けれど頭では理解していることと感情とを、どれだけ切り離して語るべきなのか、私はときどき混乱してしまう。そういうモヤモヤした思いをぶつけ合うにも、下っ端ドクターと六年目ナースという立場はやりやすかった。

 私が記録を打ち込む横で、沢田先生はぐびぐびとコーラのペットボトルを煽る。褒められた態度ではないし、夜中に医者の不養生だと思うけど、まあ現実はこんなものだ。私もお茶のボトルをぐいと飲み干して、記録の確定ボタンをクリック。ため息をついてぽつりと呟く。

「甘いもの飲みたい。血糖値上げなきゃ朝まで持たない」

「いいねー俺は下でフラペチーノ飲みたい」

「先生は、もう十分血糖値上げたでしょ」

 言外に、はよ行け、という気持ちを込めると、それは十分伝わったようだ。椅子から立ち上がり大きく伸びをした。

「じゃあまた朝に」

「お疲れ」

 短く挨拶をしてエレベーターホールへ歩み去る背中を見ていると、彼がこれから降りていく階下のICU、そして更に下の一階にあるコーヒーショップに意識が飛んだ。

 フラペチーノ。クリームたっぷりのキャラメルフラペチーノに、チョコソースとチップも追加したい。カロリーの塊みたいなそれを、帰りながらぐびぐび飲むのだ。血糖値上がるだろうなあ。急変で興奮して分泌されたアドレナリン、止まらないなあ。

 もうダメだ。頭が冷たいフラペチーノでいっぱいになってしまった。帰りに絶対買って帰る。

 そう決めて、私は乱暴にノートパソコンを閉じ、今日の戦友たちを探しに廊下へ出た。


 :


 絶対に血圧も血糖値も下がっていると思うけど、そういうときほど実際は下がってない。一度だけ、ヘトヘトになって終わった夜勤後に測ってみたことがあるけれど、血圧も血糖値も教科書に載せたくなるような正常値だった。

 でも、交代時間も近づいて、いよいよ頭が回らなくなってきた。あとなにが残ってるんだっけ。誰のところに行ってないんだっけ。体重後で測るって言ってたの誰だっけ。

 移動用のワゴンの前で数瞬自失していた。魂が抜けていた、と言い換えても良いかも知れない。

「松村さん」

 名前を呼ばれて我に返り振り向き、慌てた。昨晩の急変時、慌てて駆けつけてくれた奥さんだった。

「大丈夫ですか」

 馬鹿げた声かけだけど、それ以外に言葉が出てこない。奥さんは蒼白な顔でけれどしっかり頷いた。

「夜中は、すぐに連絡くださってありがとうございました。先生には厳しいと言われましたけど、下で頑張ってくれてます」

「そうですか……」

 気丈な方だと思った。奥さんは私の後ろのナースステーションへ視線を回して、少し小さな声で言った。

「あの……当面の荷物だけ、移動させてもらったんですけど、あの人が部屋に置いてた御守りとか写真、持って行っても良いですか。後はまた、昼間にご相談しに来ますので」

「ああ……! もちろん、いいですよ。ええと、少し待っていてもらえますか」

 同室患者に配慮して私が取ってくるつもりでそう答えると、心得たように奥さんは頷き微笑んだ。おそらく、私が病棟の入り口付近に来たところで声をかけてくれたのだろう。

 小走りで奥の病室へ向かう。夜中に突然主が消えた病床は、不自然にぽっかり空いていた。カーテンも全開である。

 壁から伸びるライトに吊り下げられている複数の御守りを外して、床頭台に貼られた家族写真を丁寧に剥がす。四角の中で笑う姿は、先ほどのはかない微笑みとは違う満面の笑みだった。その晴れやかさに、ほんの僅か手が止まる。

 写真と一緒に貼り付いたような思いを引き剥がして、回収したものをまとめて私は病棟の入り口へ戻った。奥さんは、廊下の角にテトリスのようにきっちり収まって待っていた。

 どうしてこういう人が、こういう人のご主人が、と思うけど、それは感情バイアスでしかなく、実際のところ悲劇はどんな人間にも平等に訪れるものだと、私はもう知っている。

「どうぞ。もしまだあるようなら、探してきます」

「いえ……これで十分です。ありがとう」

 丁寧に礼をして奥さんはまたICUに戻っていく。他の家族は来たのだろうか。離れて暮らすお子さんは、まだ若かったはずだけど。

 そんなことを考えながら、私の頭は冷えて冴え始めていた。

 食前薬とインスリンを投与して、食事までに体重測ると言って二度寝に入った人を起こして、食介の前に必要な人たちの吸引や体交に回って。

 パズルのようにやることを組み立てながら、急変時に大量分泌されたアドレナリンの残り少しが、最後のひと踏ん張りと燃え上がるのを感じた。


 :


 急変のあとの朝は、みんなが優しい。普段ふんぞり返っているいけ好かない上級医も、おまえがいるとき急変多いな、と彼なりのねぎらいらしき言葉をかけてくれた。

 夜中に頑張ったおかげで、仕事も比較的早くに終わった。なんかやり残しているような気もするけれど、とりあえず今なにも指摘されてないってことは、緊急性の高いことじゃないと思う。たぶん。きっと。

「そういうのって、家帰ってお風呂入ってるときに思い出しますよね」

 一緒に救急カートのチェックをしてくれていた一つ下の後輩の言葉に深く頷く。どうしていつもいつも、手遅れになってから思い出すのか。

 まあいいよ、きっと大丈夫と軽く笑って、ステーションの内側に向かってお先に失礼しますと挨拶する。お疲れ様でした、とまばらな声が返ってきた。

 疲れたねえ、と言い合っていると、エレベーターホールから疲れた背格好の男がふたり、とぼとぼと歩いてきた。保坂先生と沢田先生だ。

「お疲れ様です」

「お疲れ。いいな、俺も帰りたい」

 急変対応をして寝ていない状態でそのまま日常業務に入るのだ。つくづく医者の不養生だし、えげつない勤務体系だと思う。

「調子どうですか」

「うーん、朝になって結構状態戻ってきた。血圧安定してきたし、ガスも良いから、戻れるかも知れない」

「そうですか……良かった」

 もちろん、急変して数時間後の状態なんてあてにはならない。この後も山はたくさんあるだろう。でもきっと、奥さんは一度家に帰って休める。

「先生、私フラペチーノ買って帰りますね」

 夜中のことを思い出して言うと、沢田先生は少し考えてから、ああ、と笑った。

「俺は今、地獄みたいに濃いコーヒーが飲みたい」

 明けのテンションと言うべきか、たいして面白くもないその言葉に、全員がけらけら笑った。


 キャラメルフラペチーノに、チョコソースとチョコチップ追加。チップは多めで。

 日は既に高く昇り、横断歩道の白が目に眩しいくらいだった。赤信号で止まって、こんもりと盛られたクリームに刺さったストローに口をつける。

 甘くて冷たい液体が喉を潤す。

 ああ血糖値が上がっている。そう思った。


 

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