夜勤明けごはん

なかの ゆかり

第1話 転んだあとのカレーヌードル

 夜勤で大切なことは三つある。

 一つ、冷え対策。特に冬は、貼るカイロを忘れない。

 二つ、眠ること。夜勤前の睡眠と仮眠時間は死守すること。

 三つ、食べること。食べないと動けない。食べることは生きること。夜中のカロリーは気にしない。働くために、食べるべし。食べるべし。食べるべし。


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 カレーヌードルの匂いがする。

 キーボードを打つ手を止めて、顔を上げる。点滴棒を引き連れながら、ひたひた歩く人と目が合った。三号室四ベッドの、相田さんである。私は苦笑して立ち上がった。彼も足を止め、眼鏡の奥の瞳を細めた。

「松村さんに見つかった」

「こんな時間に、カップ麺ですか」

 既に日付が変わり、とうに廊下も病室も消灯されている。静かな夜で、他のスタッフががさごそ働く音がステーションの奥から聞こえてくるだけだった。

「それ、どこで食べるんですか」

「端っこのテーブルで。だめ?」

「もうお湯入れてるんでしょう? しょうがないから、いいですよ」

 廊下の端には、患者や面会者のため、ささやかに椅子とテーブルが置かれている。匂いが廊下に充満するのは困るけど、と思いながら仕方なく許可すると、彼はまた笑った。

「夕ご飯あんまり食べなかったから、腹減っちゃったんだ」

「食べる元気が出てきたってことですね、それは良かった」

 絶賛抗がん剤治療中の患者さんたちは、食べられるときに食べられるものを食べていれば良い、との考えで、このような乱れた食生活も許してしまいがちである。特に相田さんは吐き気が出やすい。それでも喉元過ぎれば何とやら、で症状が落ち着けばけろりとした顔でカップ麺や揚げ物を食べたがるので、微笑ましくなってしまうのだった。

「今日、松村さんがいるって忘れてたな~、しまった」

「なんで私がいるとしまったなの」

 彼とは歳が近く治療歴もそこそこ長いので、患者と看護師といえど気の置けない仲になってくる。ステーションのカウンターに肘をついて尋ねると、彼はまた笑った。

「松村さんは、他の人より厳しいから」

「……三分経ちますよ。さっさと食べて、寝てください」

 ほら厳しい、と言いながら歩き去る彼の背を見送って、私はステーションに戻った。奥では既に、先輩が朝の点滴混注を始めている。手を洗ってそこに加わると、相田さん? と尋ねられた。

「そうです。おいしそうな匂いだったなあ。あんなの許可しないで、奪って食べてやれば良かった」

「あかりちゃんはあの子と仲良いよねえ」

「良いというか……初発の時担当してたので」

 当時は確かこちらも三年目くらいの甘ちゃんだったが、あれから数年経ち七年目ともなれば、この大学病院では既に中堅である。そういえばあの頃は、もう少し優しく接していた気もしないでもない、とふと思った。

「今日、仕事終わりそうですか?」

「うーん、サマリー添削するのと、年間計画が終われば終わる。そっちは?」

「同じです。あと、自分の担当分の転院サマリーもあります」

 終わらないね、そうですね、と話しながら手元は一瞬も止まらず、アンプルをカットしシリンジに針をセットしバイアルの中身を懸濁し生食ボトルに混注する。点滴混注レースがあれば、ぜひプロの選手として出場してみたいと私は常々思っている。

 途中ナースコール対応も挟みながら、それなりの経験年数ふたり、あっという間に混注を終え、作業台をぴかぴかに拭き上げそれじゃあと各々の仕事に戻った。もうすぐ、仮眠に行った後輩が戻ってくる。朝まではまだまだ長い。


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 朝八時。次々と出勤してくる日勤スタッフに、もうそんな時間なのかといちいち怯えながら、私は廊下の向こうにいる後輩に大声で呼びかけた。

「代わりの採血、今から行くから、とりあえずごはんだけは食べずに待ってもらってて!」

 はい、と向こうも大声で返した。彼女がわざわざ伝えなくても、患者本人にもきっと聞こえただろう。彼女が「すみません、どうしても採血が取れなくて……」と言ってきたので、内心吹き荒れた感情をひた隠し、私は分かったと笑顔で頷いたのだった。

 トレイに針やテープをぶち込み、急ぎ足で廊下を歩く。助手さんが朝食を配膳しながらこちらを気にしてくれているので会釈した。

 そういえば、カレーヌードルの匂いはすっかり消えたな。

 ふと、そんなことを考えたせいだろうか。

 ガシャンと聞き覚えのある音がした。嫌な予感がする、採血に行かねばならない、自分の仕事も山ほど残っている。聞こえなかったふりをしたかったけど、そうも行かない。進行方向に未練を残しながら振り返ると、同時に助手さんが三号室から飛び出してきた。

「松村さん! 相田さんが転んだ!」

 はい、終わり。

 トレイをワゴンに置いて、私は走って三号室へ駆け込んだ。


「じゃあ、転倒というかベッドから落ちた感じだったんですね?」

「そうです」

「どこも打ってないんですね?」

「お尻からいったので、大丈夫そうです。外傷もないです」

 分かりました、と担当チームの研修医がレポートにサインする。どんな些細な尻餅でも、こつんとぶつけた打撲でも、診察依頼しレポートに挙げ報告しなければならない。夜勤明けの私が疲れて荒んでいるのを分かっている研修医は、私の言うがままにレポートに必要事項を記入する。

「僕もさっき相田さんに会いに行きましたけど、夜中にカップ麺食べておいしかったって言ってましたもんね。元気そうで良かったです」

「そうですねー……」

 それが何だと言うのか。転んだものは転んだし、レポートを書かねばならないのは私である。研修医はそれ以上なにも言わず、出来ました、と書き上がったそれを私に寄越した。ありがとうございますと礼を言って私は大きなため息をついた。

 既に申し送りは終わり、日勤の時間が始まっている。検温、採血、体交、吸引、食介……あれほど積み上げられていた残務はすべて引き継がれ霧散したが、今私の前には膨大な書類仕事に加えレポート作成という業務が残されていた。

 ただでさえ、今日は仕事が終わらなそうだったのに。

 転んだと聞いて慌てて駆けつけると、ベッドからずり落ちて尻餅をつきばつが悪そうに笑っている相田さんがいた。相変わらず、彼の笑顔を見るとしょうがないな、という気になってしまう。大丈夫ですかと問うと、恥ずかしそうにうんと頷きごめんと謝ってきた。

『これくらいで良かったですよ』

 そう答えると、彼はもう一度頷き、ごめんと謝罪を繰り返した。

 ナースステーションの一番端の席に座る。張りつめていたものが切れてしまって、すぐには仕事を再開できない。ログインってどうやるんだっけ、などとぼんやり考えていると、後ろから控えめな声がかかった。

「あかりちゃん、手伝えることある?」

「えっ終わったんですか?」

 先輩と後輩が二人そろって頷いた。後輩はともかく、先輩、あんなに仕事があるって言ってたのに。裏切られた気持ちですぐには返せず、またひとつ大きなため息をついた。

「――大丈夫、です。あとは自分の仕事だけなので。先に帰ってください」

「ちゃんと残業つけるんだよ?」

「……はい」

「松村さん、朝の私いろいろ迷惑かけて……本当にすみませんでした」

「全然だよ! ナースコールたくさん出てくれたじゃん、助かったよ」

 後輩にはなんとか笑顔で返すと、彼女は深々と頭を下げた。良い子だなあ、と思う。このまま大きく育って辞めないで欲しいと切実に願う。少なくとも私が辞めるまではいて欲しい。

 それじゃあお先に、と二人が帰っていく。夜中に相田さんを見送ったように二人も見送ってから、私はパソコンに向き直り、顔を叩いて気合いを入れ直した。


 :


 もう昼だ。朝ごはんどころじゃない、昼ごはんの時間だ。

 今日どうしても終わらせなければならなかったところまで仕事を終え、へろへろになって一人暮らしの家に帰るともう既にそんな時間だった。

 眠い、疲れた、お腹すいた、喉かわいた、お風呂入りたい、眠い、眠い、眠い……お腹すいた!

 マズローの欲求五段階説を思い出すのはこういう時である。夜勤明けはいつも、生理的欲求が満たされていない。人の欲求とは突き詰めればこんなにもシンプルで根源的なのだ、と回らない頭で考える。

 本当は真っ先にごはんを食べて眠りたいけど、汗でどろどろの身体が気持ち悪いのでいつもシャワーを先に浴びる。熱いお湯に打たれると、少しだけ気力が戻ってくる気もした。

 髪を乾かす元気はないまま、冷蔵庫を漁った。――何もない。正確には、すぐに食べられるものが、何もない。

 お腹すいた、お腹すいたよう、とうわごとのように呟きながらキッチンワゴンを漁る。パスタや乾麺の後ろに、燦然と輝く白と赤のパッケージ……。

 カレーヌードル。しかも、ビッグサイズだ。

 相田さんは普通サイズだったな、と思いながら電気ケトルに水を入れる。パッケージと蓋を開けると、それだけで独特の香りが広がって、ごくりとつばを飲み込んだ。

「ああ、お腹すいたなあ」

 それしか言えない身体になってしまっているようだった。お湯を入れて待つ三分も待ち遠しかったが、ぼんやりをスマホを見ているといつの間にか五分近く経っていた。

 ぺりぺり、と蓋を剥がすとカレーの匂いが立ち上る。上にたまっているカレーの濃い部分をかき混ぜて、縮れ麺をずるずるすする。

「……おいし~……」

 心からの声が出た。もう止まらずに、ずるずるずるずる、時々お肉やジャガイモも。薄っぺらいおイモがまたたまらない。

 ビッグサイズをあっという間に食べきって、ふは、と息をつく。しばし放心。

 夜勤明けに食べるごはんは、いつもおいしい。あるいはそれは、空腹と疲労でごまかされたおいしさなのかもしれないが、こうやっておいしくごはんを食べるといつだって、よく働いたなあと自分を褒めてあげられる気がした。


 夜勤で大切なことは三つだけ、と新人の頃指導者だった先輩に教わったことを思い出す。働く上での心構え、夜勤ゆえの注意事項、命を預かり守ることなど――想像し、緊張していたが、続く言葉はのんきだった。

 一つは、冷え対策。二つ目は、寝ること。最後は、食べること。

 この仕事をしている以上、患者を看て命と治療に責任を持つのは当然のことである。それはそれとして、働いている中で、自分を守ることいたわることも必要だと、その教えは今も心の根っこに残っている。


 今日もよく働いた。仕事は終わらなかったけど、頑張った。お疲れ様、自分。

 カップをざっと水で流して、箸だけ洗う。洗い物もほとんど出ないなんて、カップ麺は本当に素晴らしい。

 歯磨きをして、遮光カーテンをきっちり閉めて、布団の中に潜り込む。

 おやすみなさい。

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