若い人の本

増田朋美

若い人の本

若い人の本

やや曇っていて、春というのに寒い日だった。もうすぐ雨でもくるのかなと思われるような、そんな日であった。もうボチボチ学校に行っている子供たちが帰って来るかなとおもわれる時刻になって、いよいよ、晩御飯の時間になった。

「さあ食べよう。」

杉ちゃんが、おかゆの入った皿をもって、水穂さんのいる四畳半へやってきた。水穂さんはやっぱり食べる気がしないらしく、布団に寝たままであった。

「ほら、食べるんだよ。食べないと、力が出ないよ。しっかり食べて、明日は元気になるんだぜ。」杉ちゃんは、おかゆをかき回して、ほら食べろ、と水穂さんの顔の前でおかゆのおさじを突き出した。水穂さんは仕方なさそうだったが、おかゆを食べてくれた。

「よしよし。じゃあ、もう一口やってくれ。ほら、食べろ。」

また水穂さんはおかゆを口にしてくれた。

「よし、いいぜ。もう一口。」

再度、おかゆを口もとに持っていくが、水穂さんは食べなかった。

「おい、食べないと、何も力が出なくなってしまうぜ。やっぱ、人間っていうのはさ、食べないと、体もおかしくなるし、考えもおかしくなるんだよ。」

杉ちゃんは、もう一度水穂さんにおかゆを食べさせようとしたが、結局水穂さんは、食べないのであった。いつも食事をさせると、ほかの利用者ではもういいですとか言って、おわりにしてしまうのが常であった。ほかの人では、私の料理を食べないなんて!なんて、激怒するかもしれない。そんな状況だった。水穂さんが、本当に食べたくないのか、其れとも意図的にそういっているのかは不詳である。

「あーあ。やれやれ。今日も食べないか。まあ食べないという事実は、絶対に崩せない。それに対してどうしたらいいのかを考えよう。」

そういうことを言うことができるのは、杉ちゃんだけである。

「よし、明日のご飯はどうしようかな。食欲を増強させるパクチーでも入れてみるか。」

杉ちゃんは、水穂さんの前で、明日の食事は何をしようか、考え始めた。本があるわけでもないし、映像資料があるわけでもない。ただ、杉ちゃんが一人で考えなければならないのである。

「一寸杉ちゃん、教えてよ。今日着付け教室行ってきたんだけど、叱られたのよ。」

その時、製鉄所を利用している、太田智子という女性が、四畳半にやってきた。太田さんは、ピンク色の鹿の子絞りで大きな花を描いた、小紋の着物を着ている。それに、名古屋帯を不格好なお太鼓で結んでおり、いかにも着付け初心者という感じの様子だった。

「ええ?どうしたのよ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「だからあ、今日この着物で着付け教室にいったら、叱られたんですよ。なんでも、理由をきいたら、格の低い着物を着付け教室で、着用するなんて人を馬鹿にするのかって。先生から。」

と、太田さんは答えた。

「格の低い着物ですか。絞りというと、手間がかかっているから、非常に高価なものだと思っていたんですけど、着付け教室では格が低いになってしまうんですか?」

と、水穂さんが、太田さんを弁明するように言った。

「まあ、其れもまた事実かもしれないよねえ。羽二重なら、キラキラして高級な生地として崇められるんだろうが、絞りというと、あんまり良いものとしない人も、たまにいるかな。」

と、杉ちゃんが言った。

「でも、着物の本には、そんなこと、何も書いてなかったわよ。其れなのに、なんで着付け教室に、持っている着物で良いからとさんざん言われて、その通りにしただけなのに怒られなきゃいけないんだろう?」

「まあ、書いてなくてもそうなっちゃうの。だから、本に書いてあることが、全部その通りだと思っちゃだめだよ。絞りの着物は、改まったところとか、お稽古事には向かないこともあるんだよ。それは、昔から言われていることだから、仕方ないこと。」

杉ちゃんは、太田さんに言った。

「まあ確かに、絞りは、かわいいし、何処かに出かけるときは、着たくなりますよね。」

水穂さんが彼女を援護するように言った。

「絞りが、格が低いなんて、教えてもらわない限り分からないと思いますよ。絞りの振袖だって今はあるし、ほかの着物より華やかに見えることも事実ですしね。」

「水穂さん、人の事慰めるより、自分の体の事を心配したらどうだ?」

杉ちゃんがぼそりとつぶやいた。でも、そうなってしまうのが水穂さんである。

「まあいずれにしても、着物の本をよんで幾ら知識を詰め込んだって、何の役にもたちはしないのさ。今の本はモデルをかわいらしく見せるだけくらいしか役に立たんよ。それはちゃんと覚えておきな。」

「そうなのね。まあ、そういう事だと、思っていくことにするわ。まあ、着物はリサイクルで安く買えるし、来週のお稽古には別の着物を用意して、使わないようにしよう。」

杉ちゃんにそういって、太田さんはそういうことを言った。彼女なりに、本に書かれていなくても分かってくれたのだと思う。時々、本に書いていないのに、どういうことだ、どういう根拠だとさらに話を難しくする人もいるので、そうなると説得するのに苦労する。

「まあ、確かに分からないところもあるかもしれないけれど、そういうものだと思わなければならない時もあるよ。」

「そうかもしれませんね。そこまでの、結論を出すまでが大変だと思いますけどね。もし、その過程が辛いようであれば、誰かに助けを求めるのは悪いことではないですよ。」

杉ちゃんと水穂さんはがそういうことを言っているので、太田さんはありがとうございますと言って、とりあえず四畳半を出ていった。

其れから数日後の事であった。杉ちゃんが製鉄所の窓や床などを掃除していたところ、食堂の前を通りかかった。中では、先日絞りの着物の事で、がっかりしていた太田さんがテーブルに座って、また着物の本を見て、何か考えている。

「何だ、また何か分からないことでもあったのか?」

杉ちゃんが太田さんにきくと、

「ええ、明日お茶会に行こうと思っているんですが、絞りの着物でいってもいいかどうか、本で調べているんです。」

と、彼女は答えた。

「お茶会?茶道の?」

と杉ちゃんがきくと、

「ええ、その通りです。表千家のお茶会です。」

と答えるので、

「そうなんだね。お前さんは、色無地か江戸小紋は持っているかな?お茶会には、それがベストだと思うがな。もし、大掛かりなお茶会だったら、中振袖か、訪問着辺りを着ても良いな。」

杉ちゃんがそう答えると、

「そうなんですか?そんなこと何処に書いてあったんでしょうか。この本によると、ほとんどの用事は、振袖で大丈夫だみたいなことが書いてあるんだけど。」

と、太田さんは答えた。

「はあ、何を言っているんだ。そんな馬鹿なことがあるか。お茶会には、振袖じゃなくて、色無地か、江戸小紋とか、そういう簡素なのを着るんだよ。」

杉ちゃんは変な顔をした。

「確かに、振袖のほうが、江戸小紋とかより順位は上だけど、なんでもそれで通っちゃうわけじゃない。成人式の時の振袖を着まわすんじゃなくて、もっと、いろんな用事にあわせて着物を変えなきゃいけないの。いいか、茶道では、器と喧嘩しないように、柄のない色無地か、あっても無地にちかい、江戸小紋を着るのが一般的なんだ。茶道の先生が、そうしろとか指示を出さなかったの?おかしな茶道教室だな。」

「そうなんだね。あたし何も知らなかった。茶道教室の先生も、持っている着物で十分だからっていうから、かわいい着物でよかったと思ってたわ。」

太田さんは一寸恥ずかしそうに言った。

「それにな、茶道のお茶会に絞りの着物は御法度だぞ。絞りは華美すぎて、着てはいけないことになっているからね。だから、こないだの着物では絶対にいけない。これは席主ばかりではなくて、ほかの参加者からも顰蹙を買うよ。」

「そうかあ、杉ちゃんごめん。色無地というのがどんな着物なのか教えてよ。江戸小紋も違いが分からないのよ。」

太田さんは申し訳なさそうに言った。

「いいんだよ。知らないものは教えてっていうのは悪いことじゃないよ。色無地ってのは、柄を入れないで、黒か白以外の一色で染めた着物の事。そして、江戸小紋は、武将の裃の柄を女性ように転写した、着物のこと。インターネットで調べてみな。検索すれば出てくるから。」

「じゃあ、色無地も江戸小紋も、振袖のような袖の長さではないのね?」

「まあ、二尺の奴もあるが、大概は、規格通りになっていると思うよ。」

杉ちゃんは、何も抵抗なく彼女の質問に答えた。こういう時にも、自分で調べろとか一切言わないし、表情ひとつ買えないで教えてくれるのが杉ちゃんである。

「そうなのね。分かったわ。じゃあ、これからリサイクルの通販サイトで調べてみる。着物の事なんて何も知らなかったから、杉ちゃんがいてくれて助かったわよ。よかったよかった。」

「一体、その読んでいた書物は、誰の著書なんだ。全く役に立ってないじゃないか。」

杉ちゃんに言われて、太田さんは本の表紙を見せた。表紙には、いわゆるアニメで出て来そうな顔をした美女が、振袖を着てでかでかと写っている。

「文字は読めないけど、なんか役に立たなそうだな。もっと、着物に対して真摯に向き合ってくれる本はなかったの?」

「ええ、ごめんなさい。書店に行ったとき、見たんだけど、ほかの本はみんなおばあさんが着るような着物ばかりだったのよ。モデルも、中年のおばさんばっかりだったし。私くらいの年齢の人をモデルにした本は、この本だけだったわ。」

つまり、若い人の着物というと、イコール振袖しかないという風潮が蔓延ってしまっているのだ。もしかしたら、こういう伝統文化を習う若い人がいるかもしれないという考えは、何処にもなくなってしまっているのだろう。

「まあ、若い人に着物を着てほしいからそういうことになっちまっているんだろうが、伝統文化を習う奴もいるし、料亭や旅館で働く奴もいるだろうし、芸妓みたいなことをする奴もいる。着物はまだ終わっていないんだ。全部が振袖で終わるわけじゃない。ちゃんと若い奴に、着物のことを教えてあげる本があって欲しいよね。」

「そうねえ。でも、杉ちゃんは書店にいかないから分からないと思うけど、本当に、着物の本を買いに行ったときそうだったけど、みんな中年のおばさんを大賞にしている本ばかりよ。あたしくらいの年齢、つまり、今24歳だけど、そのくらいの年齢の人が、読んでみたいなって思う着物の本は何もないわ。たとえばさ、着物の事を、漫画でわかりやすく説明してくれるとか、そういうことをしてくれる本は何処にもなかったわよ。」

確かに太田さんのいう通りなのだ。着物のルールを漫画で面白く説明したり、できるだけ着物の専門用語を使わないで、本当に基礎的なところから説明してくれるような本は何処にもないのが実情である。若い人が着物の知識をえたいと思ったら、呉服屋さんで教えてもらうか、詳しい人に聞くかインターネットで教えてもらうしかないのである。

「分かったよ。じゃあ、今日の午後にでも、カールさんところに行って、色無地を探してみようか。まあ、スマートフォンで写真見たとしても、よくわからないよねえ。」

と、杉ちゃんがいうと、太田さんはどうもありがとうといった。

「でも私ひとりのために、なんか時間を割いて貰うのも申しわけないわ。」

という太田さん。最近の若い人は、そう思ってしまうことが多いらしい。自分の望みが叶ってしまうと、かえって、悪いことをした人のように思えてしまうのだ。

「だからあ、そんなこと気にしなくていいんだよ。少なくとも、お前さんが茶会に振袖を着たり、着付け教室に不適切な姿をして行って、お咎めを受けるより良いと思うぜ。」

と、杉ちゃんは彼女に言った。

「そうねえ。じゃあ、杉ちゃんのお言葉に甘えようかな。あたしも、着物の事は何も知らないのも確かだし。」

「そうそう。それでいいの。知らないなら知らないって、ちゃんということも必要だぜ。それは仕方ない事というより、知るための第一歩だからな。日本ではなかなか答えを積極的に求めるやつは嫌われる傾向があるが、そういうことを嫌うやつはろくな者じゃないよ。」

杉ちゃんと太田さんがそういうことを話していると、四畳半から又せき込んでいる声が聞こえてきた。あーあ、またかよ。と杉ちゃんと太田さんは顔を見合わせて、急いで四畳半に行った。杉ちゃんが急いで近くにあったケースからチリ紙を取って、水穂さんの口に当てようとしたが、水穂さんはその前に内容物を吐き出して、畳をまた汚した。

「あーあ、またやる。もうどうしたらいいのかな。ご飯を食べないでいるから、そういう事になるんだ。ほんと、どうしたらいいんだろうか。」

と、杉ちゃんが、デカい声でそういうと、別の利用者である石野さんという女性が大丈夫ですかと言って、四畳半に入ってきた。

「ちょっと待ってください。これで何とかなるかも。」

石野さんは、持ってきた雑巾で畳にしみ込んだ内容物を拭いた。全部を取り去ることはできなかったが、すくなくとも、生臭いにおいをとることはできた。普通に杉ちゃんが雑巾でふき取るよりも、汚れが取れる雑巾だったんだろう。そして彼女は、水穂さんに薬を飲ませて、せき込むのをとめさせてくれた。

「どうもありがとうございます。おかげで助かったよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「いいえ大丈夫ですよ。仕事でいつもやっていた事ですから気にしないでください。」

と、石野さんは答えた。そういえば彼女は、今は退職してしまったが、確かそうなる前は介護の仕事をしていたような気がする。

「仕事って、そうか。お前さんは介護職だったんだな。其れだったら、今みたいなことになっても冷静で居られるよな。」

と、杉ちゃんはいった。

「其れなのに、なんでやめちゃったの?今のことだって、ちゃんと処理してくれたじゃないの。あたしたちだったら、絶対できなかったわ。」

と、太田さんが彼女に言った。

「ええ、確かに、働かせては貰えたんだけど。」

石野さんは一寸嫌そうに言った。

「その施設が、介護の質を向上させるとか何とかで、しょっちゅう勉強ばかりさせられたの。本を読んだり、感想文を書かされたり。そんな学校みたいな施設は、嫌だったわ。あたしが働きたかった場所とは違ってきちゃった。だからやめたのよ。」

「まあ確かに、幾ら書物を読んでも、実際の現場では役に立たないことが多いよね。理想では、こう有るべきってことが、現実では正反対だったりする。経営者側では、理想的な介護ということで、勉強させたんだうけど、知識を詰め込んでも何の役にも立たないよな。」

杉ちゃんは石野さんの話に直ぐ乗ったが、太田さんはまだ疑問が残っているようで、

「でも、さっきの水穂さんのことだって、勉強して覚えたんじゃないの?」

と、彼女に聞いた。

「とんでもない。勉強どころじゃないわよ。確かに、このメーカーの雑巾を使えば、吐瀉物の吸い込みは早いっていうのは、知ってたけど、其れだって、机の上で覚えたわけではないわ。それは皆、実際に、人に接してみて初めてわかった。それにね、何回も講習会に行ったけど、実際の現場で役に立てたことなんて、何にもないわよ。みんな、実際に体験してみないと、介護の仕事は身につかない。それなのに、施設のほうはもっと勉強して、もっといい資格を取れってうるさいから。そんな資格があったって、人を扱う方法をちゃんとしってなくちゃ仕事はできないわ。だから、あたしは、そこで八方ふさがりになって、施設をやめたわけ。」

石野さんは、一寸ため息をついた。確かにそうかもしれなかった。英検なんかもそうだけど、資格を取るのはいいものの、実際の現場では役に立たず、そうではなくて、行動力とか、そっちの方が役に立つことが多い。

「そうかあ。なんでも書物に書かれていることは、あんまり役に立つことじゃないねえ。」

と、杉ちゃんが二人の話をまとめるように言った。

「石野さんの、介抱だって、書物で勉強して身についたものじゃない。太田さんの、着物の事だって書物には掲載されてなかったよな。まあ、書物なんてのは、売れるようにいろんなところで手がくわえられているからな。なかなか著者の思いをストレートというわけにはいかんだろうしな。まあ、いずれにしても、経験に勝るものはなし。そういうことだろうよ。」

「そうねえ。あたしもそう思うことにするわ。机の上で考えるより行動を起すようにしよう。それをすることによって、自分を責めないようにすることも重要ね。」

太田さんは、何か分かったようにそういった。

「着物のことだって、本を読んだだけでは身につかないわ。」

「私も、多分そうするな。机で本を開いて勉強するだけなんて、何も役にも立たないもの。其れよりも、現場で覚えたことの方が今みたいにずっと役に立つのよ。そういうことがちゃんと分かっている施設で働いて、ちゃんと人の役に立ちたいという、あたしの本来の目標を実現させたい。」

石野さんもそういっていた。二人は、ある種の結論が見えてきてくれたようだ。彼女たちに共通することは、まだ、20代であり、そのような結論を出しても何も違和感の無いという年齢であるということだった。もしこれが、おばあさんだったら、絶対変な人だと言われるに違いない。それは、その年齢だから、そう言えるのである。

「まあ、いずれにしても、よかったね。お前さんたちは、一歩前進したぜ。本にとらわれずに、自分の得た知識で、しっかりお前さんたちの人生を全うしてくれよな。」

杉ちゃんはにこやかに笑った。

「いずれにしても、書物は、確かに知識はくれるけどさ、お前さんたちを本当に成長させてくれるかっていうと、一寸疑わしいことがあるよな。」

二人の若い女性の顔を見て、杉ちゃんはまた言った。

そとは雨が止んで、お日様が顔を出し始めた頃だった。

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若い人の本 増田朋美 @masubuchi4996

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