月夜の下で響くのは、狼の鳴き声
あきかん
第1話
目を見張るほど美しい者は人々の情緒を狂わせたり判断を惑わせ愛だの恋だのと浮かれて陽気にさせますが、これは錯覚です。なぜ錯覚かと申しますと、美しい者の話題というのは、誰々があいつと寝たとか誰々が抜け駆けして告白したのだといった、自分とは関係のない立場の話であって、実際に自分が美しい者と関係を持った場合は陽気な気分とは決して言えない心持ちになるでしょう。美しい者に纏まりつく尾ひれの付いた噂話が耳に入り通り過ぎる人々が目を奪われる訳ですから、隣にいる人間にとっては気が気でない状態になるものです。そこで懐く感情というのは陽気なものとは到底言えない暗くドロドロとした心情です。
先日、行きつけのバーでアドンコを飲んでいたときの事です。ついに壊れてしまった潔癖症の彼女の事を思いながら、少し苦いその酒のグラスを傾けては余韻に浸っていました。彼女のシミ1つない透き通る肌。それを汗ばんだ掌でべたべたと触れると、猿轡をして縛られた彼女は冷や汗をかき泣いて呻き声を上げたものです。その心地よい歌声を聞きながら彼女の喉を締め上げ呼吸を乱させるなどといった事を飽きもせず繰り返したいたものですから、彼女は早々に壊れてしまいました。
その時は彼女の余韻で満たされていましたが、経験上それは直ぐにつきるものだともわかっていました。そこでバーのマスターに「良い人はいないかい」と尋ねたところ、「丁度良い新人が入ってきたよ」との答えが帰ってきました。
「忍羽、ちょっとこっちへ顔を見せてくれ」
マスターが奥の厨房に声をかけると忍羽と言われた新人が姿を見せました。彼はとても美しい男でした。切れ長の目の睫毛は長く白磁のような肌で長髪を後ろでまとめてゴムで結わいた彼に見とれてしまい、「いくらだ」と思わず口に出て、マスターは指を一本立てて「これで良いよ」と述べました。本当にそれで良いのか、と思いましたけれども、忍羽がマスターに何か確認していましたが、「彼なら大丈夫だよ」と答えたのが聴こえました。
私はというと、下衆な話、彼との情事を想像してしまい早く連れて帰りたいとばかり考えておりました。
「忍羽くんはどうしてこの店にきたのかな」
「彼はとある知り合いに頼まれてね。ちょっと問題を起こして引き取り先がないと言うので、なら私がもらいますよと話をつけたのだけれども、会ってみると見た通り美しい男でね。これは問題も起きるというものだよ」
珍しくマスターが情熱的に語りました。マスターに気に入られた子は、いつも問題児ばかりでしたので、きっと忍羽もそうに違いないと確信したのです。
その時の私はどんなプレーをしようかと考えを巡らせていました。縛りあげるのがよいのだろうか、切り裂くのがよいのだろうか、とアドンコを舐めながら夢想していると閉店の時間が近付いていました。
「アドンコのボトルを貰えるかな」
会計の時にマスターに告げてアドンコのボトルを受け取り、それをぶら下げて店を出ると、忍羽は出口で待っていました。
「今夜は月がきれいだね」
「そうですね」
ぶっきらぼうに答えた忍羽の横顔は、朧月の光に照らされて淡く輝いて見えました。通りを抜ける風はとても気持ち良く柄にもなく浮かれながら、美しい人は卑怯だな、この顔を歪ませたいな、と妄想に耽っていると家にたどり着いていました。
忍羽を家に上げてリビングへと案内しグラスを取り出して並べアドンコを注ぎました。
「まずは酒でも一杯どう」
「頂きます」
そういって、忍羽はグラスに唇をつけました。グラスを持つ細くて長い彼の指は、グラスに付いた水の滴を吸いとって生命を帯びていくかのようでした。さぁ、もっと飲んでと進めていくと、彼の顔は徐々に頬を桜色に染めていき、それを眺めながら私もアドンコを口にしました。
「お酒は苦手なのかな」
「そういうわけでは…」
と、遠慮がちに答えた忍羽の伏し目をした横顔に見とれてしまい思わず唇を重ねてしまいました。
「男は嫌いなのかな」
と、今さらながら聞くも忍羽の潤んだ瞳から情欲の炎が灯されていくのが見えました。そして、再び彼と唇を重ねました。今度は彼の口の中に舌を入れ、それを彼は控えめに受け入れてくれました。私の舌が彼の舌をなぞると、彼はくすぐったそうに身悶えながらも私の舌に自分の舌を絡めようと動かして、そのたどたどしい仕草は私の加虐心をえらく刺激しました。それから唇を離して彼を見つめていた時に、私は忍羽に押し倒されたのです。
椅子は倒れ、テーブルの上のグラスに入ったアドンコがこぼれたのか、ツーと一本の細い糸となって落ちてきて床に広がっていくのを横目で見ながら、本能的に左腕で喉をかばいました。忍羽が噛みついてきたのです。忍羽の歯は衣服を破り、皮膚を裂き、肉に食い込んできました。ジクジクと痛みが広がって骨まで到達しているのではないかと思ったものです。忍羽は食いちぎろうと頭を引こうとしたのを感じ、私は右手で彼の頭を抑え、そのまま首を捻って体勢を入れ替えました。左腕からは血があふれワイシャツを赤く染めて、私の血が彼の牙をたどって彼の口に入っていく光景はとてもいとおしく思いました。ワイシャツの朱色の染みが広がっていくのを無視して、私は左腕を彼の口の奥へと押し込みました。食いつかれた左腕からズキズキと痛みが襲いかかってくるのを感じながら、嗚呼いい。期待以上の素晴らしさだと考えながら彼の息を止めようとしたのです。
忍羽は息苦しくなったのか左腕から口を離して私を掴みました。この体勢で掴まれても怖くありません。私の下でもがく彼を可愛いな、面白いな、と眺めていましたら、片腕で放り投げられました。普通の人間は大人1人を片腕で、しかもマウントポジションから投げられる訳がありません。はした金で買った彼は化け物でした。そうとしか説明ができません。私は食器棚にぶつかり頭から血を流しました。ガラスや食器が衝撃で割れて床に散らばりました。忍羽の結わいてあった髪は振りほどかれて、長く艶やかなその髪は彼の呼吸に合わせてわずかに揺れて、情欲とも怒りともとれない感情を宿した目で私を睨んでいたのです。
私はその姿が何を意味しているのか理解しました。彼は私を待っているだと。だから、私は立ち上がって、彼が襲ってきたのを抱き止めました。
「お前に食われるのなら、いいよ」
と、彼に囁きながら彼に刺したガラス片をぐりぐりと押し込んで、もう片方の手で彼の美しくて長い髪をすいていました。ガラス片が押し込まれる度に彼は叫びました。その声に導かれてグサグサと彼の腹を刺し続けました。すると彼は私を離そうとしましたが、そうはさせないとより強く私は彼に抱きつきました。そうすると彼の顔が私の顔の横にきて、彼の呻き声が耳元でよく聞こえました。そして、私と彼の混じりあった血の匂いに誘われるかのように、私は意識を失いました。
目が覚めるとベットに寝かされていました。彼につけられた噛み跡は深く複数に及んでおり、傷痕が完全に消えることはなさそうなほど深いものでした。気付けにアドンコを一杯のみ身体に付いた彼の噛み跡を優しく撫でました。次はもっと上手くやろう、次はもっと愛し合おうと撫でたこの手に誓います。彼が他の誰かを食べる前にと決意します。どうしてもそれだけは許せないのです。彼が私以外の誰かに歯を突き立てる姿を想像するだけで、激しい嫉妬に襲われるのです。
月夜の下で響くのは、狼の鳴き声 あきかん @Gomibako
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