第3話 後編
晧月の、そのいかにも意地の悪そうな顔に、なにをさせるのだろうかと身構える。
なんでもやるから出してほしいと言いたいところだが、人殺しだけは嫌だ。それを断って冷宮に入れられたのに、出るために人を殺すのでは本末転倒ではないか。
美鈴は警戒しながら晧月の言葉を待った。
「なに、それほど難しいことではない。冷宮から出て徳妃の機嫌を取り、再び毒殺を頼まれるほど信頼されろ。そして首尾よくその毒を入手したら、こちらに渡してくれればいい。簡単だろう?」
全然簡単じゃありませんから!
そう言いたくなるのを、美鈴はぐっとこらえた。
これは冷宮を出るための好機だ。
いくら晧月の物言いが気に入らないからといって、その好機をふいにするわけにはいかない。
「承知しました。その代わり、冷宮だけでなく、後宮からも出すとお約束して頂けますか?」
「……そんなに
さっきも説明したはずなのに、まだ信じないのだろうかと思いながら、美鈴は無言のまま頷く。
晧月もまたそんな美鈴を静かに見下ろす。
静かな宮に、笛の音のような鷹の鳴き声が響き渡る。
美鈴が空を見上げると、青空の向こうで大きな鷹が力強く飛んでいるのが見えた。後宮の建物の間から見える空は、かつて美鈴が記憶していたものよりも狭い。
四角く切り取られた空から鷹が見えなくなるまで、美鈴はずっとその姿を追った。
「分かった。首尾よく仕事を終えたならば、ここから出してやろう。李晧月の名にかけて」
そう言って晧月は右手の拳を心臓に当てた。そしてその拳を左手で包む。
もし誓いを破ったならば、自分の手で心臓を止めると約束する仕草だ。
皇族としての名をかけてまで約束してくれるとは思わなかったが、美鈴は深く感謝して、晧月に頭を下げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それからの晧月の行動は早かった。
美鈴の罪は皇帝の子を孕んだと偽ったことだが、皇帝が美鈴の元へ通ったことなど一度もない。
晧月が皇帝本人に確認をしてすぐに美鈴の冤罪が証明され、二日後には冷宮から出ることができた。
冷宮から出た美鈴は、すぐに徳妃の元へ向かった。そして徳妃のおかげで冷宮から出られたのだと、大げさに感謝してみせた。
なにもした覚えのない徳妃であったが、美鈴が勘違いしているのならばそれを利用しない手はない。
徳妃はまるで侍女のように美鈴を扱ったが、冷宮から救い出してもらったことに感謝する美鈴は、嫌な顔一つせず徳妃に忠誠を誓っている。
……と、いうことになっている。
(はー。やれやれ。いつまでこの我がままお姫様に付き合わなくちゃいけないのかなぁ。早く毒薬をくれっていうのもおかしいけど、そろそろ解放されたい……)
以前美鈴が毒殺を指示されたのには理由がある。
美鈴の実家が扱う、爪を染める『
爪に塗ってすぐに死亡するような毒は存在しない。
だからこそ妃嬪たちは安心して美鈴に爪紅を頼むのだ。
徳妃からも爪に毒を塗るのではなく、毒入りの菓子を渡すように命じられていた。
美鈴が冷宮から出て一か月ほど経つと、ついに徳妃から毒薬を渡された。
(やった……! でも、こんな物騒なものは早く渡さないと)
才人である美鈴は独立した宮を持っていない。
後宮は皇城の北東の四分の一を占める。
南に皇帝の寝所である本殿があり、そこから北に四夫人、六嬪の宮がある。四夫人と六嬪の間の道を東に行くと、北東殿と呼ばれる、長屋のように部屋の連なる宮があり、そこに身分の低い貴人・美人・才人が暮らしている。
美鈴の部屋もその一角にあった。
おそらく晧月が手を回したのだろう。冷宮から戻ってきた美鈴にあてがわれたのは、以前住んでいた部屋ではなく一番北寄りの、隣人のいない部屋だった。
毎夜、そこへ晧月が訪ねてきた。
もちろん艶めいた関係ではない。徳妃がどうしているか、それを聞きに来ているのだ。
「よくやった、美鈴」
ついに毒薬を手に入れた美鈴は、瓶の中に入ったそれを渡す。
瓶の中には青い金平糖が入っていた。普通のものよりも少し青みが強いが、じっくり観察しないと分からない。
「これが毒か……」
晧月は瓶を掲げ持って光に当てた。こうして見ても、普通の金平糖と変わらない。
砂糖から作られる金平糖はとても高価だ。食べられるのは後宮の妃嬪でも身分の高いものに限られる。
茶菓子として出されたものにこの毒入りの金平糖を混ぜても、青い色を食べなければ良いのだから問題はない。
一粒だけの甘い毒薬。
それが徳妃から渡された毒であった。
「実家から届いた新しい爪紅を披露すれば、みんなの意識はそこに向きます。その間に、これを混ぜろと言われました」
金平糖は饅頭などと違って腐らないので、後宮で最も人気のある菓子だ。
色とりどりの可愛らしさに加えて、それを入れる器に工夫を凝らしている。
贅をこらした作りの菓子器は、妃嬪たちの見栄の張り合いの道具の一つになっているのだ。
「よく考えたものだ。毒を盛られたと気づいても、既に食べられた後で証拠が残らない。それに金平糖は腐るものではないから、後日食べることもあるだろう。それまで待てばいいわけだ」
晧月は金平糖の入った瓶が割れないように布で包むと、そっと懐にしまった。
「まだこの毒入りの金平糖は残っているだろうか」
金平糖から毒が発見されて、さらにそれと同じものが徳妃の住む宮から発見されれば、徳妃の罪は明らかになる。
美鈴は徳妃との会話の中で、他にも毒を隠し持っているのを確証していた。
「茶箪笥の隠し引き出しにあると思います。開け方は分かりませんけど……」
さすがにそこまでの信頼はされてない。
だが隠し引き出しがあると匂わせていたので、探せば見つかるだろう。
「ありがとう、感謝する」
冷徹な印象の強い晧月の初めて見る微笑みに、美鈴は思わず目を見張った。
(美形の微笑みって心臓に悪いわ……)
後宮衛士として去勢されていなければ、皇族としてどんな美姫でも思うがままだっただろう。
現皇帝が即位する時の血なまぐさい権力闘争を思えば、晧月が身の安全のために、男であることを辞めたのは分かる。
だがこれほどの美形が血を残せないのは、少々……いや、かなり残念だ。
(その分皇帝陛下がお子を……って。よく考えたらまだ皇子も公主もいらっしゃらないのよね)
そう考えたら、今の皇族はとても数が少ない。
だがまだ皇帝は若いので、これからたくさん子供を作れるだろう。
「お前は……やはり後宮を出るつもりか?」
「もちろん。最初からそのお約束でしたよね」
今さら約束を
口約束とはいえ、約束は約束だ。名前に誓った約束なのだから、きっちり守ってもらいたい。
そんな意気込みで見上げた美鈴は、晧月がじっと自分を見つめているのに気がついた。
一カ月もの間毎晩顔を合わせているが、こんなにも長く見つめられるのは初めてだ。
美鈴も、もうこうして会うことがないかもしれないから見納めとばかりに、その視線を正面から受け止める。
(あれ、よく見ると晧月さまの目の色って、黒じゃなくて深い藍色なのね。異国の地が混ざっているからかな……?)
冷宮を出てから、美鈴は古参の宦官たちにそれとなくかつての北三宮で暮らしていた姫君たちの話を聞いた。
北の宮にいたのは北方の国の姫たちで、金色の髪に青い瞳を持っていたという。
三人とも、それは美しい姫君だったそうだ。
きっと晧月の瞳の色は、その姫君から受け継いだのだろう。
「もちろん約束は守る。だが惜しいなと思った」
「惜しい? なにがですか」
「短い付き合いではあるが、その人となりを知って、お前ならば良い皇后になれそうだと思ったのだ」
「はあ? なに寝言を言ってるんですか」
それなりに美しいという自負はあるが、絶世の美女とまではいかない。それに商家の出で身分も高くない。
そんな美鈴が皇后になったとして、それこそ暗殺されてしまうのが目に見えているではないか。
呆れたように言う美鈴の頬に、晧月の長い指が触れる。
「いや。冗談ではなく……。この泥のような後宮で、お前のような真っ直ぐな性格は一輪の蓮の花のような清廉さをもたらすだろう。それでいてただ守られるだけの花ではない。美鈴、お前が皇后の座を望むなら俺は――」
美鈴はなぜかそれ以上の言葉を聞きたくなくて手で制した。
どうしてだか、そこから先は聞きたくなかったのだ。
「私は、皇帝の妃などごめんです」
(どんな人か知らないのに、いくら皇帝とはいえ、結婚なんかしたくないわ。……晧月さまだったら、ちょっと考えなくもないけど……)
皇帝の寵愛がなくなった嬪を宦官や後宮衛士に
だが美鈴を皇帝の妃にと考えている晧月は、美鈴のことなど何とも思っていないのだろう。
美鈴は、芽生えかけている淡い思いを微笑みの裏に隠した。
晧月は何か言いたげに口を開こうとしたが結局は何も言わず、美鈴が渡した毒を忍ばせた懐を押さえながら部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから後宮は大いに荒れた。
高官である徳妃の父が亡き皇后の暗殺を企てた大罪人として捕縛され、一族はすべて死罪となったのだ。
当然徳妃も例外ではなく、一族の他のものたちと共に絞首刑となった。
陽文帝の亡き皇后は、晧月の母と同じ北の国の姫で、北三宮に住む妃嬪だった。
陽文帝の祖父の妃として幼いころに後宮に入ったが、すぐに皇帝が亡くなったため、そのまま陽文帝の父の妃として後宮に残った。
寵愛の深かった晧月の母は殉死させられたが、他の妃は下賜金をもらって生家に戻るか、生母以外はそのまま後宮に残り新しい皇帝の妃となるというしきたりだったからだ。
だが即位した新皇帝は父の妃を嫌い、寄りつかなかった。
代わりになにくれとなく面倒を見たのが陽文帝であった。そこで皇后を見初め、父が亡くなって後宮を引き継ぐと、すぐに皇后として迎えた。
皇后はすぐに子を孕んだが、残念ながらお腹の子供は育たなかった。
次の子も、その次の子も、出産までに流れてしまう。
さすがにおかしいと思った陽文帝が調べさせると、ただ一人寵愛される皇后を妬んだ他の妃が子の流れる薬を皇后に飲ませていたのだと分かった。
陽文帝は妃だけではなくその生家にも厳しい処分を下し、やっと落ち着いたころに皇后が懐妊した。
そして細心の注意を払って出産に至ったのだが、残念ながら死産で、皇后もまたその時に亡くなってしまったのだ。
他の妃たちの陰謀を疑ったが、証拠がない。
それでも怪しいものたちは後宮から追放したが、四夫人と六嬪に穴を開けるわけにはいかない。
そうして集められたうちの一人が、徳妃・孫英淑であった。
もちろん英淑は皇后が亡くなった時に後宮にはいなかったのだから、直接その死に関わったわけではない。
だが追放された前の徳妃が同じ孫一族の出身だった。
彼女たちは、同じ毒を使って、後宮で邪魔になる妃を排除していたのだ。
そうしてすべてが明らかになった後、なんと突然、陽文帝は亡き皇后を偲ぶため出家してしまった。
後を継いだのは、今まで聞いたこともない親王の一人だった。
即位した皇帝は、景武帝と呼ばれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
侍女たちによって入念に化粧を施された美鈴は、心の中で晧月を呪っていた。
(なによ、なによ、なによ! 私をこの後宮から出してくれるっていう約束はどうなったわけ!?)
寝台に乱暴に腰掛ける美鈴は、枕を手に取り、それを壁に投げつける。
(それになんで皇帝のお渡りがあるのよ! 私なんてその辺の嬪に過ぎないのに!)
名前に誓ったはずなのに、これはどういうことだろう。
それに毒を渡してから、晧月の訪れがぱったりと消えた。
(騙されたんだわ。裏切もの!)
赤く染まった指先が、もう一つの枕をつかむ。
それを思いっきり投げると、ちょうど部屋に入ってきた男に当たった。
景武帝、その人である。
さすがに不敬だが、美鈴はもうどうでも良かった。
もしこれで冷宮に入れられることになっても構わない。
前に冷宮に入れられた時にそこそこ暮らしやすくなるように整えていたし、問題は食事だが、もうすぐ秋になる頃だから栗やヤマイモが収穫できるだろう。
いざとなったらまた隣の宮に忍びこめばいい。
もし晧月と会えれば、それはそれで思いっきり文句を言ってやれる。
そう思いながら、顔に当たった枕を取る皇帝の顔を見る。
「えっ」
するとそこには、見慣れた晧月の顔があった。
「晧月さま……? どうして……?」
ここに晧月がいるのはあり得ない。
なぜなら彼は後宮衛士で、子供を作れない体のはずだ。
「騙したわけではないのだが……。話を聞いてくれるか、美鈴?」
この国で最も権力を持つ皇帝であるはずなのに、叱られた犬のように肩を落とす晧月——景武帝を見て、美鈴はとりあえず話だけは聞いてあげようと態度を軟化させた。
「そもそもは、どうしても陽文帝が皇后の死の真相を突き止めたいと願ったことから始まる」
晧月は陽文帝の叔父にあたるが、亡き皇后とも同じ北の王族の血を引くもの同士として親しかった。
そこで陽文帝は皇后の死の原因を追究しようと、晧月に後宮内での調査を頼んだのだ。
後宮衛士長官の地位には就いたが、調査のための一時的なものとあって去勢はしていない。
真相を究明したら出家しようと思っていた陽文帝は、もしそれで晧月が後宮の妃に手を出したとしても、いずれは晧月を後宮の主にしようと考えていたので構わなかった。
そうして晧月は亡き母が住んでいた冷宮の隣を拠点として、後宮内を探っていたのだ。
「約束通り、お前を後宮から出すのが筋だろう。だがこれほどに荒れた後宮を立て直すのには、お前が必要なのだ。頼む、美鈴。俺の皇后になってはくれないだろうか」
晧月の大きな手が、美鈴の手入れされた滑らかな手を包む。
衣擦れの音と共に、沈香がかすかに香る。
美鈴は瞠目すると、はあっと大きくため息をついた。
「晧月さま……。いえ、今は景武帝でいらっしゃいましたね。それは口説き文句としては最低でございます」
手を振り払った美鈴がきっぱり言うと、景武帝は驚いたように固まった。
冷徹に見える晧月だが、わずかな交流の時でも、ただ人との付き合いが苦手なだけなのだと分かった。
こんなことで皇帝としてやっていけるのだろうかと少し心配になったが……。
できなければ、周りにいるものが助ければ良いのだ。
「私のことを好いていらっしゃるなら、そう言っていただかないと分かりません」
美鈴は、さっき包まれていた大きな手を、小さな手で包み返す。
もしかしたら、美鈴を皇后にするのはただの政略的なものなのかもしれない。
でも、それでも……。
美鈴ははっきりと自分の思いを自覚した。
だから、ちゃんと晧月に伝えようと思う。
「私は景武帝に仕える気はありませんが、晧月さまをお慕いしております。ですので、ずっとそばにいて欲しいと言われたら、あなたが望む限り、そばにいます」
「ただの晧月としてお前を望めなくてすまない。だが晧月としても、景武帝としても、お前が必要だ。どうか、俺の隣に立ってくれないか」
深い藍色の目が、真摯に美鈴を見つめる。
美鈴もじっとその目を見返した。
「陛下、私はビクロイを目指します」
「ビクロイ? 初めて聞く言葉だ」
美鈴の突然の言葉に、皇后になってくれるのではないのだろうかと、思わず晧月は聞き返した。
「行商している叔父から聞いたのですが、異国では『最後の一人になるまで勝ち残る』ことをビクロイと言うそうです」
陽文帝の愛した皇后のように皇帝のただ一人の妃となるには、美鈴の身分は低すぎる。
たとえそうなったとしても、暗殺の危険は常にあるだろう。
それでも共に戦おうと言ってくれるこの手があるならば、きっとどんな苦難も乗り越えられる。
「……がんばってくれ。それで、返事は?」
「もちろん、はい、です」
美鈴は、覚悟を決めたように鮮やかに笑んだ。
華陵国は景武帝の頃に最も栄えたと伝えられている。
景武帝は皇后を大切にし、その間に九人の子供を作った。
後宮には他の妃もいたのだが、その間に子供がいたのかどうか、後世には伝わっていない。
後宮の冷遇される妃でしたが、こうなったらビクロイを目指します 彩戸ゆめ @ayayume
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