第2話 中編

 美鈴の喉に触れるのは、つばがない匕首ひしゅと呼ばれる暗殺用の短剣だ。

 ぴたりと喉に当てられていて、少しでも動けば命はない。


 両腕はいつの間にかまとめられて、後ろで男の手につかまれている。

 絶体絶命の危機だ。


 美鈴は息をするのも止めて、背後の気配を窺った。頭の中では目まぐるしく今の状況を把握しようと考えている。


(曲者……? でも後宮への出入りは厳しく制限されているはず)


 一番可能性が高いのは、美鈴を冷宮に連れてきた後宮衛士だ。少年の頃に去勢されていてどこか女性的な宦官とは違い、成人してから去勢する後宮衛士には筋骨たくましいものが多い。


 だがそれほど数は多くないはずだ。


 それに後宮衛士であれば、美鈴が冷宮に入れられたことを知っているに違いない。

 ならばこの男は後宮衛士ではない。


(後宮衛士じゃないとすれば、皇族……? でも成人した皇族は後宮から出される決まりだけど、この男は明らかに成人している)


 そこで美鈴は男に気づかれないように大きく息を吸った。


(衣に焚き染めた香は沈香……しかも百年物の高級品。……ということは、かなり身分が高いはず。一体、そんな人がどうして後宮ここにいるの!?)


 沈香とは、高さのあるジンチョウゲ科の樹脂が固まって、独特の香りを放つようになったもので、普通の木よりも重く水に沈むためについた名前だ。


 成木になるまで二十年、沈香ができるまでに五十年、そして高品質の沈香になるには百年以上かかるとも言われており、香木としては最高級品となる。


 美鈴は繁盛している裕福な商家の娘として育ち、後宮で四夫人の一人として君臨する徳妃に仕えていたので、当然沈香を嗅いだことはある。


 だがその美鈴ですら嗅いだことのない、芳醇でかぐわしい香り。


 これほどの沈香であれば、金を積むだけでは手に入れられない。相応の「格」が必要となる。

 それをまとえるとなれば、相当身分が高いはずだ。


 男の正体が分からず、美鈴は返答を迷った。


「娘、答えられぬか?」


 皮膚が切れる寸前のところまで刃が押し込まれる。

 美鈴はカラカラに乾いた口を開いた。


「私、は……ヤン美鈴メイリンです」


「楊美鈴……どこかで聞いた名前だが……。そうか、今日、冷宮に入れられた才人か。しかし、どうやってここに入った? 冷宮は隣の宮だろう」


「壁が崩れていたので……」


 通り抜けてきた穴を知らせようにも、身動き一つできない。


 美鈴は視線だけ壁を示した。


 男は美鈴の手を紐のようなもので縛る。


 風に乗って、男のたまのような黒髪が舞った。かすかに香りが強くなり、そして離れる。


 こちらの宮には竹が植えられているのか、サヤサヤと葉擦れの音が聞こえる。

 男は草を踏みしめ、壁へと向かった。


 とりあえずすぐに殺されることはないらしいと思った美鈴は、ほっと息を吐いた。

 だがまだ油断はできない。


 やがて戻ってきた男の姿を見て、美鈴は思わず声を上げそうになった。


 陽文帝その人だったからである。


「皇帝陛下……」


 美鈴は慌てて叩頭こうとうしようとしたが、後ろ手を縛られたままなのでバランスを崩してしまった。


「あ……!」


 そのまま地面に顔を叩きつけそうになる。


 踏みしめられた草に紛れて折れた細竹が見えた。もしそれが刺されば、顔に刺さって醜い傷が残るだろう。


 そう思っても、どうすることもできない。


 絶望に目をつぶった美鈴だが、がっしりとした腕が傾いた美鈴の体を支えた。

 遠ざかっていた沈香が、濃厚な香りを伝える。


 美鈴は身を固くして、この広大な華陵国を治める皇帝の腕の中に納まった。


 初めて触れる異性に、美鈴の胸が高鳴った。


(ダメダメ、なにをときめいているの、私。手つかずのままお役御免で後宮を辞すんだから、こんなことでドキドキしちゃダメじゃない。……って、あれ? 皇帝陛下なら、私にお手がついてないのをご存じよね? だったら冷宮に入れられたのは冤罪だって言えば、ここから出られるんじゃないかしら)


「急に動くと危ないだろう。顔に傷でもついたらどうする」

「も、もうしわけ——」


「謝らずともいい。それに俺は皇帝ではないぞ」

「えっ」


 だが後宮に入れる成人男性は皇帝ただ一人だ。それ以外は去勢された後宮衛士しかいないはずだ。

 と、そこまで考えて気がついた。


 ここまで皇帝にそっくりなのだから、この男が皇族であるのは間違いないだろう。

 そして後宮衛士の長官は、去勢を施された皇族が務める。


 今の長官は先々代皇帝の皇子ではあるが、甥にあたる皇帝と変わらぬ年ごろであると聞く。とすれば……。


(この方が、後宮衛士長官、李晧こうげつさま)


 華やかで快活な陽文帝とよく似た顔だが、こうしてじっくりと観察すると、まるで印象が違うのに気がつく。


 二人とも稀に見る美丈夫だが、晧月の美しさは、その名にふさわしい、冴えわたる月のような玲瓏な美しさだ。


 それでありながら線の細さはまったくなく、むしろ長袍の上から見ても分かるほど鍛え上げられた肉体を持っている。


「お前の言っていた通り、壁に穴が開いていた。……だがよくこちらに来ようと思ったな」


 ただの女官だと分かったからか、晧月は縛っていた美鈴の腕を開放する。

 晧月が手にしているのは、どうやら髪紐のようだ。


 呆れたような晧月の言葉に、美鈴は目を泳がせた。


「その……食べられる草でも探そうかと……」

「草?」


「はい。竹があれば春には筍が採れますし、ヨモギもつぶして粥に入れれば具になります。鬼百合でもあればユリ根が食べられますし、それから——」

「ああ、もうよい、分かった」


 何か得体のしれないものを見る目で見下ろされて、美鈴は慌てて手で口をふさいだ。


 その爪の先は、紅花の色で赤く染まっている。いずれこの手は、冷宮での暮らしによって白さも滑らかさも失ってしまうのだろう。


 けれど、いつか恩赦でここを出されるかもしれない。一番あり得そうなのは、皇子の誕生による恩赦だ。


 陽文帝の妃でまだ子を産んだものはいない。唯一皇太子時代からの妃が懐妊したが、難産で母子共に亡くなったと聞く。


 だから皇子でなくとも、子が生まれれば恩赦があるかもしれない。


 子を孕んだと偽った罪で冷宮に入れられた美鈴が、子供の誕生による恩赦で解放されるというのも皮肉な話だが、可能性としては一番高い。


 だからそれまでは、なんとしても生き延びたい。


「しかし罪人は罪人らしく、冷宮で反省するがいい。この壁はふさいでおく」


 冷ややかに言われて、美鈴はかっとなって反論した。


「冤罪をきちんと捜査もしないで、ちゃんと仕事をしていらっしゃるのですか」

「なんだと」


 凍り付きそうな目を向けられたが、美鈴は気丈に見返した。


「だってそうじゃありませんか。皇帝陛下のお子を孕んだと偽った罪で冷宮に入れられてしまいましたけれど、そもそもお渡りもないのに、孕むはずがないでしょう」


 晧月が後宮衛士長官だというならば、美鈴を罪人とした張本人だ。


 相手は皇族なのだから、こんな風につっかかってしまえば、本来ならば不敬罪で処罰されてしまうかもしれない。


 だが、もうどうせ冷宮に入れられてしまったのだ。

 この際、言いたいことはすべて言ってしまおうと決意した。


「だからそれを偽った罪で入れられたのだろう?」


 後宮には、嘘だとすぐに分かってしまう嘘をつくものもいる。

 晧月が美鈴をそんな女の一人だと思っているのは確かだ。


 だから余計に頭に血が上って、言わなくてもいいことまで言ってしまった。


「はあ? 一度でもお渡りがあったならともかく、一度もないのにそんな嘘をついたってすぐにバレるに決まってるじゃないですか。大体私はお役御免で実家に……。あっ」


 言い過ぎた、と思って口を閉じたが、晧月は聞き逃さなかったようだ。


「陛下にはまだお世継ぎがいない。その美貌であれば寵を賜ることも可能だっただろう。皇后となって栄華を極めようとは思わなかったのか?」


 まるでこの世の女はすべて皇后になりたがっていると言わんばかりの晧月に、美鈴は鼻を鳴らした。


「見目の良さだけで得られる栄華など一瞬ではありませんか。私には皇后となる覚悟も愛もありません」

「愛……?」


「ええ、もし私が皇帝陛下を心から愛していたならば、この陰謀渦巻く後宮で皇后の地位にのし上がろうという気概も沸くでしょうけれど……。なにせお話したこともない方ですもの。そんな相手をどうやって愛するというのです?」


 調子に乗って言い過ぎたかと思ったが、晧月が怒る素振りはない。


 このまま話をすれば、もしかしたら冤罪であることが証明されて冷宮から解放されないだろうかと一縷いちるの望みをつなぐ。


「華陵国で至高の存在である皇帝陛下の愛を、そなたは望まない、と?」

「私は大勢の中の一人より、ただ一人の相手になりたいのです」


 愛があるならばどんなに苦しい生活でもいいとまでは思わない。

 裕福な家に生まれた美鈴は、きっと貧しい生活には耐えられないだろう。


 だがほどほどに裕福で、侍女もいて、毎日の暮らしには困らなくて、たまに爪を染める贅沢ができる。そんな相手と結婚したい。


 後宮に一度入ったものは、帝の妃嬪として扱われる。

 たとえお手付きがなく返されたとしても、元妃嬪ということで、それなりの家に嫁げるだろう。


 そんな打算もあって、気乗りしなかったけれど徳妃のお付きとして後宮に来たのだ。


「ならばなぜ子ができたなどという嘘を……」

「だからさっきから冤罪だと言っているではありませんか」


「しかし放っておいても後宮を出るつもりのそなたを、なぜ陥れる必要がある?」

「……確証はありませんけれど、徳妃さまの願いを断ったからかもしれません」


 そこで美鈴はちらりと晧月を見た。


 これを言えば、徳妃の立場は悪くなってしまうだろう。場合によっては降格もあり得る。


 だが先に冤罪をかぶせてきたのはあちらのほうだ。

 もう義理立てする義務はない。


 実家の商家は徳妃との関係が深いが、いざとなれば叔父の伝手つてで外国に拠点を移せばいい。確かどこかの国に誘われているという話をしていたはずだ。


「徳妃はそなたになにをさせようとした?」


 美鈴は誰に聞かれるわけでもないのだが、声を潜めた。

 さわさわと、笹ずれの音だけが聞こえる。


 まるでこの世ならざるものたちが、ひっそりと美鈴の言葉を聞いている。そんな気がした。


「他の妃に毒を盛れ、と。眠っているように見える毒だから、誰にも分からないと言われました」

「毒……。それは真かっ」


 後宮で毒殺など、珍しいことではない。


 四夫人たちはそれぞれ毒見役を雇って毒に備えているが、それでも度々、不審な死は続いている。


 ここ数年は皇帝の寵愛を独占する妃がいないことから表面上は平穏を保っているが、それでもそれぞれの陣営が他の妃の排除を企んでいるのは暗黙の了解となっている。


「徳妃がどこからその毒を入手したか分かるか」


 だからどうして晧月がこれほど反応するのか、美鈴には分からなかった。


「え……そこまでは存じませんけど……」

「四夫人の宮は、確実に証拠がなくては踏みこめない……。ならばどうするか……」

「晧月さま、一体どうなさったのです?」


 冷宮から出してもらえるかもしれないと思って話したが、もしかして逆効果だっただろうか。


 このまま冷宮に追い返されて、食料になる草も得られないまま、わびしく暮らさなければいけないのだろうか。


(その前に、せめて鬼百合だけでも採っていきたい……)


 美鈴が食料になりそうな草を物色していると、晧月が肩をがっしりとつかんできた。


「楊美鈴といったか……。ここから出たいか?」

「もちろんです!」


「こちらの条件をのめば、出してやらないこともない」


 食い気味に答えると、晧月は唇の端を上げて満足そうに笑んだ。



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