後宮の冷遇される妃でしたが、こうなったらビクロイを目指します

彩戸ゆめ

第1話 前編

 古びた蝶番が、きしむような音を立てて閉じられていった。


 抑えきれない嗚咽をもらす女の声がそこに重なり、一層に哀れを誘う。


 やがてぴたりと門が閉まると、内側に残された女は門の外にまで聞こえるような大声で泣き始めた。


 門にしっかりと鍵をかけた衛氏たちは、その泣き声を聞いても表情を変えることはない。


 それは当然だ。この門の向こうにいるのは皇帝の不興を買って冷宮に押しこめられた妃嬪なのだから、下手に同情すればわが身が危ない。


 門に鍵をかけた衛氏たちは、そのまま無言で冷宮から立ち去った。


 すすり泣くような女の声は、しばらく続いた。

 やがて泣き疲れたのか、訪れるもののいない冷宮は静寂に包まれた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 やがて門の内側で膝をついていた女がのろのろと顔を上げた。


 やんめいりん——後宮で才人の位についている、妃嬪の一人だ。


 華陵国の後宮では入内じゅだいした妃にそれぞれくらいが与えられる。


 最も位が高いのが四夫人である貴妃・淑妃・徳妃・賢妃。その次に六名のひん。その下に、人数の制限のない、貴人、美人、才人と続く。


 美鈴は皇帝の妃嬪といっても最下位で、徳妃である孫英淑が自らの勢力を大きくするために後宮に連れてきた、孫家子飼いの妃嬪だ。


 その出身も商家であったが、美貌を見こまれ孫英淑とともに後宮入りした。


 だが美鈴には後宮で権勢を極めようという気はまったくなかった。むしろ二年お手付きがないと報奨金を持たされて後宮から出されるので、それを狙っていたのだ。


 なるべく皇帝の前では顔を上げないようにして、存在を消してひっそりと過ごしていたのだが……。

 顔を上げた美鈴は、泣きはらした目をこすると、きょろきょろと辺りを見回した。


「もう誰もいない……よね?」


 美鈴は「よいしょっ」と妃嬪らしからぬ掛け声で勢いよく立ち上がると、ここに来る前に豪奢な妃嬪の着物から着替えさせられた簡素な胡服の裾を、白くたおやかな手で払った。


「いやー。参ったなぁ。まさか冤罪でこんなところに入れられちゃうなんて……」


 髪の毛をかき上げながら振り返って冷宮を見上げる。


 かつては美しい朱色に塗られていた壁も柱も色あせ、黄色い瓦はところどころはがれ落ちている。灰色の石畳の間には、隙間なく生えた雑草が伸びていた。


 門の両側にある女官の住む部屋を覗くと、どちらも床が抜けるほど荒れ果てていて、とても人が住めそうにはない。


「こっちは駄目そうね。主殿はどうかな」


 苔むした龍の石像が守る三段ほどの階段を上ると、入り口から顔だけ覗いて中を窺う。

 正面にある宝座は嵌められていた宝石が抜き取られ、無残な姿をさらしている。


 色彩豊かであったはずの天井の装飾も、ところどころ剥がれ落ちて元の模様が分からなくなっていた。


 だが色の抜けた木の床は、埃まみれではあるが、かろうじて抜けていないようだ。


 美鈴はそっと主殿に足を踏み入れた。

 ギシギシときしむ音がするが、それ以上は沈みこまない。


「とりあえず住めそう……?」


 まったく使われていないとはいえ、人が住めないほど荒れ果てている宮に押しこめるほど非道ではなかったらしい。


「雨風がしのげるだけでも良いと思わなくちゃ」


 それほど広くない冷宮をぐるっと見て回った美鈴は、腰に手を当てて「ふむ……」と呟いた。


 後宮の中でも北寄りにある冷宮は、元は北三宮といって後宮の住人が最も多かった頃に建てられた、妃嬪の為の住まいのうちの一つだ。


 裏庭には雑草が生い茂り、立ち枯れた木も見える。


 井戸はあるから飲み物はなんとかなるが、食事は一日に一度、小さな窓から差し入れられるだけで、一年も経つ頃には病を得て死んでしまうものがほとんどと言われている。


 だが美鈴は、元々は商家の出だ。祖父の代で商売を大きくした大店の娘ではあるが、家訓として基本的に自分のことは自分でできるようにと教育されている。


 だからなんとか生き延びようと、両手を固く握った。


「冤罪なんかで、こんなところで死んでたまるものですか……!」


 美鈴の罪は、皇帝の子を妊娠したと偽った、というものだ。


 元々、月のものの周期が不順なので医者に相談していたのだが、それがいつのまにか懐妊したという噂になっていた。


 いくら美鈴が否定してもなぜかその噂は消えず、やっと月のものがきて安心していたら、なぜか子をはらんだと偽った罪で冷宮に入れられることになってしまったのだ。


「大体、お渡りもないのに子供ができるはずがないでしょうよ」


 腰に手を当てて怒る美鈴は、今の皇太子が皇帝になった時にはくをつけるために後宮の妃嬪の数を増やすために集められた、いわばじっ把一ぱひとからげの妃嬪の一人にすぎない。


 しかも皇帝はほとんど後宮を訪れない。

 たまに義務のように、四夫人である貴妃・淑妃・徳妃・賢妃の宮を順番に回るくらいだ。


「せっかく後宮で、期間限定でのんびり暮らそうと思ってたのに……」


 後宮というのは、皇帝の寵愛を競い合う女たちの戦いの場だ。


 だが美鈴は数合わせで後宮に入った上に、権力欲などまったくない。

 むしろ清らかなまま実家に帰りたかった。


 だがそれも水の泡に帰してしまった。


「一生ここで暮らすのか……」


 美鈴が冷宮に入れられたのは、徳妃から他の妃に毒を盛れと命令されたのを断ったからだ。


 それで疎まれたのは知っていたが、まさか冤罪を着せて冷宮に入れようとまでするとは思わなかった。


「……くよくよしても仕方ない。とりあえず状況を把握しなくちゃ」


 美鈴は今まで着ていた絹の衣装とは比べ物にならないほど粗末な服を見下ろすと、袖をまくった。


「竈は……当然ながら火がないけど、あるにはあるんだ」


 冷宮の中を一通り見た美鈴は、厨房にある竈の中を覗いた。

 埃に埋もれてはいるものの、刃物以外の調理器具も残っているようだ。


「落ちた枝はあったから、なんとか火をおこせないかなぁ」


 そう言って腰に手を当てた美鈴は、奥にある埃をかぶった寝台を見てため息をつく。


「とりあえず寝るところを確保しなくちゃ」


 冷宮に入れられたのが朝で良かったと美鈴は思った。

 今から洗濯をすれば今日中には渇くだろう。


 美鈴は古ぼけた屏風を前庭に出し、そこに埃まみれの布団をかけた。裏庭で拾った枝で布団を叩いて埃を取る。


「うわっ、ひどい埃」


 ぶわっと舞い上がった埃を吸い込まないように、袖で鼻を覆う。胡服の簡素な袖でも、十分に埃を防いだ。


「口を覆わなくちゃ」


 美鈴は懐から手ぬぐいを出して口に巻く。これで埃はなんとかなりそうだ。


「他に何か使えそうなものは……」


 今は冷宮として使われているが、元はれっきとした妃嬪のための宮だ。打ち捨てられた箪笥の中には、かびた匂いの服が残されている。


 美鈴は柔らかい布でできた服を手に取って、それを引き裂いた。

 手ごろな大きさの布にしたら、井戸から組んだ水につけて絞る。そして寝台の周りを拭き掃除した。


「……なんとか綺麗になったかな」


 ある程度綺麗にした後は、日に当てた布団を戻す。

 まだ少しほこりっぽいが、休めないこともない。


「屋根があって布団がある。食事は一日に一回だけど、ないよりはまし。……だけど、裏庭に何か食べられるものがないか、もう一度見てみよう」


 裏庭に行った美鈴は、腰の高さまで伸びている、枯れたまま残っているススキをかきわけて進む。


「あ、イガグリ。ということは……これは栗の木?」


 大きな木の下に、茶色く枯れたイガグリの残骸が落ちていた。既に実は残っていないが、これは栗の木なのだろう。


 他にもよく探せば、ヨモギや薬草になりそうな草もたくさん生えている。


「あれってもしかして、ヤマイモの花!?」


 壁際にヤマイモの花を見つけた美鈴は、急いで向かった。


 美鈴の叔父はちょっと変わっていて、色んな国に買い付けに行っては、役に立つのか立たないのか分からないような話を仕入れて美鈴にする人だった。


 母はそんな叔父を嫌っていたが、美鈴は叔父の話を聞くのが大好きだった。


 そんな叔父と散歩をしていて見つけたのが、壁にはった蔦についている茶色い塊だ。「むかご」というヤマイモの子供で、煮て食べてもおいしいのだと教えてくれた。


「ということは、この下にヤマイモがあるかもしれない」


 ヤマイモは滋養強壮に良く、もし掘ることができれば冷宮での食糧事情は一気に良くなる。

 美鈴は手を切らないように注意深く壁の前に生えている雑草を抜いた。


「あれ……?」


 雑草を抜くと、壁の下の方が崩れているのが見えた。

 小柄な美鈴であれば通り抜けられそうな穴が開いている。


 しゃがんで壁の向こうを見ると、そこにも青々と茂った雑草が生えている。


「北三宮って、先々代までは使われてたんだっけ?」


 後宮でも美鈴のようなお渡りのない下位の嬪には基本的にすることがなく、噂話に花を咲かせるくらいしかない。


 その中で今は冷宮として使われている北三宮の話を聞いたことがある。


 当時の皇帝は名君ではあったが、後宮に千人もの美女を集めるほどの女好きであった。その美女たちの住む宮を増設し、後宮はこれほど広くなったのだ。


 老衰で死ぬまで次々と若い妃を寵愛し、生まれた子供も百人を越すという。


 その最後の寵姫が賜ったのが、この北三宮の左の宮である。献上された異国の王女で、それはそれは美しい姫だったという。


 皇帝の崩御と共に若くして殉死したと伝えられているが……。


「どう考えても無理やり殉死させられてるわよね。だってまだ十代でしょ。死にかけの老人を愛するなんて無理だわ」


 先々代の後を継いだ皇帝は短命で、すぐに今の皇帝に代替わりしたから、まだほんの二十年ほど前まではこの北三宮も活気にあふれていたのだろう。


「幽霊とか出ないといいけど……」


 だがとりあえず死者のことを考えるより目先の生活のほうが大切だ。たとえ幽霊が出たとしても、ただ出るだけならば問題はない。


 美鈴はそう覚悟を決めると開いている穴をくぐって隣の宮へと足を踏み入れる。


 北三宮の左の宮の裏庭は、冷宮ほど荒れ果ててはいなかった。


 確かに手の入っている様子はないが、小さな池の周りには雑草の他に牡丹や菖蒲の花が咲いていて、野性味のある趣だといえないこともない。


 池の水は思ったよりも澄んでいて、もしかしたら湧き水だろうかと覗きこんだ。


 ガサリ。

 突然、葉擦れの音が聞こえる。


「誰!?」


 もしかして寵姫の幽霊だろうかと身構えると、にゃあという鳴き声が聞こえて、白い猫が姿を現す。


「猫かぁ……。びっくりさせないでよ」


 ほっと方の力を抜いた美鈴は、可愛らしい侵入者に声をかける。


「……ほら、猫ちゃん、こっちおいで」


 後宮では鼠除けに猫を飼っていて残飯などを与えている。きっとこの猫は、そのうちの一匹だろう。

 そう思って手を伸ばした美鈴の喉に、冷たい金属の感触がした。


「!」

「動くな。お前は誰だ。ここでなにをしている」


 低い声で耳元に誰何すいかするのは、男のものだ。

 だが後宮には皇帝以外の成人した男がいるはずはない。


 美鈴は、驚愕に言葉を失った。




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