真空管の灯
真空管の灯
焼酎、ウォッカ、ウイスキー、それにジン。
素足で歩くフローリングはざらついている。
窓の日で埃がきらめいて舞っている。
太莨は昼間から酒を飲むことに、もはや抵抗はなかった。まして日曜の昼である。
「――この気持ちはなんだろう」
太莨とはなかなか良い名を思いつくことが出来た。
フリーターの太莨はそのほとんどの生計を個別指導塾の講師アルバイトで補い、足らない分を隙間時間でシフトを組める派遣に登録して暮らして来た。
大学卒業後、太莨も一度は就職をした。そこは理想の職場とは呼べず、そこにいる人たちと仕事以外の会話はしなかった。クリスマスを迎える前に退職願を出したときは、誰にも引き留められることはなかった。
友人と思っていた同窓の者からの連絡はない。フリーターの身分を明かすのは怖く、太莨からも連絡はしなくなった。休日は一人で過ごさなければならなくなった。
「――この気持ちはなんだろう」
谷川俊太郎『春に』の一節である。
全くの空虚な胸の内。この詩を口ずさむことで、なにか気持ちが湧きはしまいかと期待したが、無を再確認するに留まった。
かつてこの詩は太莨にとってフェイバリットな詩であった。互いに文学が好きな友人と、本について、文化について、哲学について語りあった。彼らがとくに熱を込めて語ったのが“魂”であった。この詩は彼らの衝動を讃える詩になっていった。
太莨はここ数か月、あれほど愛した本を読まなくなった。
退屈のために酒を飲み、孤独を見えなくするために煙を吐いた。読書は一人でいることと相性が良すぎてしまう。
“魂”の存在が科学的に観測されたのは今から七年前になる。おかげで有史以来固定されてきた価値観が揺らぎ始めた。最も信用され、いかなる教義を抑えて尊ばれる科学は、魂は人間のみが保有していると語る。
どれだけ可愛がっているペットにも、家畜にも、人に最も近いとされるチンパンジーからも、魂は観測されない。
この事実は大きな波紋を呼んだ。ヒンドゥー教では、本来タブー視してきた食肉を行う一派も現れ、暴力的な衝突も発生している。なぜ魂もない家畜を神聖視しなければならないのだ、ということだろう。
子供たちは野良猫やカエルなどをいじめて遊ぶことに抵抗を感じない。太莨が教える生徒の中には、みんなで猫を囲って遊んでいるのを、動画で撮って見せてくる子もいた。それは太莨の価値観の中ではやってはいけないことであった。後ろめたいと思わないから、その少年は太莨に動画を見せてくれたのだろう。
太莨は動画から目を背けただけで、注意することはなかった。注意するようなことなのか判断できなかった。なんて叱ればいい? これまでであれば、可哀そうだからやめなさいと言えばよかった。しかし、猫に魂はない。
では他の「物」と同じか? 壊してはいけませんと言えばよいのか。しかし、野良猫に所有者はいない。道端捨てられた物を蹴る小学生を見つけたとしても、太莨はきっと叱らない。
太莨は叱る理由を見つけられなかった。
この設定は、今書いている長編のために用意したものである。しかし、二月かけてまだ二万文字しか書けていない。わかりやすく行き詰っている。設定の鮮度が僕の中で色褪せ始めていることに気が付き、焦ってここに残している。なに、まだ長編を諦めたわけではない。だから、こちらの短編では練った景色のほんの一辺を、足らない言葉で残すのみにしたい。
太莨は部屋のすべてのカーテンを閉めた。真っ青なカーテンは南風を受けて揺らぐ。
こうして煙草を吸っていれば、魂も汚れるのだろうか。今の科学では、魂の個人差までは観測できない。男女差も、生まれたばかりの赤ちゃんと寝たきりの老人の魂に違いがあるのかもわからない。
太莨は、魂があることがわかるよりも前から、長生きしたいとは思わなかった。健康に気を使って長く生きるよりは、より太くより短く生きてやろうと思っていた。だから煙草を吸うことも、記憶を失うまで酒を飲むことも、自分の主義に従っているまでだと、誇らしげに友人に語ったことがある。
太く生きているとは到底言えない。フリーターのその日暮らし。やりたいことも何もない。生が短くなっていることだけは確かだ。
太莨は立ち上がり、
むき出しの、電球そっくりの真空管二つがじんわりと灯る。太莨はそれを見て、また一本のマールボロを取り出して床に座った。ジッポを開ける金属音が床を這う。
諸君は真空管アンプをご存じだろうか。オーディオ機器は三つに大別でき、スピーカーとCDやレコードなどの保存媒体から音を抽出するプレーヤー、そしてそれらの間をつなぐアンプである。アンプの役割は抽出した音声データの圧を大きくすることにある。抽出したばかりの音声を、アンプで増幅させることなくスピーカーに送っては弱々しい音しか出ない。
アンプについての説明をより詳しく書いておきたいところではあるが、それをするとバランスが悪くなるから、ここまでにしよう。
真空管アンプは立ち上がりに時間がかかる。この待つ時間を、太莨は蒸らしと呼んでいた。
電気信号を大きくする際に、真空管は倍音というノイズを出す。このノイズが音に柔らかさと温かみをもたらす。そのために、普通の半導体で音を膨らますアンプではない、高価な真空管アンプにも一定のファンがいる。
人間も、ちょうどこの真空管のようなものなのではないだろうか。魂を大きく、そして柔らかく膨らませるために、人に預けられているだけのように、太莨には思えた。中には与えられた魂を萎ませてしまう不良品も含まれているが、七十億も人がいると考えれば、トータル成功しているはずだ。
太莨は無神論者であるが、魂が存在しているのであれば、それを与える存在もまた存在しているはずで、それを神と呼ぶことに抵抗はなかった。であれば、神は人に何を期待して魂を預けているのだろう。犬でも猫でも猿でもなく、人にだけ与えたのは何故であろう。
そう考えているうちに煙草を吸い切った。蒸らしも終わった。太莨は立ち上がり箪笥の上の真空管アンプに手を伸ばした。
そろそろ白状しよう。
小説の中に僕の語りが混じることを、諸君の中には斬新だと評価した者がいると思う。僕も全くそう思う。だが、これは僕の手法ではない。太宰治が『道化の華』で用いた手法である。僕は読んでひどく感銘を受けた。そしてこれを自分もやりたいと思ってしまった。真似をした。サル真似である。
エピグラフは『道化の華』の一文である。わかる方にはわかるように、僕は初めから白状していた。僕は『美しい感情で以て』書いたつもりである。だからどうか許して欲しい。ワールドカップを見た翌日に、少年たちが運動場に集まる様子を描いてみて欲しい。僕も同じく純情に、これを書いているのである。
そして、この構図を少しでも面白いと思ったのであれば、『道化の華』を読んでみて欲しい。この先を読まずにそちらを読んではくれまいか。僕はあれも傑作のひとつだと信じている。
良作の条件は何であろうか。表現力や構成などは言うまでもない。僕が思うに「祈り」である。「衝動」と言ってもいいかもしれん。
僕は太莨と同じく無神論者だ。この祈りは神に対してではない。対象はないのだ。ただ祈っている。会いたい、救われて欲しい、助けて、私は間違っていない、祈りの形は様々であろう。
鉛筆を置いて考え込んだ。こんな抽象的な
こちらは夏目漱石の『草枕』からの引用である。傍点は原文ママ、ルビについては加えたものもある。前後の文脈を拾って、僕が訳すならここは、音楽が最も思いを伝えるに適した手段、ということになる。
僕は小説を読むとき以上に、音楽を聴いたときにこんな本が書けたならよかったと思うことが多い。それは単に、音楽を聴く機会が多いだけに過ぎないのかもしれないが、僕にとっては音楽の方が、よりダイレクトに「祈り」を感じるからなのかもしれない。
僕はたびたび引用を用いる。自分の言葉に自信がないからである。文豪の名を借りているという点もあるが、それはほんの一部で、虎の威ではなく虎の爪や牙を頼っている。
僕がここで込めた祈りは、太宰の真似がしたいという希薄な祈りであった。質が祈りと相関するのなら、この作品の質もまた希薄である。それでも続きを読んでいただけるのなら、ぜひそうしてもらいたい。
太莨はフィルターだけになった煙草を、灰皿代わりにしている皿に捨てた。本棚の二枠はCDで埋められ、その中から一枚を抜き取った。振り返り箪笥の上のCDプレーヤーに読み取らせる。
今や音楽はサブスクリプションでいくらでも聞ける。スピーカーも、それ単体でCDを読み込み、半導体で音を膨らまし、鳴らすことが出来る。無線でスマホと繋げることができ、簡単に良音の音楽が楽しめるようになった。
スピーカー、アンプ、プレーヤーとそれぞれ単一の機能しか持たず、CDで音楽を聴くのは不便でしかない。しかし、太莨はその不便さが儀式のようで好きであった。
暗い部屋で真空管の灯を、蒸らしが終わるまで見つめる。棚からCDを選ぶ。一度CDを選んでプレーヤーに差し込めば、曲を変えたいと思っても手間になる。であるから、ジャケットと向き合いながら曲を思い返して決める。そして決まって収録曲全て聴く。途中意識が遠のいて、気づけば無音ということもあるが、それもまたいいと太莨は考えている。
とにかく真摯に、作り手に敬意を払って音楽と向き合いたい太莨は、この聴き方を選んだ。
ピアノの前奏から始まる。柔らかな旋律は真空管の作り出す倍音の温かみと親和した。太莨の生まれるよりも前の歌。時代の勢いが増す中で、流れについていけずに辛い思いをした人が多かったのかもしれない。この歌がどんな軌跡を辿って太莨のもとへ来たのかはわからない。
ファイト! 闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ
太莨は闘わない奴等の一員でしかなかった。誰かの後ろからその背を笑い、そして自分もまた笑われていることに気が付かない者であった。
本当は自分も主人公になりたかった。がむしゃらに挑んで、結果を手にして仲間と一緒に笑っていたい。しかし、面倒でもあった。苦労はいやで、痛みもいやだった。主人公は必ず一度は負けて、傷つく。「痛み無くして得るものなし」、は誰の言葉だったろうか。痛みを避けてきた太莨にとっても、その言葉は納得のいくものであった。
誰でも自分の人生の主人公は自分である、とする言葉もある。この言葉は、誰の人生もドラマチックであることは保証してくれない。起承転結から承と転の落ちた、間の抜けた結末を迎える話がほとんどのはずである。みながドラマチックであれば、ドラマなどこの世に生まれ得ない。
小説を書こうとしていると、自分の生き方がいかにつまらないかがよくわかる。
物を書くことはこれまでのインプットのテストであり、絡めて混ぜて馴染ませて出来たフィロソフィに他ならず、アクションに対する表彰状にもなる。
僕のアクションの経験はあまりに薄い。考えるばかりで行動に移そうとしなかった。動かないから、フィロソフィが育たなかった。気づいたときにはコロナ禍のただ中で、これまた行動しない言い訳と機能した。
音楽に向き合っているうちは、自分も同じように祈っている気分になれた。聞き終えては、何事かを為そうと前向きになれる。
太莨はぬるい空気に包まれ眠っていたようで、部屋は完全なる闇である。カーテンが照らしていた青い海の底のような部屋は、真空管の灯が遠くに見えるプラネタリウムに変わっていた。二つ並ぶ光粒はちょうどふたご座か。季節外れの冬の星座である。
カーテンを開けベランダに出た。夜風が肌に沿って過ぎていく。酔いはさめていた。蝉も夜は鳴いていない。
太莨が腕を欄干にかけ下を見下ろすと、一匹の猫がゆうゆうと道路を渡っている。昼間であれば、そこは駅へとつながる道で車通りも多いが、今は猫だけの道だった。
「ねこは野良猫が、もっとも完成された状態だな」
しかし、明日にはあの猫が子供らにいじめられることになるかもしれない。所有されていない生き物を壊していけない理由は、まだ見つからない。
地平線から昇るは下弦の月である。下弦の月は深夜に上がる。落ちる際に弦と見做した辺が下を向くから下弦である。昇る際には弦は上を向いているから、スマイルに見えなくもない。
季節は一日の内でも巡る。早朝はまだ春の如き暖かく、昼ともなれば蝉がわめいて夏を表現する。深夜を彩るは秋の星座だ。
秋に見られる一等星はひとつしかない。南の地平線に上がる南のうお座に位置するフォーマルハウトがそれだ。しかして
代わりに秋の夜空に与えられたのが、全天に渡る珍しき神話と流れ星だ。
とある国にアンドロメダ王女がいた。この王女はたいそう美しく、母であるカシオペア王妃にとって自慢であった。
「わが娘、アンドロメダは
神への侮辱は許されないのが神話の掟である。ポセイドンは海を荒らし、怪物クジラを港へとけしかけた。困ったケフェウス王は神託へ頼ると、神々の出した答えはアンドロメダ王女を生贄に捧げよ、であった。
神の出した答えは絶対である。アンドロメダ王女は鎖で磯に縛り付けられた。一人の犠牲で民が救われる。それが自分の娘であっても履行するとは、為政者として褒められたものだろう。ここに『オメラスから歩み去る人々』を想起するのは僕だけではないはずだ。しかし、結末はこの小説とはまるで異なる。
鎖で縛られたアンドロメダのもとに怪物クジラが向かう。そこへ、ペガススに乗って天を駆ける勇者・ペルセウスが偶然通りかかる。
娘が食われそうになり、ケフェウス王の決心も揺らいだか、王はペルセウスにアンドロメダを助けてくれないかと頼んだ。ペルセウスは条件をひとつだけ出して救出を請け負い、再びペガススにまたがって怪物クジラに相対した。
ペルセウスは怪物ゴーゴン三姉妹の末妹メデューサを退治した帰りであった。手にはその証としてとった首がある。怪物クジラにメデューサの首を突き付けると、メデューサの邪眼に宿った力で、怪物クジラは石となり、砕けながら海中へと消えていった。
見事アンドロメダを助け出したペルセウスは、ケフェウス王に約束であったアンドロメダとの結婚を迫った。ケフェウス王はこれを抗拒し、娘を助けた恩人に百人の兵を差し向けた。たとえ英雄であっても、見ず知らずの通りすがりの者に娘をやることはできなかったのである。
ペルセウスは百の兵をみな倒し、終いにはケフェウス王に結婚を認めさせた。こうしてペルセウスは王子となったのである。
話はこれで終わらない。アンドロメダを生贄として得られなかった海王ポセイドンの怒りは静まっていない。ポセイドンはカシオペア王妃が死ぬのを待って、その魂を椅子に縛り付けて天へと上げた。
カシオペアは永遠に縛られたまま、天空を回り続ける。カシオペア座が天頂に至るとき、その上下は常に逆さとなる。
これが秋の全天にまたがる神話である。それぞれの星座の位置や星座絵は諸君らで調べて頂きたい。
しかし、天体に興味のない太莨は神話どころか星座の名さえ知らない。それにここからでは、街明かりが強くて月しか拝めない。
太莨の思案は共に塾でバイトしている女子大生に向けられている。
明日は塾のバイトがある。それも放課後からである。月頭でお金にまだ余裕があるため、隙間バイトも入れていない。昼寝のために、今夜はまだ眠れそうにない。
今年度から入ってきた彼女の教育係としてあてがわれたのは、幸運にも太莨であった。はじめの一月の間、授業後に二人して集まり振り返りシートを書いた。
彼女は太莨相手であっても警戒なく笑った。太莨がここでフリーターとして働き、すでに三年であることを知らなかっただけなのかもしれない。
太莨にとって印象的な一幕がある。ほんの些細な後片付けをどちらがやるか、じゃんけんで決めることにした。じゃんけんなんて無邪気なことをするのは太莨にとって久しぶりなことであった。
太莨は椅子に座り、彼女は立っていた。
最初はグー じゃんけん ポン
太莨はグーを出した。彼女はパーを出した。やったー、勝ったと言って笑う彼女をあとに、太莨の目に焼き映ったのは彼女の手のひらだった。彼女の癖なのか、彼女のパーは手のひらを相手に向けるものだった。これまでにもそういう人に会ったことがあるかもしれないが、とくに記憶には残っていない。太莨の顔の前に振り下ろされた、彼女のパーだけが新鮮だった。
「あの空の青に手をひたしたい
まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい 話してみたい
あしたとあさってが一度にくるといい
ぼくはもどかしい
地平線のかなたへと歩きつづけたい
そのくせこの草の上でじっとしていたい
大声でだれかを呼びたい
そのくせひとりで黙っていたい
この気もちはなんだろう」
太莨がそらで唱えることが出来るのは、今やこの最後の一連だけである。この一連が言えればよかった。太莨の声は街明かりにかき消されたアンドロメダ座へと伸びていく。
部屋へと戻り、照明から下がった紐を引いて点ける。雑然さが浮き彫りになる。昼の日よりも照明の方が暗いはずなのに、夜闇とのコントラストからか、白いだけの照明光のもとで、部屋はクリアになる。
物で机の上は埋まり、床にも幾らか落ちている。にもかかわらず、この部屋には何も無いように思えた。ただ雑然としているだけで、目を引くものはなく、草が生えているだけの芝生を見て何もないと感じるのと同じように、ここには何もない。
ただ一つだけ誇れるものが真空管であった。
明るくなった部屋の中では、その真空管アンプでさえ、輪郭が弱々しくなっている。
僕はこの話で、いったい何を真空管に託そうと画策したのか。むろん答えはあるが、僕の持つ答えさえ不十分に感じられる。書いているうちに、話は僕の意図の枠にヒビを入れ漏れ始めた。話は形を失い、行先も定まらず勝手に動いている。
こうなると書いている僕一人が楽しいだけで、オチがつけられなくなる。会心の出来だと思えるのは一周目だけで、二周目に読むときには話の薄さに呆れて目も当てられなくなる。だから夜に筆を執ってはいけないのだ。夜は筆が進むから。これも僕の言葉じゃない。太宰の言葉だ。でも経験を通して僕の言葉になりつつある。
ここでは多くの人の言葉を借りた。太宰治に始まり、谷川俊太郎、夏目漱石、中島みゆきに、神話まで引っ張りだした。
どれもこれも僕が触れてきて、僕に影響を与えたものだ。であれば、使ってもよい、ということにはならない。これは所詮パッチワークであって、オリジナルではない。オリジナルは、絡んで混ざって馴染んで、それからアウトプットされるものである。僕の作業は創造にはほど遠い。そうだね、せめてお披露目としておこうか。
僕はこれをエッセイとするつもりでいる。エッセイの題材が執筆なだけだ。それで不都合があるだろうか? あるならやめておこう。しかし無いうちはエッセイとしておく。
僕はこれまでエッセイを書いてこなかった。一度だけ書いた『まえがきというエッセイ』は、読んだ人は少ないと思うが、単なるおふざけであるから、読まなくてもいい。
僕にとってエッセイは、小説以上に作者の哲学が込められるものだと思う。小説に昇華させるほどでもない、ささやかな思想。そんなものがエッセイには込められる。旅行に行けば、非日常の中で日常を振り返り、自分が大事にしていたものが見えてくる。
執筆も同じだと思う。書いているうちに、自分に足らないものが見えてくる。それを残して置きたかった。
僕に足りないもの。
それは強烈な祈りだ。
僕は誰かに助けを求めていない。
訴えたい正義はない。
殴りたい相手も殺したい人もいない。
告げたい愛も失った悲しみもない。
それでいて現状に満足してはいない。
僕は変化が欲しい。
成長を実感したい。
僕は、何かを祈りたい。
足りない自分を補うために人の言葉を吸収する。しかし、それだって足りない。
「自分に影響を与えるものを、自分でばかり選んでいたら、想像を超える自分になれない」
ロックバンド、サカナクションのボーカル、山口一郎の言葉である。この言葉を聞いてから三年経った。少しは想像を超える自分になれたと思う。少なくとも、三年前の僕はこうして何かを書こうなどとは思っていなかった。これは一人の先輩との出会いが原因であるが、その話はまた別の機会に回そう。
実は、オチはもう決めてある。今書いている長編のオチに使おうと思っていたが、今落とせなくて困っているために、仕方なく拝借する。こう前置きをすると大層なもののように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。先から述べているように、僕は全くの未熟者であるから、オチもそれに釣り合うだけの軽いものである。
太莨はプレーヤーからCDを取り出しケースにしまった。明日を迎えるにはまだ早い。本棚に立ち返り、どれを聴こうかと迷ってみる。
何度も聴いて口ずさめるものから、一二回聴いただけでそれきりのものもある。儀式のように聴いていると、一度突き放したCDは聴かなくなる。自然と聴くものが偏る。「よし、今度こそ」とうろ覚えなものに手を伸ばすが、あと一押しの決心がつかなかった。丁寧に聴こうと意気込んでいるだけに、がっかりしたくないのである。
今晩も、そのよしと思う晩であった。
太莨は幾らか手に取り、ジャケットを睨んでは棚に戻した。おやと、フィルムが解かれていないものもあった。クリスマスソングのようである。真夏の深夜にクリスマスソングとは趣があるようで、やや高揚した。しかし、すぐに冷めた。
これを買ったのは学生のころだった。まだ光にだけ顔を向けられていた。隣を歩いていた彼女は卒業前に離れていった。未開封なのはそのためだ。
CDを戻して座り込み、白けた部屋の天井に目を向ける。あのシミは煙草の
煤であればいい。
天井に手は届かないけど、確かに汚してやった。
それが煤ならば。
太莨は机の上に散らかった酒瓶も紙もすべて床に置き、机の上に立った。
高さが足りない。
机にありったけの本を積み上げ、そこに片足を乗せた。ゆるむ本の上は想定以上に不安定であった。慎重に本の上の前足に体重を預け、ふるえながら乗り上げる。両足を本に乗せるまで息を止めていたようで、ひとつ深く吐いた。背伸びをすれば天井に届きそうだ。
胸ポケットに入れたマールボロから一本抜き取りジッポであぶる。先から昇る煤は、直に天井を濡らしていくように見えた。
背伸びをして、くわえたままの煙草の先を天井のシミに当てる。じっと吸うに合わせて、天井に焦げ目が広がるのが見えた。
「ハハッ」
声に出して笑った。本の足場が崩れ、太莨は落ちた。
床に寝ころび、天井についた黒点を眺め、満足する。
読み終えた僕も、パッチワークの不細工さを認め、満足する。
真空管の灯 杜松の実 @s-m-sakana
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