人形の妻

遠地 薫

人形の妻

 淡い色のランプだけが照らす暗室で、女はじっとりとした黒い双眼と目が合った。背筋を走る寒気を誤魔化すように視線を逸らしても、隣にはまた黒。その隣にも黒。ランプの燈を微かに反射させる沢山の黒は、今の自分たちを見守るかのように、全てこちらに向けられている。

 見守られている、というのはあくまで女の錯覚で、この部屋にはベッドに座った女自身と、その女の足の間に顔を埋める男しかいなかった。そう分かってはいても、女は自分の手に冷たい汗が滲むのを止めることはできない。男もその緊張を薄々感じ取っているようだったが、あえてなにかを言うことはなかった。時折太腿を優しく撫でて、視線をちらと上に向ける程度だ。あとは自分の作業に没頭していた。

 無数の視線から逃げたくて女は下を向いた。揺れ動くつむじを見下ろしていると、生温かい感触が太ももを滑っていく。思わず腹や掌に力が入ったが、蛇のようなそれは女の様子にかまうことなく、粘性の水気を肌に擦り付けて下腹部を這い回った。


「市子」

 噛みしめるように男は女の名を呼ぶ。濡れた肌が空気に触れ、ひやりとした。骨ばった手は膝から太ももを辿り、細い腰へと愛おしそうに触れられてゆく。否、彼が愛おしいのは女・市子自身ではなく、市子を司る外見だ。

 もっと言えば、朱い布を身に纏った『人形』。

 金糸で彩られたそれは皺が付かないよう、丁寧に捲られていて、そこから伸びる市子の脚は生気がなく青白かった。あまり外に出ず部屋に引き篭もってばかりいる不健康な色みだ。今はほんのりと桃色に染まってはいるものの、とても気味が悪い。

 一度、市子は彼に謝ったことがある。釣り合わなくてごめんなさい、と。彼は自分とは正反対で明るく、人との関わりも幅広いうえに聡明だった。おまけに海の向こうの大陸に住む人間の血を引いていたせいか、端正な顔立ちと、蜂蜜のような髪を兼ね備えている。彼の隣に立つ人間として、自分は相応しくないと思った。彼はそれを聞き、心底意味が分からないという顔をした。そして「僕は君以外はあり得ない」などと、市子が恥ずかしくなるような台詞をサラッと言ってのけた。反則だと思った。

 今、市子は彼の言ったその言葉の本当の意味を、ひしひしと思い知らされている。部屋のあちこちに置かれた沢山の市松人形の目が黒く澱んでいた。




 子供の頃、南を向いて寝るのが嫌いだった。右隣に母、左隣に父、和室に布団を引いて、所謂『川の字』に寝る。頭は西に置き、両親と手をつなぐのが決まり事だった。足の方角には仏壇があり、北側には押入れがある。市子はその押入れを眺めて寝る習慣がついていた。反対側に飾ってある市松人形を見るのが怖かったからだ。

 『市子』という名前は、市松人形が好きだった祖母が名付けた物だった。彼女は生前、「この子はあなたに降りかかる災難を代わりに被ってくれる守り神なのよ」と言い、大切に手入れしていた。また、人形と同じくらい、孫のことを大切に大切に『手入れ』した。元々質の良い黒髪を、癖がついたり枝毛になったりしないよう、細心の注意を払って長く伸ばさせて、真っ直ぐに切り揃えた。外出するときは念入りに日焼け止めを塗らされ、白い肌を保つことを強要された。休日にはよく子供用の着物を持ってきて、楽しそうに着付けた。

 祖母は生きる市松人形を手に入れて、とても幸せそうだった。市子もそれを厭うわけではなかったし、着物を着ている間はまるでどこかの姫になったような気分になれた。

 ただ、その祖母が死んだ後、小学校に通い始めた市子を待っていたのは、同級生からの好奇の視線だった。周りの女の子より遥かに長い髪に、やんちゃ盛りな子供らしくない白い肌は、彼女を目立たせるには十分な要素だったからだ。どこか人間らしくない雰囲気を漂わせる市子を見て、一人の男子がはっとしたように叫んだ。


「こいつ、いちまつにんぎょうだ!」


 市子はその瞬間、ばっとその彼に振り返った。理解者が現れたと思った。そう、これは紛れもなく市子と祖母が愛した市松人形に影響されたものであり、それを分かってくれた彼に、嬉しさのあまり駆け寄っていた。男子はそんな彼女を見て若干引いたような顔をした後、「きもちわるい」と小さく呟いた。

 祖母の影響で慣れ親しんだ市子と違い、彼らの多くは市松人形に恐怖を抱いているか、それとも存在自体を知らずにいた。まぁ無理もない。女子がいない家には置いていないことも多いだろうし、例え置いてあったとしても、精巧に作られたそれは今にも動き出しそうで妙な存在感を放っているのだ。市子のように好きこのむ子供の方が少ないはずである。

 その反応に愕然とした市子はその夜、祖母とあれだけ愛おしんだ市松人形に初めて恐怖を覚え、真っ黒な目に縛られたような錯覚を覚えた。大人しい市子が突然大声で泣きだしたものだから、両親は何事かと焦っていた。





 くすり、と笑みを零した市子に、彼は怪訝そうな表情を浮かべた。どうした、と聞かれ、黙って首を振る。

 一度嫌いになった市松人形を再び好きになれたのは、まぎれもなく目の前の彼のお蔭だった。まだ少し恐怖感は拭えないけども、今は真っ黒い絹糸のような髪も、不気味な白い肌も、全て好きだ。そして、それに模された自分自身も少しだけ好きになれた。彼が市松人形を、市子を愛してくれたから。

「まだ出るのか」

 彼は市子の脚の間から湧き出る朱に、少し顔を顰めていた。尻の下に敷いた真っ白なバスタオルに滲んでいくのは、市子が女だと、次の生命を宿すことができると知らせる証だった。

 彼はそれが訪れる期間、少しだけ不機嫌になることが多かった。市子が一番『人形』から遠ざかる時間だったからだ。彼はぴくりとも動かない足を、その意外と逞しい腕で持ち上げる。そしてまた目的の場所に顔を埋めた。





 市子が今ここでこうしているのは、人生で二度、大きな転機があったからだった。

 一度目は市子を地獄に突き落とした交通事故だった。中学校からの帰り道、信号無視したトラックに轢かれた彼女は、命こそ助かったものの、両足に大怪我を負った。医者から告げられた『下半身不随』という言葉を飲み込むのにどれだけの時間を要したことだろうか。

 車椅子生活を送ることになった市子は家に引き篭もるようになり、ただでさえ白かった肌は病的なまでになった。髪も切らない。腰まで伸びた。生気もなくなった。眼も、どんよりと濁っていた。祖母が死んでから触らなくなった市松人形は埃を被ったガラスケースごしに市子を見つめていた。紅を差している分、むしろ人形の方が活き活きとしていた。

そして二度目の転機、これこそが市子にとって絶対の存在である、『彼』との出会い。親ですら見離しかけていた市子を、彼は拾い上げてくれた。必要だと言ってくれた。


「僕は君みたいな人をずっと探してたんだ」


 初めて彼の家に招かれたその日、市子はずらりと並ぶ市松人形を目にした。彼はいわゆる人形偏愛症のようなものらしかった。その中でも市松人形がいっとう好きで、街で見かけた市子の容貌と雰囲気に魅せられたのだそうだ。

「白い肌も、黒い髪も、光のない瞳も、動かない脚も愛おしいよ。僕が世話をしなければ君は車椅子から動くことすら出来ない。なんて素晴らしいんだ」

 沢山の市松人形に見つめられる中、市子はプロポーズされた。市子は少し悩んだ後、小さく頷いた。結婚式は彼のたっての希望で白無垢を着た。彼は仕事と家事を隙なくこなしながらも、市子の髪の毛から足のつま先まで丁寧に丁寧に手入れし、それを幸せだと何度も言ってのけた。

 新婚につきものな夜の生活は、最初少しだけ抵抗があった。

「夜の間だけ、本当の人形でいてほしい」

 そう懇願した彼は、市子を抱こうとしなかった。彼にとって人形とは神聖な物で、それを自らの手で穢すのを厭ったのだ。それでも鮮やかな着物を市子に着付け、全身を愛おしそうに触れたり口付けたりした。初日こそ固まっていた市子も、次の日には淡い反応を見せるようになり、小さく声を漏らした。


「声を出すな!!」


 頬を殴られたのはその一回だけ。あの豹変ぶりにはさすがに驚いたが、それ以後は彼女もなんとか堪えているので平和な夜が続いていた。人形は喋らない。よく考えれば当たり前のことだ。彼は人形と結婚したくて市子を選んだのだから、市子は声を出してはいけないのだ。

 そんな彼は、月に一度訪れる市子の月経が嫌いだった。『人形』である彼女から、生命体にしか流れない物が溢れることに、憤りを感じていた。市子から溢れる経血をざらりとした舌で舐めとることで、彼女の中から血液を全て排出できるかのような錯覚に酔っていた。より本物の人形に近付けたかったのだろう。

 そして今夜もまた、彼は市子を人間から遠ざけようと奮闘している。





 少し粗くなってきた呼吸を必死で整えながら、動く蜂蜜色を眺める。

 この部屋に時計はない。ただ、少し眠くなってきたところをみると、そこそこ時間は経っているのだろう。今日は限界だと、念入りに舌を動かす彼の頭を掴んだ。

 彼も分かっていたのか、すんなりと市子を解放した。立ち上がり、市子の頭を優しく撫でてからそっと口付ける。彼の唇は温かい液体に濡れ、錆びた鉄の味がした。

「この瞬間が一番好きなんだ」

 近くの戸棚から市子のショーツとナプキンを手に取りながら、彼は言った。

「ほら、より『彼女』たちにそっくりだろう?」

 彼は小さな鏡を見せてくる。そこに映った自分は、青白い、と言っても普段よりは赤味のある肌、長い黒髪、光のない瞳、動かない脚、それらを包む美しい着物。


 そして、艶やかな紅を差された唇。


 あぁ、確かに今自分はそのまま市松人形を模した存在だ。彼の求めているそれだ。そう思うと市子は酷く幸せだった。彼は市子に下着を履かせると、経血の染みたバスタオルを丸めて床に投げ捨てる。そしてそっと彼女をベッドに押し倒し、その横に寝転がった。

「おやすみ、市子」

 柔らかい力で抱き寄せられる。ふと、自分が小さい頃、熊のぬいぐるみを抱いて寝ていたことを思い出した。

 おやすみなさい。

 声には出さず、唇だけ動かした。自分が人間に戻るのは明日の朝からだ。せめて日の沈んでいる間は、彼の腕に抱かれる人形で居ようと思った。

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