初夏色ブルーノート
鈴ノ木 鈴ノ子
ごまかし女優のhappy end
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。ー初夏色ブルーノート 参加作品ー。
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初夏、辺若菜色の透き通るような緑から、色をゆっくり染めてゆき若葉色へと移ろいゆく。田圃や畑には新しき苗が植わり、新しき命が芽吹き、育つ様はカーニバルのようだ。
その合間の舗装されていない畦道を歩きながら、明子は額から流れる汗を拭った。水の張られた両側の田圃は、さながら大きな鏡となって晴天の空を映し出している。
実家の田植えの手伝いを終え、畦に生えた雑草を抜きに抜いて一仕事を終えた明子は、ゆっくりとその場へ腰を下ろした。草取りをしたからと言って数週間後には、元気よく再び生え揃うであろう姿を想像すると辟易としてしまう。
明子、今日はまあ、上がっていいぞ!
父親が遠くで大声をだした。便利な草刈り機でさっさと刈りを終えて、はるか先でタバコを吹かしている。
わかった!先に帰るね!
立ち上がって作業の手袋を取ると、形の良いお尻あたりをぱんぱんと叩いて汚れを落とし、両手を天に突き上げて背伸びをした。
穏やかな風がポニーテールに纏めた髪を優しく揺らして遊びながら吹き抜けていく。肩まで袖を巻くった半袖Tシャツにジーパンそして黒の野球帽、が最近の明子のスタイルだ。
180センチと言う高身長にバレーボールで鍛えた素晴らしい体型と可愛らしい小狐顔の見目麗しい容姿である。少し雪化粧を残した山々を背景に、彩り豊かな初夏色の畦道に立つ様は、旅愁を誘う元国鉄のポスターのようであった。
腹へったなぁ。
今先ほどの印象を全て台無しにすることを呟きながら、畦道をゆっくりと歩いてゆく。まあ、良い言い方をすれば穏やかな性格、時代遅れの父親母親からすれば、能天気に振る舞う馬鹿娘と言うことになるらしい。
ポケットに突っ込んでいるスマホが、場に似合わないポップなメロディを鳴らして着信を告げた。
はい、明子でーす。
相手を確認せずに出る。社会人になってだいぶ経つがこの癖は抜けない。
明子、今から暇?
親友の真紀子の甲高い声が聞こえてきた。今から暇?は何かあったのだろうか、心なしか声も沈んでいる気がする。
なにかあったんでしょ?
うん。ちょっとね…。
もしかして旦那?浮気された?
昨日も長電話をしたが、悩んでりしている節はなかった。となると、安易で下衆な考えで、昨年に盛大な結婚式を挙げた真紀子の、2歳年下の素敵な旦那さんが思い浮かんだ。
ゆーくんはそんな事ないです!
あっそ、でなに?
その歳でゆーくんは無かろうと突っ込まないのはせめてもの情けである。
スローフェレッセに居るんだけど、立ち寄ることできるかな?
駅の?
田舎駅の横に併設されている古い喫茶店が思い浮かぶ。高校時代はずいぶんとお世話になったものだ。
そうそう。
帰りがてらに郵便を出しに行く用事があったのを思い出す。まあ、その次いでに立ち寄ることくらいはできるだろう。
はいはい…いくわ。
ありがと。待ってるね。
ポケットにスマホを押し込むと、畦道を足速に下った。農道の脇に大型のハーレーが止められていた。
帰って寝ようと思ったのに。
愚痴を溢しながら服の袖を直すと、ハンドルに吊るしてあるヘルメットとライダージャケット、可愛らしいピンクの革手袋をつけ座席に跨る。
エンジンに火を入れるとハーレーの独特の重たい音と共に明子は美しい日本の原風景の農道を走り抜けていった。
古い木造駅舎横の駐輪場にバイクを止めると、喫茶店の出窓から真紀子が手を振っていた。
ジャケットとヘルメットを持って店内へと向かう。店内に入りカウンターのマスターに真紀子を指差して連れであることを告げて、彼女の対面席へと座った。
おまたせ。
早かったね。その格好だと草刈り?
そ、朝も早よから頑張りました。
マスターがお水とおしぼりを持って来たので、ブレンドを頼む。久しぶりに来たことで懐かしさのあまり店内を軽く見渡した。
電球焼けした天井に小天窓のよく分からないステンドグラス、少しくたびれたカウンターが時代を物語っている。古い食器棚には綺麗に磨かれたマイセンやオールドノリタケと思われるカップとソーサーがまるで美術館の展示品のように陳列されていた。古ぼけたスピーカーからはマスターチョィスの洋楽セレクションがあの頃と変わらず店内へと流れていた。
ここ、変わらないね。
そうかな?私はよく来ているからわかんないけど…。
2人の他には客はなく、マスターがコーヒーケトルからドリッパーへと昔見たままの仕草でゆっくりゆっくりとお湯を注いでいた。
淹れたてのコーヒーの香りが狭い店内を満たしてゆく。
で、どうしたの?
悪いのだけど、見るだけ見てくれる?
机の上に差し出されたのは、A4サイズを超える白い厚手の封筒だった。
なに?
真紀子はなにも言わずに開けるように手で促してくる。なにかを躊躇っている感じだ。
なによ?もう。
封筒の中には高級な白台紙が入っていた。もう、見ずとも分かってしまうが、開けば白衣姿の中々の好青年の写真が入っていた。
ごめんね。垂水病院の院長が明子に見せてくれって渡して来て…。院長の息子さん、今、東京だけど帰ってくることになってね。院長は明子を気に入ってるから、是非にとのことらしいの。
真紀子の勤め先でもある垂水病院は地域病院としてはかなりの規模で、この辺りの医療を支ている。垂水院長とは近くの酒場の飲み友達でもあったが、そんな話はチラリとも聞いていなかった。
真紀子先生、これは要らないわ。あの狸親父、直接持って来いっての。
不満を込めて嫌味を言ってやる。真紀子はその病院の内科部長でもある。
持って来たらOKしたの?
嫌味を聞き流して真紀子がにこやかに聞いて来た。
するわけないでしょ!
だよね…。それにまだ智昭のこと吹っ切れてないんでしょ?
う…うん…。
そう…。
お互いに事情を知っているだけに沈黙が生まれる。ちょうどの良いタイミングでマスターがブレンドを持ってきたので、淹れたての匂いを嗅いで一口飲んで取り繕うと、流れているジャズのアルバムが変わって哀愁漂うブルーノートの旋律が店内に聞こえてくる。
智昭と別れることになった東京の喫茶店で流れていたあの曲と同じだった。
あれから何年?
真紀子が卓上のコーヒーフレッシュを指先でコロコロと転がす。
10年かな…。
俯いてぽそりと答えた明子には先程までの元気はなく、そこには過去を悔いて震える羊が1匹いるだけだった。
そろそろ、踏ん切りつけたら?
つかないよ。あれだけのことして…幸せになるとか…私は無理。
か細い声でそう言うと、哀愁のジャズとコーヒーの香りがあの時の記憶へと意識を堕とした。
高校から一緒に進学のために上京した明子と智昭は、大学は違えど4年の付き合いを経て、卒業と同時に破局を迎えた。お互いに別れる気はなかったが、明子の事務所がそれを許さなかった。
在学中から読者モデルとしてデビューした明子は、女優へと転身しそれなりの経験を積んで順風満帆であった。智昭とは隠れながら密会して2人で逢瀬を楽しんだり、撮影中はたまに〇〇砲にビクビクしたりもしたが、それなりに2人はスリルを楽しんで関係を深めた。特に都内のジャズクラブへは足繁く通ってそのサウンドにうっとりしたもので、智昭はレコードまで買い揃えるなど凝り始め卒業間近にはクラブマスターと話が盛り上がるほど通になっていた。
転機となったのは明子が大河ドラマの重要な役に抜擢された時だ。事務所が別れるように説得を始め、最後には2人で相談している喫茶店に女性マネージャーが乗り込んできた。
貴方、立場を弁えて!いい加減にしなさいよ!ストーカーみたいなことしてんじゃないわよ!
ジャズの流れる店内にマネージャーの声が響き渡る。何事かと皆が注目すると、コップの水をかけられた智昭がいた。
貴方がストーカーしてるから彼女が困ってるの!いい加減にやめて離れてください!
矢継ぎ早に、ないことばかり、を大声で言っていく。明子が発言しようとする度に、私は貴女のマネージャーだから任せて!苦しまなくていいのよ。と甘い言葉で周りの同情を誘って一言も言わせなかった。
結局、明子はなにもできず、智昭も無言で喫茶店から出て行った。後を追いかけようと席を立つと、足指を皆に見えないようにマネージャーがヒールで踏み抜き、激痛のあまり意識の途切れそうな明子に、小声で、連絡を取ったら彼がどうなるか覚悟しなさいよ。と脅された。
その後はお決まりのように、監視されてマネージャーの指図通りに仕事をこなす事になった。徐々にオーディションに受からなくなり、稼ぎ頭から外れ、たまたま有名俳優に誘われて恋仲となったが、彼が麻薬で捕まると、マネージャーに呼び出されて後輩たちの居並ぶ前でこう言われた。
うちの事務所から出てって。アンタも麻薬、やってんでしょ。皆に迷惑をかけないでよね。
あの時の智昭のように水をかけられて怒鳴りつけられると、悔しさのあまり崩れ落ちた姿を見て、後輩達はポイントを得ようと口々に罵った。
結局、身体も精神もボロボロなって、別れる前の自分を取り戻すことができず、演技を続ける女優として故郷へと帰ってきた。
生きていれたのは死ぬことが怖かっただけで、元気な姿を、悲しそうな姿を、何気ない日常を過ごす姿を、毎日演じている。
流れる曲が終わる頃には笑顔を張り付けて、先ほどまでの元気の良い彼女に戻った。
でも、今は大丈夫だからね。
少し冷めたコーヒーを飲み干して気持ちを落ち着かせる。
そうかな?無理してなきゃいいけど。
渡して来た見合い写真を片付けた真紀子は、何事もなかったかのように少し話をすると、別れ際に手提げの紙袋を差し出した。
2、3日持っていて。自宅に置いてゆーくんに見られたくないから。
確かに既婚者が持つべきものではないな、と思いそれを受け取ると真紀子とはその場で別れた。
気分の落ち込みから帰る気にはならず、薄暗い無人駅の駅舎を抜けてホームに出る。
1時間に数本しかない駅舎は寂しい限りで人っ子1人いない。小さな光が灯るホーム中央の待合ベンチに腰掛けた。
疲れちゃった…。
別れてから10年の月日を改めて思い起こさせられ、感情の昂ぶりから紙袋をホームに投げつける。
封筒から中身が飛び出して開いたので、慌てて拾おうとしてその場で凍りついた。
なんで…。
写真は先程の白衣の男ではなく、若い男性と若い頃の明子のツーショットが写されていた。男性は精悍な顔立ちで、その笑みはいつ見ても色褪せない。
表紙の裏側に伝言が書かれているのを見つけて、恐る恐る拾い上げると1字1字を目で追っていく。
ー 明子へ。君に読まれていたら良いと思う。ー
ばか、こう書いてくる時は必ず読んで欲しい時だ。喧嘩すると大抵、こんな手紙が来ていた。
ー あの時は君を見捨てて逃げてごめん ー
智昭が悪いんじゃないよ。私のせいだよ。
ー もし、嫌いでないなら…連絡が欲しい ー
それは私にはそんな資格がないよ…。
ー あの歌詞を再び一緒に歌いたい ー
下には携帯番号とメールアドレスがあったが、2つとも付き合い始めて覚えてから一度も忘れたことなんてない。
ふと、駅舎の方からあの哀愁漂うジャズにつけた歌詞が懐かしい声で歌われた。あの歌詞も忘れてはいない、2人で考えたのだ。それにところどころ掠れる癖は未だに直っていないようだ。私も同じように口ずさみ駅舎へと駆け出す。
こんな私をずっと待ってくれていた、都合の良すぎる愛しい人に抱きつくと、しっかりと抱きしめてくれその腕は暖かく幸せそのものだ。
待たせてごめんね。今さっきこっちに帰ってきたんだ。
うそつき。真紀子にあれをお願いしたくせに…。智昭、あの時は本当にごめんなさい…。
謝らないでいいよ。あの時はああするしか無かった。僕に実力がなかったからね。でも、今なら明子を幸せにできる自信があるよ。
ずっと連絡したかった…でも…。
明子はずっと無理して演技してるだろ、僕は第1号のファンなんだから、どうしても素敵に終わらせたかったのさ。
ばか…。
仄かに明るい駅舎で再度しっかりと抱きしめ合い、映画さながらの雰囲気の2人はゆっくりと口付けを交わす。
ごまかしを続けた女優は、最高のフィナーレを迎えて幸せ一杯のあの頃の笑みを取り戻して、1人の女性として愛しい男の元へと還ったのだった。
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駅舎の影から、帰ったはずの真紀子がそっと覗いてカメラのシャッターを押した。
2人の幸せの門出の日、幸せの溢れる式場でエンディングの最後をその一枚は鮮やかに飾った。
。終幕。
初夏色ブルーノート 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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