初夏色ブルーノート(明子、現役JK編)

れなれな(水木レナ)

写譜

 白いハナミズキが風に揺れている。

 さやさやと、ゆらゆらと、時にスウィングするみたいに大きく。

 明子は大事な譜面帳を胸にしっかりと抱きながら、心に騒ぐ予感を打ち消されないよう天を見上げた。

 ペールブルーの空から、あたたかな日差しが降り注ぐ。

 今の時間ならば、空いているはずだ。


 ――これならば、この曲ならば、先輩もきっと喜んでくれる。

 すうっと引き開けたドアの重み。

 静かすぎる店内に、陰りはない。

「これで、ローマの祭りを、ローマの祭りをお願いしますっ」

 そこは、世界中の交響曲、映画のサウンドトラックからアニメまで取り揃えたマニアックなカフェ。

 コーヒー一杯で、好きな曲をリクエストできる。

 と言っても、コロナ禍のさなかだ。

 利用客は常連のみとなっている。

 明子はクラシックファンの九条智昭くじょうともあきに教えてもらった。

 九条は明子の所属するブラスバンド部の元部長だった。

 明子は――彼女はまだ音符が並んでいない五線紙を取り出し、きれいに除菌されたテーブルに広げた。

 これからローマの祭りを耳でコピーする。

 なんとしても、OBの九条の目に――耳にかないたい。

 座席に設置されたヘッドフォンをとり、再生を始める。

 先輩の教えでは、写譜は耳コピが基本だ。

 時間は限られている。

 さあ!


 年度が明ける前、明子たちはへまをやらかした。

 そのときの選曲はラプソディーインブルーだった。

 どうして、先達である聖子先輩たちが吹いた、同じ曲を選択したのだろう。

 うまさの差は歴然だった。

 二年の終わりに開かれた演奏会で、明子たちは引退していく先輩たちに対して、あまりに不甲斐ない演奏を贈ってしまった。

 悔やみきれない。

 だから。

 今度は、歴代の中でも行われたことのない難易度の高い交響曲で文化祭曲を飾るのだ。

 ――九条先輩が大好きだと言った、ローマの祭りを。

 光と影のゆらめく窓際で、コーヒーが冷めていく。

 明子は夢中で譜面をおたまじゃくしで埋めていく。

 他のメンバーたちは今頃先輩たちに内緒のまま、思い思いの場所で写譜をしているに違いない。

 それぞれが恋人のように慕っていた九条、いや智昭のために。

 負けない! 今度こそ――

 今度の演奏会は、まるごと先輩へのラブソングを贈る会になりそうだった。

 すべてはローマの祭りで。

 明子は思い返す。

 一年として入部した時から、九条は部長だった。

 三年になったからといって引退を待たずに退部しようとする指揮者をひきとめて、一緒に全国を目ざそう、おまえの力がみんな必要だ――そう言って土下座をした九条。

 だれかが弱音を吐けば、体ごとぶつかっていって励ました九条。

 一見チャラそうな軽いフットワークで浮名を流した九条。

 ――先輩。

 だけど、その実熱い血潮の野心家だったことを誰もが認めている。

 しかしその年、桜が丘高等学校はコンクールの全国大会へは行けなかった。

 急速に冷めた智昭の態度に、足を引っ張ってしまったんだと思った夏。

 そんな智昭に、二年の先輩が選んだのがラプソディーインブルーだった。

 それなりに難易度は高いが、ブラスバンドをやっていれば誰しも知っている曲だった。

 パートリーダーを務めていた相沢聖子によると、2020年にはパブリックドメイン――知的財産権が発生しない、消滅した状態――に入ったよし。

 だから、耳コピーでも問題なかった。

 ラプソディーもここで写譜した。

 先輩たちにまじって、それが自分の糧になるからと言われて、耳で聴けるようになったのだ。

 ぐすっ。

 一人、五線紙を見つめる目が潤む。

 鼻先からしずくが垂れる。

 九条先輩は明子のすぐ上の相沢先輩のことがお気に入りで、でも他に恋人はクラリネットにいて。

 その前はフルートだったりパーカッションだったり、弦バスだったり、ミス桜高ナンバー5からトップまでをすべて手中にしていた。

 見回してみれば、少なくない女子の中でその他大勢になっている自分が明子は悔しく、さりとて秀でた奏者でも美貌でもない自分がしゃしゃり出て――告白なんて、とんでもない。

 今の部活はそんな思いでいっぱいの女子がたまっていた。

 顔を合わせれば火花を散らし、嫉妬とライバル心をむき出しにした過去。

 今は過去。

 なぜなら、結局彼はミス桜高ナンバーワンではなく、音大へ一芸いちげい入学したクラリネットの同期生を選んだからだ。

 それを、たかだか一年一緒にいただけのヒヨッコ部隊がどうしてラプソディーインブルー。

 しっちゃかめっちゃかもいいところだった。

「もっとよく聴くんだね。それこそ一発で耳コピーできるくらいに、集中して」

 それが、智昭からの伝言――後輩に送られた言葉だった。

 背伸びもしよう。

 成長のためなら。

 音楽マニアの九条を、満足させるできにしてみせようじゃないか。

 しかし、三密禁止を無視して隣に座る阿呆がいた。

「何聴いてる?」

 指揮者の木村圭吾きむらけいごだった。

「ローマだよ。ちょっと、近い!」

「祭りか。ちゃんと聴くと長いよな」

 彼は明子のヘッドフォンを勝手にとりあげると、自分の耳に押し当てた。

「オレはラプソディーインブルー」

「なん――」

 なんで? それは先々月、失敗したじゃないか――

 言おうとしたら、

「リベンジするんだ」

 木村は不敵に笑ってヘッドフォンをした。

「ここの音質はスマホの比じゃないね。先輩が勧めてくれるだけあるよ」

 目をつぶる。

「写譜してるんだからあっちへ行ってよ」

「ああ、気にしなくていい」

「私が気にするんですう」

 ちっともどかない。

 あんぽんたん。

 どっか行け。

 たくぅ。

 同じテーブルのせいか、木村の肩越しにラプソディーインブルーが、アメリカンな民族楽曲が伝わってきそうだ。

「むかつくよなあ」

 木村が言った。

 ん? と思う。

 目をつぶったまま、木村。

「オレのプレイヤーなのに、女子全員あの先輩のことばっか」

 明子は吹き出した。

「そういうこと、言わなければ木村もいい線いってるのに」

「つまんないなあ。あの聖子先輩が想って選んだのがこのラプソディーだ」

 苦々し気な顔がほんっとうにつまらなさげ。

「部の女にはもう、安易に期待しないことにした」

「それって……」

「今年はオレの時代のはずなのにな……」

 愚痴ってる! 顔だけ美形な木村が! たいへんたいへん、珍しいものを見てしまった。

 明子はコーヒーを口にすると、顔をしかめた。

 冷えた苦みだけが口内に残る。

 コーヒー自体はコンビニの方がうまいと評判だ。

「マスター、コーヒー替えて。あと、曲も」

 ラプソディーインブルー。

 うん、悪くはなかったよね。

 引退する先輩を想って作り上げる空間は、芯から熱かった。

 泣いてしまった時もある。

 こんなとき、先輩だったらどんな風に言ってくれるだろう――しかし、今は自分たちが最上級生。

 もう、先輩はいないんだ。

 胸の底がすうすうして凍り付きそうな、こんな思いを聖子先輩もしていたのだろうか?

「みんな、通る道か――」

「おい、今何聴いてる?」

 木村が居心地悪そうに身じろいだ。

「ラプソディーインブルー」

「マジか、集中殺いでやろうとしたのに、なんで乗っかってくるんだよ」

 いいじゃない。

 明子は知らん顔して、

「ローマは写譜終わったから」

 それより、部員の集中を殺ぎにくるあんたがわからないわ、指揮者のくせに――

 あの壮大な交響曲の主題ローマの祭りは写し取った。

 今は懐かしのラプソディーインブルーで、コーヒーを飲み干す。

「足を引っ張るなよ?」

「そっちこそ、手を抜かないでよね」

 そうか、そうだ。

 今年は、私たちの時代なんだ。

 明子はひとつ息をつめ、のんだ。

「今年は、一回きりだもんね」

「あたりまえだ」


 譜面の入ったファイルを抱え、明子はどうということもなく家路についた。

 夕空に光る雲が薔薇色の未来を示しているかのよう。

 明子は自分が微笑んでいるのに気が付いた。

 あの何かに挑むかのような、ど派手に砕け散ったラプソディーインブルーを、誇らしく口ずさんでいた――


 -了-


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