恋慕の行き先

 長い長い梅雨が明けたのを歓喜するようにアブラゼミが騒ぎ、この時期しか見えない青々とした空に入道雲が鎮座している。この小さな町にも夏は来た。俺の夏もこれで十六度目になるが、いまだにこの突き刺すような日差しには慣れない。体が水を欲すれば欲するほど汗が拭き出す。坊主頭で良かったと思うのは今くらいだ。何しろ拭く髪がないので、手間がかからない。俺は自転車を漕いだ。


 俺は一種の超能力を生まれつき持っている。矢印の形をしたホログラムが他人の頭上に表示される、というなんとも私生活に支障をきたす不便な能力だ。大人になるにつれ、周りの同級生にもその矢印が現れてくるようになってから始めてその矢印の正体を知った。俺は、他人の恋慕が可視化されている。

 他人の恋愛に口を出す、というのはふつう避けて通るべき行為なのは言うまでもない。しかしそれが否が応でも見える、というのはなんとも忌々しい。俺は神に嫌われているみたいだ。

 先日朝のワイドショーである芸能人夫婦が出演した。おしどり夫婦の熱愛生活、と堂々と掲げられたテロップとともに一笑千金の若手女優とともに丸々と太った大御所芸人が画面に映った。が、俺の能力は液晶を通しても発動してしまう。芸人の矢印は真横だが、女優の矢印は司会のイケメン俳優を向いているではないか。安い昼ドラでありがちなドロドロの愛憎劇。知らぬが仏とはよく言ったものだ。

 そうこうしているうちに学校に着いた。柔道着を詰めた巾着袋を抱え、柔道場へ向かった。

 雑念を混ざったので受け身に失敗した。腰辺りがジンジンする。

「おい本郷、集中しろ集中」

思わず坊主頭を軽く掻いた。俺、本郷雄一はいわゆる木偶の坊で、柔道だけが唯一の特技なのでこれを疎かにするわけにはいかない。

「すまん」

組み手相手をしてくれている相原は怪訝そうな顔で柔道着の帯を締めた。ひょろっとした体躯と丸メガネは、一見弱々しいが良い投げをする。俺も体が大きい方ではあると思うのだが、それでも軽々と技を決めてくる奴には感服させられる。柔道部キャプテンとしてリーダーシップを発揮している良い友人だ。 

「なんだなんだ。悩みの種はもしかして女かお前」

「いやいやいや、そんなんじゃねぇよ」

「まぁいいや、とりあえず集中しろ、大会近いんだからな」

「応」

ビターン、ビターンと鋭く重く、投げの音が体育館中に響いている。けたたましく鳴くアブラゼミも暑さを増長している。先日生徒会の尽力でクーラーの設置が決められたものの、到着はなんと数ヶ月後。そんな報告に、運動部員は皆落胆していた。

 そろそろ昼だ。相原の矢印がゆっくりと動き始め、遂に体育館入り口を向いたのちピタリと止まった。柔道部マネージャーの穂波が何本かのペットボトルを抱え部員の方に歩いてくる。

「相原君、本郷君、差し入れ」

相原と穂波の矢印がピタリと向き合った。彼らは最近付き合い始めたらしい。相原の顔はもうデレデレで、穂波も顔が真っ赤だ。穂波はよく焼けた肌とスラッとした細身にも関わらず去年までレギュラーだった。怪我さえなければ、マネージャーにしておくには惜しい人材だ。そろそろ完治するらしく部一同密かに期待しているのは言うまでもない。

「イチャコラするのはもっと陰でしてくれないか」

小声で囁き、肘で突っつく。

「そんなに顔に出てるかなぁ….。本郷」

目もとろんとしてるぞ馬鹿たれ。練習中の引き締まった顔はどうした。

 俺達が座る横に、穂波も座る。まぁ相原の横なわけだが。

 



 何度もトレーニングを繰り返しているうちに、日が沈んできた。相原達は家が近いのでまだ練習を続ける気らしい。俺は荷物をまとめ、穂波に体育館の鍵を預けた。家が遠い、というのはとても不便だ。交通機関の事情にすぐ左右されてしまう。いざとなれば十キロをママチャリで駆けるしかない。そうなった時のために、鍛えねば。

 ああ、蜻蛉と蝉と麦と向日葵とこの時期は人も虫も獣も草も木も忙しい。だが俺はその騒がしさが妙に心地よかった。あちこちでは祭りの準備が進んでいて、明後日行われる花火大会に皆心躍らせていた。

 こんなにも世界は広いというのに、未だに俺を好いてくれる人間に会ったことがない。今好きな女性には矢印が無いのが唯一の気休めだ。ため息をつきながら、自転車を駐輪場に停め改札に入った。


「雄一くん、こんにちは」

食い込むような日差しに意識を

「栞と恵子か。生徒会お疲れ様」

「兄ちゃんは柔道部の練習? 」

「ああ、そうだ。エアコンの件、助かったよ栞」

「うん。良かった」


 —————————————————————————————————

 もうこんな時間か。学校中の生徒のいくつかの矢印が駅方向に動きだした。皆帰り始めたみたいだ。なんとか大変な仕事は片付いた。夏休みにも駆り出される生徒会はやはりブラック部活だ。高校だけあって年間のイベントが大変多く、生徒会を筆頭に全役員が多忙を極めている。最後の書類にハンコを押し終えた会長に声をかける。

「栞会長、もう時間です。お疲れさまでした、帰りましょっか」

「もー、栞姉って呼んでくれないの?恵子ちゃん。十年の仲だってのに」

真面目そうな見た目なのにこういうとこはルーズだ。実際真面目なのだが、少し抜けている所もある、そんな生徒会長は私と兄の幼馴染で、まだ私たち一家の能力の話はしていない。仕事の出来る人で、自慢の先輩であり姉のような存在だ。

「いやです。もう高校生なのにその呼び方は子供っぽい」

「え~....。恵子ちゃんのケチ」

栞姉はムッとしながら眼鏡を少し上げた。

「もう。いいから帰りますよ。会長」


 駅に着いた私達は兄を見つけた。

「雄一くん、こんにちは」

「栞と恵子か。生徒会お疲れ様」

「兄ちゃんは柔道部の練習? 」

「ああ、そうだ。エアコンの件、助かったよ栞」

「うん。良かった。」

栞姉は軽く微笑んだ。生徒会の尽力なしではあと数十年は設置されなかっただろう。栞姉の手腕なしでは成しえなかった。公立高校は予算がカツカツで、上手くやりくりした結果の体育館のエアコンだ。栞姉はもっと胸を張っていいと思うけれど、きっと鼻にかける事はないだろう。私は何故、栞姉が必死にエアコンを設置するように頼んだか知っている。やっぱり、愛は盲目なのだ。

 三人とも降りる駅が一緒なので誰かが起きていれば乗り過ごすこともない。

「ごめん恵子ちゃん、私眠い....」

「後で起こすから平気。」

「ありがと....」

数分で寝てしまった。膝枕までしてあげる気はなかったけれども。仕方ないので、最近頑張った会長へのねぎらいとして私の膝を提供してやろう。

 沈黙が続いた。何人かが乗り、そしてまた何人かが降りていく。がたんごとんと同じリズムで電車が進む。夏はレールが暑さで膨張するので、車輪が次のレールに乗った時の音が小さい。

「なぁ恵子。」

「なに。兄ちゃん。」

「夏祭りの日って生徒会無いよな」

「無いけど。何なの。」

「いや、その、あれだ。ああ、うん」

「もしかして、栞姉誘うの? 」

「!!!! 」

「ああ、そうなんだ。ふーん」

兄の頭上の矢印は私の膝の上の女の子に向いている。

「本気? 」

「栞が俺なんか眼中に無い事なんて知ってる。でも、諦めたくないんだ」

「へー。それで? 」

「頼むッ。この通りだ。栞を祭りに誘ってくれないか」

「自分でしなよ、ばーか」

あっかんべー。

 私は栞姉のおでこを軽くデコピンした。寝たふりなんてしても耳が真っ赤だぞ。二人とも本当に馬鹿だ。私には兄に教えていないこの能力のルールがある。この矢印は、物凄く薄いので真正面と真後ろからだと全く見えない。つまり、能力者は、本人を好いてくれている人の矢印が見えない。だから、兄ちゃんは栞姉の矢印が無いものだと思い込んでいるわけだ。

 この状況が物凄く面白いので、私は二人のうちどちらかが想いを伝えるまでこのルールは兄ちゃんには黙っておこうと思う。


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短編集 風来坊 @rinta619

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