私の知らない母が死んだ。
氷堂 凛
私の知らない母が死んだ。
今日、私の知らない母親が死んだ。
何の変哲もない毎日に飽き飽きさせられながらも、刻は過ぎ、戻りはしない。高校生という青春の一ページをロクに刻む間もなく、私は受験生になった。だからといって、何かが変わるわけじゃない。ただ、人生の通過点として勉強を強いられ、適当に近くの大学を志望する。楽に生きる方法ばかりを探して、進路を選ぶ。
「ようちゃん。志望大学は決まったの?」
こんな会話を人は違えど、基本的に毎日繰り返している。退屈だ。
「冷泉大学にするよ。家から近いし」
「あら、冷泉大学にするの?!でも、あそこそこまで偏差値高くないわよね?何かやりたいことでもあるの?」
お母さんは、高校を決める時にも私の意志を尊重してくれた。私に関することでは、パンケーキもびっくりなくらいの甘々具合である。今回も、やりたいことがあるといえば反対はしないだろう。
「うん」
ある意味での嘘をつき、簡潔な返事だけをして、私は家を出た。
「したがって、この数式は成り立たない。わかるな?」
学校の授業にも特に身が入ることはない。先生の解説を聞き流しながら、シャーペンをくるっと手の上で一回転させる。
こんなことをしていても、テストで欠点を取ることはないし、落第生になるということもない。私にとって、人生はイージーゲームすぎる。両親は中堅大学の出身で、その遺伝系統をみても、私自身地頭がいいわけでもないが、勉強には苦労しない。ほんとに退屈な世界だよ。
「ねぇ洋子……さっきの板書、見せてくれない?」
「ほんとに明美は……いいよ。パパッと写しちゃいな」
「さっすが!ありがとね!」
私にとって血縁関係を持っていない人間としては、一番近い存在である明美に、聞き流しながら乱雑にとっていた解説を書いたノートを渡す。
どこをとっても、あたたかい人間であり、清純無垢という言葉はまるで彼女の為にあるかのようだ。そんな彼女だからこそ、この別に一人でも生きていけるイージーモードの世界においても、仲良くしたいと思うのだ。
「でさ、洋子は進路調査書かいた?」
「書いたよ」
「どこ?」
「冷泉」
「冷泉?!洋子ならてっきり、旧帝くらい目指すものだと思ってた」
「勝手に期待されても困るのだけど」
「だって、洋子前の模試でB判でてたじゃん!冷泉だったら余裕すぎるんじゃないの?」
「偏差値だけじゃこの世の中は図れないよ」
それっぽい言葉を投げつけ、明美を黙らせる。適当に進路を選んでいる私にとってこの手の話は苦手だ。
「明美はどうなのさ?」
「……え?私?!私は、国立いけたらいいかなぁ……東京の私立大学もいいかなと思ってるけどね。とにかく、国際学が学べればいいかな~」
「国際学ねぇ……」
学びたいことがあるとは、羨ましいものだ。一応一通り学部については調べたが、どれもパッとしない。医学も経済学も社会学も……
「私、CAになるのが夢なの!飛行機の中ではお母さんみたいな役割でしょ?すごく憧れない?」
「私は憧れないけど……というか、この話もう何十回も聞いた」
「あれ?そうだっけ?」
「もうボケはじめてる……そんなんでCA務まるの?」
「だ、だ、だ、大丈夫だよ!なんて言ったって、私だよ?」
「そうでしたね。天涯不滅の明美様でしたね……」
一人で笑う明美。明美は同級生ながらも私の尊敬する人間の一人だ。どこまでも楽観的で先だけを見続けている。目の前の選択すらうやむやにするアインザームな子羊とは違うわけだ。
「ただいま」
「おかえりぃ~」
「…………」
いつも通りそっけない態度で足早に自室へと向かう。
別に何があるというわけでもない、思春期の至りというかなんというか……
「はぁ……」
終礼で配られた前回の模試の結果を右手にため息をつく。
「今回もか……」
冷泉はもちろんA判定の模試で冷泉大学を志望した中でも一位。
オススメの大学には旧帝や私立の医学部ばかりが並ぶ。勉強なんてできてもなんの得もない。だってやりたいことが無いんだもん。
担任は言った。人生の選択肢を増やすために良い大学に入るべきだって。生憎そんな詭弁を聞く耳を私は持ち合わせていない。明日死ぬかもしれない。いや、なんなら今スグ死ぬかもしれないんだ。それなら今を楽にいきたほうがいい。
時計は19時を指す。
飯時だ。受験生とはお世辞にも言えないぐらいにダラダラして、半ばだるそうに階段を下りる。
「今日は、ようちゃんの大好きなハンバーグだよ!」
「うん」
なんだろうか。返事すら面倒くさくなってきた。
「いただきます」
「どうぞ」
お母さんは憎いぐらい満面の笑みで私をみる。
「何?」
「いや、ようちゃんがおいしそうに食べてくれるからお母さん嬉しくって……本当にたくましくなったなって……」
「急にどうしたの……何か照れるじゃん」
さっきまでの笑みとは正反対に、感激しているのかなんなのか涙を浮かべるお母さん。
なんだろうか。照れ臭いな。
「お母さんも早く食べなよ。冷めるよ?」
「うん!……あちゅ!」
「急いで食べるから、そうなるんだよ……まったく……相変わらずだね」
「母さん、せっかちなのだけは昔から直らないなぁ……でも、ようちゃんの笑ってる所久しぶりにみれてよかった」
「え?」
『久しぶりに』その言葉が胸に刺さる。適当に毎日を生きていたからこそ、笑う事もずいぶん長い事なかったみたいだ。なんとも親不孝な娘だよ……ほんとに。
でも、そうか。私はまだ笑えたんだ。
「ありがとうね。お母さん」
なんともいえない気持ちに陥って、思わず感謝の言葉が口に出てしまった。
「そんな……こちらこそありがとうね」
「…………アハハ、なんだかおかしいね」
「そうだね~!」
こうして笑いあったのはいつぶりだろうか。
こうしてお母さんと向き合ったのはいつぶりだろうか。
リンリンンリリリン♪
「お母さん、電話なってるよ」
「はいはい。ただいま……ッッ」
着信先をみるや否や、顔色を変えてお母さんはリビングを飛び出した。
「……?」
そんな姿をみるのははじめてだった。
少し心配になりながらも、ハンバーグを一口。また一口と口に運ぶ。
私は決してハンバーグが大好きなわけではない。お母さんのつくるハンバーグが大好きなんだよ。
リビングの扉がゆっくりと開く。
「お母さん、先食べ終わっちゃったよ~」
「ようちゃん。すぐに着替えて車にのって」
「……?どこかいくの?」
「話は車の中でするわ」
せっかちな母とは言えど、それくらい説明してくれたって……
いわれるがまま、余所行きの服へ着替え車に乗りこむ。
すっかり夜のとばりは落ち、月と星が雲間から輝いている。
「でさ、どこにいくの?」
どこか急いでいるお母さんに声を掛ける。
「…………」
返事はない。
「ねぇ、お母さんってば」
「え?あ、ごめんなさい」
「で、どこへ行くの?説明してよ」
「そうよね。いつか話さなきゃって、思ってたんだけどね」
「いつか?」
大きなため息をつく母。
「そういつか」
なんだか寂しそうな顔をしたお母さんの姿があった。
「これからいう事は冗談でもなんでもない。現実の事としてしっかりと受け止められる?」
ここで耳をふさいで逃げるという選択肢もとれる。だが、ここでその選択肢をとる気にはなれなかった。というか、とってはいけない気がした。
「うん」
「実はね……ようちゃんは……」
「私とは血縁関係にないの……」
「え?」
予期していた事象を遥かに越えて行った。
私とお母さんが血縁関係にない?一体……
「そうよね。動揺するのも無理ないわ。ごめんね。今まで黙ってて」
「お母さん……?じゃあ、あなたは?
目の前で運転している人をお母さんと呼んでいいのか。それすらも分からなくなった。
「私は、あなたが幼い時に貴女の父と再婚しただけの、いわば育ての母なのよ」
「育ての母?……分からない。嘘だよね?」
「嘘じゃないわ。さっき冗談じゃないっていったわよね?」
現実を受け入れられないってのは、こういう事をいうんだね。
言葉の意味をひしひしと感じる。今までの17年間と数刻が嘘のように感じる。
「じゃ、じゃあさ、私の産みのお母さんはどこにいったの?私を捨ててどこへ行ったの……?」
声が震えているのが自分でも痛いくらいにわかる。
「今から行くところにいるわ」
「い、い……今から?」
「そうよ。今から」
急に言われたって、そんなの私……私、どんな顔して会えばいいかわからない。
「大丈夫。そんな怯えることないわ。なんていったって、あなたの本当のお母さんなんだから」
「でも……そんなのってないよ……」
目の前にいる母に対する気持ちと、今から会う本当の母親への想いが交差して、グチャグチャになる。感情という概念が一気に壊される音がした。
「もうすぐ着くわ。降りる準備をして」
「え?ここは……」
私も何度かお世話になったことがある、隣街の大きな大きな総合病院だった。
「杉浦様。お待ちしておりました。車はこちらで預かりますので、おはやく」
病院につくなり、研修医のような男性に車を預ける。
「……杉浦?」
「こちらです」
聞き馴染みのない名前に困惑しつつも、若いナースさんに案内されるがまま早足で進む。
そしてついたのは1102病室。この病院の最上階にして、貴人のみ入院が許される場所だった。
【1102号室 風岡 佑奈】
そこに書かれていたのは、私と同じ苗字の女性の名だった。
「佑奈先輩!!!」
「…………智子さん」
育ての母が産みの母親に駆け寄る。
「……………あっ」
佑奈さんこと、私の母親と目線があう。
「そう……。洋子……大きくなったわねぇ……」
柔和な笑顔という言葉がしっくりとくるくらい優しい笑みを浮かべた母親の姿がそこにあった。
私は何も返事をすることが出来ないまま、側によった。
「洋子……今まで黙っててごめんな」
状況を整理に手間取っていて気づいていなかったが、私の父も同じ部屋にいた。
「………お母さん……お、お……」
うまく言葉が出ない。
「お…………お母さん……」
「なぁに」
佑奈さんの……お母さんの……本当の母親を目の前に、思わず視界が滲む。
「なんで、どうして……」
「そうよね。ごめんね洋子……こんなお母さんでごめんね……」
「どうして、私を……」
もう脳のリソースが追い付かない。
「…………ずっとあなたに会いたかった。でも、会う事が出来なかった。だって、あなたを不幸にしてしまう事がわかっていたから。元気な洋子でいて欲しかった。私なんて人間の事を知らないまま生きて欲しかった。でも、やっぱり我慢できなかったわ」
そのお母さんの何とも言えない表情を見るや否や、目で保たれていた涙は涙腺を飛び越えて決壊した。
「ねぇ、洋子……お母さんの……最初で最後の我儘聞いてくれるかしら?」
少しずつお母さんの声量が小さくなっているのが分かった。
「……うん」
震えながら返事をする。
「私の手を握ってくれるかしら」
そういうと、点滴など色々コードが絡まっている手を布団からそっと出してきた。
「ん…………あったかい。洋子……あったかいよ」
何も返事が出来ない事が辛い。自分のコミュニケーション能力をひどく呪う。
「そっか……もう来ちゃったみたいね。これで私のやり残したことはないわ……杉浦……智子さん……長い間、私の代わりを務めてくれて……ありがとうね。これからも、よろしくね……」
「佑奈先輩……私こそ、貴女には言葉で表せられないほどのモノを貰いました!先にいっちゃうなんて寂しい事言わないでくださいよ!!!!」
子供のように泣きじゃくるお母さんと、またもや柔和に微笑むお母さん。
「正人さん……私たち幸せだった?」
「あぁ……間違いなく幸せだった」
「そう。奇遇ね、私も……そう思って…………いたところよ」
「全く。君とはいつだって気が合うんだから」
「最期まであなたといれて、私は楽しかったし、幸せだった。愛してるわ」
「俺の方こそ……君と人生を歩めたこと。誇りに思うよ…………ありがとう」
いつも冷静な父が涙を浮かべながら、お母さんと軽いハグを交わす。
「さてと……洋子……貴女を産めて私はすごく嬉しかった。こんなにも立派に育ってくれているんだもん…………私の自慢の娘よ………………これからも二人のいう事を聞いて立派に育つのよ……」
「うん。母さんの自慢の娘らしく、立派に育つよ!」
さっきまでとは打って変わって、スラスラと言葉が出てくる。
「そう……その調子よ…………貴女に母さんと呼んでもらえるなんて夢みたいね………………大好きよ。洋子……………………」
ピィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ
お母さんの命のバトンがここで尽きた。
目の前で、私の知らない母が死んだ。
昨日までは他人だと思っていた、母が死んだ。
私の大切で大切な母がこの世を去った。
「お母さん……ありがとう。あなたの娘であれてよかった」
涙が次から次へと流れてくる。まるで自分の目じゃないように制御が利かない。
廊下から眺めていたナースさんや、死亡確認をしに来たお医者様までもが揃って泣いていた。
あぁ、そうか。もうお母さんと会話を交わすこともできないのか……
それならもっと早くから、お話したかった。何一つ想い出がないこんな関係……辛すぎるよ……もっとお母さんと触れ合いたかった。もっと、お母さんとどこかへ行きたかった。もっと……もっと、お母さんに褒めてもらいたかった……ッッ……
「さ、一度病室を出ようか……」
病院側としても色々処理があるらしく、父と智子さんと一緒に病室の外へ出る。
「洋子。実は母さんな……」
涙ぐみながらも父が口を開く。
「ここの病院の女医さんで、海外でも名の知れたお医者さんだったんだ」
通りでここの病院のみんなが泣いているわけだ。
「凄いめぐり合わせだと思うけど、僕と出会って、結婚して、君を産んで」
「…………」
「でもね。君を産んですぐに悪性の腫瘍がみつかって、元から体の弱かった彼女にとっては深刻な問題だった。その時から命の期限が決まっていたんだけどね。その時には10年がいいところだろうっていわれてたんだよ……でも、成長した洋子を一目みるまでは死ねないって……」
「…………」
「そしたら、16年も頑張ったんだよ。でもさ、最近になって、やっぱり洋子とは会わないって言いだしてさ。君には私の事を抱えさせたくないって……どこまでも自己矛盾で我儘な女だよ。でも、僕はね。洋子に佑奈と会って欲しかった。だって家族だろ?会わないまま死ぬなんて寂しすぎるよね」
「…………」
「母さんは立派な人間だ。多分君の賢さも、我儘さも、全部佑奈譲りなのだろうね」
そうか……この地頭は母さんから受け継いだものだったんだね…………
「佑奈は、一女医としても、一女性としても優れた人間だった。もちろん母親としても……」
「……母親」
「彼女はそうは思ってないだろうけどね。君を想っていたからこそ会わないという選択肢を取った。僕とも佑奈とも交友があった智子に君を任せることを選んだ。どんなに辛い選択か……君ならわかるだろう?」
「…………」
「だから彼女は、君に愛情という大きなものだけを残してこの世を去った。君……ううん。洋子は佑奈にとっても、僕にとっても大切でかけがえのない存在なんだ。どうか、父として、そして佑奈の夫として君にお願いしたい。彼女の意志を。彼女の残したものを大切に生きてほしい」
「お母さんの意志……想い……」
その瞬間、私の中の忘れられていた歯車がまた動き出したような気がした。
「今はまだ、お母さんに到底及ばないけど、私……やってみる。お母さんに又自慢の娘だって思ってもらえるように頑張る!」
涙を拭いて、自分の中で最大の笑みを浮かべる。
私は出来る。お母さんになんて負けない。
なんていったって、私は…………お母さんの自慢の娘だもん
「……あった。やったよ。お母さん……」
冬もおわりかけ、ちらほらと新たな芽が息吹きはじめる頃。
私の一つの目標が……たった一つの通過点にたどり着いた。
「お母さん……私、貴女と同じ女医になれそうです」
国立〇〇大学医学部医学科 合格 風岡 洋子
私の知らない母が死んだ。 氷堂 凛 @HyodoLin
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