海とレモネード

ささなみ

海とレモネード

 船から見る海は、私の知っている海とは全然違った。覗き込めば底まで見えてしまうんじゃないかと思うような綺麗な海が、目の前に広がっている。

 沖縄の海は澄んでいると聞いたことがあったけれど、あれは本当だったんだな、としみじみする。

 オフィスワークで重度の眼精疲労を抱えた私の目に、コバルトブルーが沁みてうっすら涙が滲んだ。

 しぱしぱと瞬いて手元のガイドブックに目を落とす。いたずらにパラパラとめくってみると、島のかき氷特集のページが開いた。オレンジやターコイズなど、色とりどりのかき氷が並んでいる。


 小さい頃、家で食べるかき氷は必ずイチゴ味だった。本当はずっとレモンが食べてみたかったのに、イチゴ以外は不味いと言う親の前では言えずにいた。

 どこの店だったか、一度だけレモンのかき氷を食べたことがある。ザクザクと荒く削られた氷のてっぺんからかけられた黄色いシロップのすっきりとした鮮やかさと、頬の内側が冷たく痺れる中にじんわりと広がる甘さだけを覚えている。


 私はガイドブックを閉じて、再び青い海に視線を向けた。これから久しぶりに会う友人が、今この瞬間もこの海のどこかに潜っているかもしれないと考えると、自然と顔がにやけてくるのだった。



 久しぶりに会う那海なみは、こんがりと日に焼けていた。


「耳抜きはこまめに。呼吸は吸うことより吐くほうを意識して」


 すっかりベテランみたいな顔をして、ダイビングの注意点について流暢に説明していく。


「私が動かすから。望帆みほは体を預けるだけで大丈夫だからね」


 背後でスーツのファスナーを引っ張りながら言い含める那海に頷く。装着されたボンベはずっしりと重く、こんなものを背負ったまま泳げる気は全くしなかった。


「よし。じゃあ行こうか」


 船の縁に腰かけ、後ろ向きに、恐る恐る後ろに傾いていく。ちらりと見た那海の顔は真剣そのもので、仕事中はこんな顔するんだ、と、誇らしいようなくすぐったいような気持ちで思わずにやけた。


「ほら、前向いて」


 返事をしようとしたが、レギュレーターをくわえた口はまだ思うように声を出せなかった。黙って前を向くと、抜けるような青空がマスクのレンズ越しに見えた。


 __あ、さすが南国は空も綺麗な青。


 そう思った瞬間、ボンベの重さに引き摺られ、体が海に落ちる。

 どぽん、と海面を通り過ぎた後は無音だった。

 慌てて息を吸おうとするが、簡単にできると思っていたその行為は、予想に反して上手くいかなかった。喉の奥が詰まるような感覚に、ざあっと血の気が引く。

 軽くパニックになってもがいていると、がっちりと体を掴まれた。海面の上に顔を出すと、


「落ち着いて吐く。大丈夫だから」


 耳元で那海の声がして、ふっと体の力が抜けた。


「何回か練習しようか。大丈夫、すぐ慣れるよ」


 永遠に呼吸できなかったらどうしよう、という不安は、何度か顔を浸けて練習をするうちにすぐ消えた。



 海の中は無音で、無重力の世界だった。

 色とりどりのイソギンチャクや珊瑚の上を、ウミガメが優雅に泳いでいる。その後ろ姿を見送って、竜宮城への道ってこんな感じなんだろうなあ、と思う。一番目につくのは茶色い珊瑚で、茶色いのにアオサンゴっていうんだ、と那海が言っていた珊瑚に違いなかった。

 私にぴったりと寄り添った那海が、頭上を泳いでいく魚の群れを指差した。見上げると、私たちが吐いた泡が海面めがけて昇っていくのが見えた。小さく不揃いなガラス玉がたくさん連なったようにきらきらと、綺麗に二筋、並んで昇っていく。

 那海に差し出された魚の餌を受け取ると、あれよあれよと魚が寄ってきて、あっという間に視界が縦縞の魚の群れに覆われた。多分、水族館でよく見る魚だ。しまうまみたいだなあと思って可笑しくなる。

 縦縞の中にチラチラと、蛍光色のイエローが見え隠れする。目が覚めるような黄色に思わずレモンのかき氷が食べたくなって__突然、あ、と思い出した。

 ゴポ、と大きな泡が一つ生まれた。レモンのかき氷。



 那海の実家は高台の上の斜面に建っていて、有名な建築家と一緒に建てた注文住宅らしかった。当時小学校低学年だった私に注文住宅の意味はわからなかったが、お母さんがしょっちゅうそう言っていたので覚えた。お母さんは私が那海と遊ぶことにいい顔をしなかったので、習い事の合い間を縫って彼女の家を訪ねていた。

 那海の家のリビングは天窓が水盤になっていて、揺らぐ光が壁をつたって床一面に広がっていた。ゆらゆらと揺れる光の海の底で、私たちはいつも、魚の図鑑や海の写真集を一緒に覗き込んだ。実は私は海に特別興味があるわけではなかったのだけれど、那海が無邪気に写真を眺めている時間を共有できるのは嬉しかった。


「かき氷食べる?」


 光の揺らめきの中、突然那海がぱっと顔を上げて、嬉しそうに言った。

 確かあれはお習字のお稽古が急にお休みになって、いつもより長く那海の家にいられた日だった。


「うん」


 家ではかき氷なんて滅多に食べられなかったから、私はびっくりして頷いた。


「いいの? 勝手に作っても」

「いいよいいよ」


 スキップしながら台所に行き、何やらガタガタと大きな音をさせた後、那海は腕にかき氷の機械を抱えて戻ってきた。よいしょ、と床の上に置くと走って戻り、氷と食器も持ってくる。


「わぁー」


 差し出された氷の袋から、恐る恐るひとつ掴み出し、機械の上から落とす。手を離すと、氷は指先に少しひっついてから落ちた。


「一気に入れるよー」


 冷えて痛くなった指先を擦っていると、那海は袋を逆さにして、残りの氷をざあっと流し込んだ。


 ガリガリガリガリ、と轟音を響かせながら、青く透きとおったガラスの器に削れた氷が降り積もっていく様子を、私は目を丸くして見つめた。器の外に飛び散った氷の欠片は、あっという間に溶けて水滴になった。

 出来上がった氷の山を、ほー、と感嘆の吐息を漏らしながら、あらゆる角度から眺めた。

 ふと那海を見ると、彼女は黄色く透きとおった液体を湛えた瓶を手にしていた。


「なあに、それ」

「レモネード」


 とぽとぽと音を立て、氷の山にレモネードが注がれる。蜂蜜レモンの甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。てっぺんの氷が少し溶けてなだらかになった氷の山にざっくりとスプーンを突き刺して、那海はいたずらっぽく笑った。


「私の好きな魚の色」



 は、と我に返ると、魚たちが最後の餌を食いちぎって持っていくところだった。餌がなくなって散っていく魚を目で追うと、海面から揺らいで降り注いでくる光が目を刺した。

 眩しさに思わず目を細める。隣を見ると、いたずらっぽい目をした那海と目が合った。那海の目がくるんと光って細くなる。光が那海の上に落ちて揺れている。

 私の記憶の中の那海は、いつも海の中にいるなあ、と思う。私もずっとここにいたい、とも思う。


 新卒で入った会社を休職して、なけなしの貯金を崩してこの島に旅行に来た。心が躍るような何かを追って、ここに来た。


『会社、休み?』


 昨日電話した時、那海は驚いたようにそう聞いた。短く、うん、とだけ答えた私に、那海はそれ以上何も聞かなかった。

 私はいつまでも那海と同じ海の中にいるようなつもりでいる。それが無理なことは、とっくにわかっていた。新しい海に漕ぎ出すべき時は来ている。

 那海に、私は何を話すべきだろう。

 彼女は、あのかき氷を覚えているだろうか。



 船に上がると、急にボンベが信じられない重さに戻った。思わずふらつきそうになって踏ん張る。


「はい」


 ペットボトルに入ったお湯と、あたたかいお茶を手渡される。がたがた震えていると、那海がペットボトルをウェットスーツの首から手際よく滑り込ませる。ペットボトルが触れている部分からじんわりと融けるようにあたたかさが広がってゆく。


「どうだった? 海の中は」

「綺麗だった。来てよかったあ」


 にへら、と笑った私に、それはよかった、と言いながら外した装備をてきぱきと片付けていく。私はお茶の容器で両手をあたためながら、その背中を目で追う。


「レモンのかき氷、食べたくなったな」


 ぽつりと零れた私の呟きが届いたのか、那海が振り返った。あは、と白い歯を見せて笑う。


「レモネード買いに行こっか、望帆」

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海とレモネード ささなみ @kochimichiko

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