Another story―Like a rose in light

 薔薇の、いい匂い。

 ふぅわりと霞みがかったようで、はっきりしないけれど、でもとても綺麗な匂い。おとうさまに言ったら「それを美しいと言うのだよ」と言われそうだわ。

 赤、白、ピンクに黄色、紫も。花弁に浮かんだ朝露がダイヤモンドみたいにきらきらしていて、まるで宝石を上品に身につけた女の人のよう。

 いつかわたくしも、こんな風に立派な淑女レディになれるのかしら?

「きっとなれますわ、リュミエール」

 ―え?

「貴女なら、姫の名に相応しい、立派な女性になれましてよ」

 後ろから答える声がして、わたくしは飛び上がる。

 姫?

 どうしてわたくしがお姫様だと知っているの?それに、貴女は、誰ですか…?

 そのひとが、微かに息を呑む気配があった。

 どうか、なさいましたか…?

「そう…そうよね。貴女はまだ、あんなにも幼かったのだもの…」

 待って。どこかでお会いしたことが、あるの?

「…そうよ。貴女は、覚えていない?」

 …ごめんなさい。覚えていません。

 かなしくなって謝ったわたくしの髪を、しっとりした指先が撫でていった。柔らかい羽のような触れ方で。

「いいのよ、貴女が謝る必要はないわ」

 でも、一度お会いしているのでしょう?それなのに忘れてしまうなんて失礼だわ。おとうさまにそう教わったもの。

「あら、ふふっ」

 ?

「いいえ、何でもないわ…陛下は相変わらず律儀な方ねと思って」

 もしかして、おとうさまのことも知ってるの?

「ええ、知ってるわ。よく知っている。貴女のことと同じくらいね」

 そうなのですね。…じゃあ、おとうさまに訊いたら分かるかしら…ちょっとだけ待っていてくださいますか?今おとうさまに、

「駄目よ、リュミエール」

 え…どうして?

「今、その理由を言うことはできないわ。貴女を、傷つけるわけにはいかないの」

 わたくしを傷つける?どういうこと?

 そのひとはゆるゆると首を振り、わたくしの唇に人差し指を立てた。忘れて頂戴、と言ったような気がした。

 はい、と頷くと、そのひとは蕩けるような笑顔を浮かべてくれた。柔らかな日差しを背負っているせいできちんとは見えないけれど、赤い唇が笑みの形をつくったのが分かった。

 わたくしは、少し考えてから問い掛けた。

 ねえ、あの…もし、お嫌じゃなかったら、わたくしと一緒に遊んでくれませんか…?

「あたくしなんかで良いの?」

 勿論!

「ふふふ、分かったわ。何をして遊びましょうか?」

 えっと、では花冠をつくりたいです。薔薇がたくさん咲いているもの。

「素敵ね」

 貴女はどの色が好きですか?

「あら、あたくしにつくってくれるの?」

 はい。…ごめんなさいの印に。

「気にしなくて良いのに。…ではあたくし、赤がいいわ」

 分かりました!

「リュミエールは…ピンクがいいかしらね?」

 わたくしの好きな色!どうして、何でも分かってしまうの?

「あたくしにとって、貴女が大切な子だからよ」

 大切な子、ですか。

「大切な人のことなら何でも分かるって、貴女も思ったことはなくって?」

 わたくしはちょっと考えてみる。思い当たる人が一人、いた。

 あります。ううん、いつも思ってるわ。

「だぁれ?」

 おとうさまです。

「そう」

 わたくしにはおかあさまがいらっしゃらないの。おとうさまはわたくしのことを、おかあさまの分まで大切にしてくださるのです。だからね、わたくしもおとうさまが大好きなの。おとうさまが大好きだから、わたくし、おとうさまのことなら何でも知ってるのよ。

「陛下は、幸せね。こんなにもリュミエールに愛されて」

 …でも。でもね。ひとつだけ、どうしても分からないことがあるの。

「…なぁに?」

 あのね、おとうさま、時々ものすごく寂しそうな顔をなさるのです。わたくしのことをぎゅってして、すまないって謝るの。

 でもわたくし、それがどうしてなのか分からない。誰も何も教えてくれないわ。知りたいのに。おとうさまを苦しめているのが何なのか知って、大丈夫ですよって言って差し上げたいのに―。

「…リュミエール」

 たおやかな手がそっと頬に触れて、離れた。顔を上げると、そのひとはわたくしのことをぎゅっと抱き締めてくれた。

 ―おとうさまと、よく似た仕草で。

「…リュミエール、陛下はね、きっとお辛いのよ。

 え…?

「陛下はとてもお優しい方よ。愛娘が考えていることなんて、きっと全部お見通しだわ。…貴女が、随分前から寂しいと思っていることだって」

 わたくしが?寂しい?

「どうしておかあさまがいないのか。思いっきり遊べたらいいのに。きょうだいが欲しい。…そう思ったことがないわけじゃないでしょう?」

 包み込むような声音でそのひとは言う。心が抱き上げられて、優しく揺すられた気分。自分でも気づいていなかった、それでも確かに思っていたことを言い当てられて。

 どうしてか懐かしいその声に、わたくしは泣きそうになる。

 どうして…どうして、そんな風に、わたくしのこと、何でも分かってしまうのですか…。わたくし、自分でも分かっていないのに。

「ふふ、言ったでしょう?あたくしは、貴女のことなら何でも知ってるのよって」

 ぽろぽろとこぼれてゆく涙が、手折った薔薇の花弁に落ちる。優しく抱き締めてくれるそのひとの柔らかい香り。

 そう、わたくしは寂しいのかも知れません。よく分からないけれど。

 親戚の子達は皆、すごく幸せそうなの。おとうさまやおかあさまに囲まれて、きょうだいと笑い合って。

 わたくしは、王の娘なのに、どうして。

 どうして…?

「姫だからと言って、必ず幸せになれるわけではなくてよ。もしかしたら、姫ゆえに幸せなままではいられないこともあるかもしれないわ」

 …。

「でも、あたくしはね。あたくしは、貴女に幸せになって欲しいわ」

 わたくし、どうしたら幸せになれるのですか…?

 そのひとはふわりと微笑んで体を離し、「鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?」と囁いた。

 鏡…?

「そうよ、鏡。あたくしがあのに教えてもらった魔法の言葉。…今ならよく分かるわ、言葉の本当の意味が」

 鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?…合ってますか?

「合っているわ。良くできましたね、リュミエール」

 えへへ…ありがとうございます。

「きっと、答えてくれる人がいますから。寂しくてどうしようもない時、そうやって話し掛けてご覧なさい」

 答えてくれる人…誰なのですか?

「本当の貴女を分かってくれる人」

 本当のわたくし。

「貴女もいつか、きっとこの意味が分かるはずだから」

 そのひとは少し切なそうに唇を噛み締め、それからわたくしの頬に指を伝わせた。

「鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?」

 それは、貴女です。

 わたくしが呟くと、そのひとの手がふるりと揺れて、またもう一度頬を撫でてくれた。優しく、花弁が触れたような触れ方で。

「―ありがとう」

 頬に触れているその手が、ふと白さを増して霞んだ気がした。

 びっくりして見上げると、光を背負うそのひとの姿までもが薄絹みたいに透き通っていて。

 待って。透明になってます…!

 わたくしが叫んでも、そのひとはやんわりと笑うだけで、驚きも取り乱しもしない。静かに、でも堂々と花咲く紅薔薇のような姿だと思った。

「貴女が、こうして優しいに育ってくれたのが分かって嬉しいわ」

 いや…待ってください。わたくし、またひとりぼっちになるの?

「貴女は一人じゃなくてよ。…ほら、耳を澄ましてご覧なさい」

 言われて、思わず耳をそばだてる。リュミエール、とわたくしを呼ぶ男の人の声が微かに聞こえた。

「陛下が―おとうさまが、貴女を呼んでいましてよ」

 知らず握った手の感覚が、一段と薄らぐ。

 貴女は?貴女は、おとうさまのおともだちなのでしょう?なら、わたくしと一緒におとうさまのところへ行ってください。おとうさまも喜ぶと思います。

「いいえ、あたくしはそちらには行けないのよ。

 そんな…。

「貴女はあちらで、ちゃんと幸せにおなりなさい。それから、あたくしの代わりに、陛下をよろしくね」


 わたくし達を囲む薔薇達が、ほろり、ほろりと柔らかく砕け始めた。

 甘くて、どこか切ない香りのする風が、淡くそれらをかき集めてゆく。

 ばらばらに散り吹かれてゆく色とりどりの花弁に溶け込むように、そのひとの輪郭もおぼろげになっていた。

 そのひとは、掴んだわたくしの手を緩く振りほどいて、そぅっとわたくしの頭を撫でてくれた。


「あなたを、おいていって、ごめんなさい」


「いっしょに…いきていけなくてごめんなさい」


「しあわせをうばってしまって…ごめん、なさい」


 途切れ途切れにかすれた声が耳元に触れて溶けてゆく。

 残されているのはひとひらの花弁のごとき片手だけだと言うのに、そのひとがうっすらと笑ってくれた気がした。


「ありがとう、やさしいこに…そだってくれて。


 途端に眩しさを増した光の中で、そのひとはとうとう見えなくなった。昇りたての朝日のような色を残して。

 頭を撫でていったあのひとの手が残していった感触が、わたくしには、不思議なくらい懐かしく感じられた―。


 ***


「リュミエール…リュミエール!」

 すぐそばでおとうさまの声がして、わたくしはぱっと飛び起きる。おとうさまがとても難しいお顔をなさっていた。

「全くそなたは…メイド達がそなたの姿が見えないのを心配しておったぞ。どこにいるのかと思えば」

 庭で昼寝しておったとはな、と、おとうさまは呆れたように言った。

「ごめんなさい、おとうさま」

「何事もないようじゃからの、別に叱ったりはせんよ。…ただ、これからは気をつけるように」

「はい、おとうさま」

 わたくしが少ししょぼんとして答えると、それを気にしたのか、おとうさまは悪戯っぽく笑った。

「?」

「最初に見つけたのが儂で良かったのう」

「あら、どうして?」

「メイドなんかが見つけていたら、『姫様ともあろう方がはしたない!』…と、カンカンであろうが。それは嫌だろう?」

 わたくしはそんな様子をちょっと思い浮かべてみる。

 うーん…何となく、そのメイドの頭に角が生えている気がするわ。

「…たしかに、いやです」

「ははは」

「見つけてくださって、ありがとうございます」

「良い。父だからな、当然だ」

 わたくし達はふふふ、と笑う。

 笑いを収めてから、おとうさまはふと気づいたようにわたくしの頭を見つめた。

「似合うな」

「はい?」

「?薔薇の冠だよ。…そなたがつくったのだろう?」

「えっ」

 薔薇の冠?

 頭の上のそれを手に取って見ると、それはピンクの薔薇がずらりと並んだ冠だった。あれ、と思う。


 ―鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?


 たおやかな声が、聞こえた気がした。





























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色も形も無きものへ 若葉色 @cosmes4221

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