Another story―When you wish upon a star

「はあ…」

「どうしたの?ジェイド」

吾輩が振り返ると、枕をもふもふと抱えたネージュが後ろに立っていた。寝間着の裾が緩い風にふわりと膨らむ。

「あ、あぁ…別にどうもせんよ」

「もうジェイドったら」

誤魔化し方が下手ねぇ、と呆れたように言って、ネージュは吾輩の隣に腰掛けた。きっと何か言うのだろうと思って待っているのに、彼女は口を開きもせず頭上を見上げている。

満天の、星空である。

濃紺のビロードに真珠の粒を散りばめたように静謐な、豪奢な星空。宝石のひとしずくみたいに美しいはずの月すらも霞んでいる。

ひゅるり、と風が舞った。ネージュはふるりと肩を震わせたようだ。風邪を引くぞ、と吾輩は言いかけて、はっと口を閉じた。―ネージュの頬に、涙が一筋見てとれたからだ。

「お姉様とこの星空を見ることができたなら、わたくしどんなに嬉しいか」

「ネージュ…」

ネージュは慌ててごしごしと涙を拭い、こちらを覗き込んできた。潤みの残る漆黒の瞳が吾輩を捉える。

「貴方もきっと、そうなのでしょう?」

心の内までも、覗き込まれた気分だった。


***


「こんなにも星が綺麗なのだから、流れ星が見られるかもしれないわ」

リュミエールのはしゃいだ声が聞こえてアタシは我に返る。ブラン様の腕にぎゅっと抱きついている彼女が、少女のように満面の笑みを浮かべている。

「流れ星か…久しく見ていないな」

あどけない妻に相好を崩しながら、ブラン様はゆるりと天上を振り仰いだ。

―満天の、星空である。

濃紺のビロードに真珠の粒を散りばめたように静謐な、豪奢な星空。宝石のひとしずくみたいに美しいはずの月すらも霞んでいる。

どこにいてもこの美しさは変わらないんだな、と思った。

アタシらしくないや。

ムーンとジストも僅かに寂しそうに星々を見つめている。

アタシ達の心中を知ってか知らずか、リュミエールはあのね、と切り出した。

「こちらの世界では、流れ星が流れてしまう前に願い事を三回唱えると、願いが叶うのだっておまじないがあるのよ」

「へえ、初耳だな」

「わたくし早口言葉が苦手だから、三回言えたことなんてないのだけれど」

リュミエールは苦笑して、そしてすいっと俯いた。ブラン様の手がその肩に触れた。

「リュミエール?」

「…言えたとしても、叶いっこないわ。わたくしは」

「どうして?」

「だって、あまりに願い事が多すぎるもの」

その場にいた全員がはっとする。リュミエールは苦しそうに呟いた。

「お父様にもう一度会いたい。お母様に会ってみたい。ネージュと、姉妹として…一緒に暮らしたい…」

切れかけのぜんまい人形のように言葉を途切れさせた彼女を、ブラン様がそっと抱き寄せた。

アタシ達は静かに顔を見合わせた。叶いっこないのかな、という迷子のような顔を。

―アタシ達も会いたい人がたくさんいるから。


***


別に寒かった訳じゃないけれど、くしゃみが止まらなくて僕は目を覚ました。部屋の中はまだ真っ暗で、変な時間に起きちゃったな、と思う。

僕は左右をきょろきょろする。右ではパーズがすやすや眠っている。僕のくしゃみで起きないのはパーズくらいだ。思わず笑ってしまってから左を見た。でも、そこにいるはずのジェイドはいなくて、ベッドには枕の近くにほんの僅か皺が寄っているだけだった。

「ジェイド…?」

僕は呟いて起き上がる。すると、部屋の外から密やかな話し声が聞こえてきた。耳を澄ませていると、少しの後話し声は止んだ。そして、遠慮がちな足音が僕達の部屋の前を通り過ぎていった。

「…」

どうしようかな、と迷ってから、僕はよいしょっとベッドから降りた。とてとてと右隣のベッドに歩み寄る。

「パーズ。ねえ、パーズってば」

「んー、むにゃむにゃ…」

「ねえ、起きてよう」

「むにゃむにゃ…む、すやぁ…」

「もうパーズ、起き、て、よ…ぶえっくしゅん!!」

「わあ!?」

耳元でくしゃみをしてしまったためにパーズは文字通り飛び上がった。

「耳元でくしゃみしないでよ!」

「うん、ごめんね。…おはよう」

「おはよう?」

暗くない?とパーズは首を傾げる。

「て言うかジェイドは?」

「随分前から起きてるみたい…多分ネージュと話してた」

「ふうん、ジェイドらしくないね。いつもなら規則正しく動くのに」

パーズがきょろりと僕を見上げた。そして、悪戯っぽく唇の端を吊り上げた。

「…遊びに行こっか」



開け放したバルコニーの段々にジェイドが座っていた。座っているというより置かれた人形のようである。青い寝間着の裾を広げてぼうと空を見上げている。

「ジェーイドっ」

「…まだ寝ていなかったのか」

パーズが突然話しかけたにも関わらず、さして驚いた風もなくジェイドはそう切り返した。

「ニキスが耳元でくしゃみするんだもの」

「わざとじゃないよ…」

ジェイドはくるりとこちらを振り返った。

「…少し、話そうか」

穏やかな、彼らしい口調だったが、僕は何だか抗いがたく感じた。パーズも同じだったようで、僕達は顔を見合わせてからうん、と頷いた。

ジェイドはでも、何も言わなかった。

ただ、涼しい風が泳ぐように吹き過ぎてゆくだけだ。

静かで、静かで、ただ静かなだけの時間である。

「なあ」

ふと、ジェイドが声をあげた。

「なになに、どしたの?」

パーズが不思議そうに問うと、ジェイドはふふふ、ともの柔らかに微笑んで「あの星」と空を指した。

「あれと、あれと…あれ」

「うん」

「繋ぐとムーンに見えないか」

「あ、…ほんとだ」

ジェイドが指差した星々をなぞってみると、なるほどあのふにゃっとした笑顔が完成した。

「ジェイド凄いねー!」

「だろう?」

「じゃあボクもー」

えっとねー、とパーズがぐるんぐるんと空を見渡している。

「見つけたー!」

「どれ?」

僕が問うと、えっへんと胸を張って、パーズは「あれとあれと、これとあれ!」と辿っていく。

「ほうほう」

「…あ、分かった。アネットでしょ」

僕は、彼女のツンとした表情を見つけて呟いた。 せいかーい、とパーズは楽しそうだ。僕も二人の真似をしたくなって、「じゃあ僕もやるから、当ててね」と言う。

「りょーかーい」

「承知した」

僕はこてんと首を傾げる。

「よし、出来た!…ふえっくしゅん!」

「どれ?」

あれとあれと…と指し示していくと、ジェイドが「ん、分かった」と声をあげた。

「ジストだな」

「うん、当たり」

笑ってるな、と独り言のようにジェイドは囁く。笑ってるね、とパーズも頷いた。笑ってるよね、と僕も囁き返した。

「「「会いたいなあ」」」

図ったわけでも何でもなく、声が重なった。夜の静寂しじまにほどけてゆく僕らの声をゆるりと結び合わせるかのようにひと筋、星が流れていった。


***


リュミエールとブラン様が部屋に戻ってからも、私達はしばらくその場に留まっていました。

『だって、あまりに願い事が多すぎるもの』

そう言ったリュミエールの声が、脳裏に蘇りました。

「…欲張っては、いけませんかね」

思わずポツリと溢すと、アネットとムーンが「「何て?」」と訊き返してきました。

「あの三人に、会いたいと思うのは、多すぎる願いでしょうか」

僅かな沈黙が漂いました。すみません、と謝りかけた私を、しかしアネットが制しました。

「そんなわけ、ないじゃんか」

「…」

「三人で多いだなんて、そんなの心狭すぎだろ」

珍しく静かに言い募る彼女の横から、ふいっとムーンが枕を―もとい、顔も覗かせました。

「そうだよ…むにゃむにゃ」

「ムーン」

「僕ねえ、願い事って多くていいと思うんだぁ…それこそ、星の数くらいあってもいい」

ムーンはふわふわとそう言って、夢見るように天上を振り仰ぎました。

「星はさ、こんなにたくさんあるじゃない?だったら、どんなにたくさん願いがあったって、きっと叶うはずだよ」

ムーンは頑是ないですね。 純粋に、一途に、様々なことを信じている。しかし、それを子供じみている、と捉えさせないのは、彼がきちんと考えた上で言っているのがよく分かるから。こんなムーンに、私達はいつも救われている。どこか辛そうだったアネットも微かに緩んだ表情を浮かべています。

「…ムーンが言うなら、そうかもしれません」

「何それ、わけ分かんない」

「突っ込みが鋭いですよアネット」

「何の根拠もないのにさ」

「…貴女も、そう思ってるんでしょう」

「はあ?」

「そんなわけないって言う否定が出てこないようですから」

アネットの癖ですね。そうじゃないと本心から思っていないとき、彼女はそれを完全に否定するような言葉を発しないのです。

おや、図星だったようです。気まずそうに俯いてしまいました。

「あー、アネット照れてるんだねー?」

「うっるさぁい!照れてないわ!」

アネットが大声をあげたので、思わずしーっと指を立て合います。お互いの真剣な顔が面白くて、私達は同時に吹き出しました。

「…前にもこんなことあったねぇ」

「そうですね…」

「うん、あったな」

懐かしい、と透明なアネットの声が空気を震わせました。するとそのとき、まるで「そうだね」とでも言いたげにひと筋、白銀が空を駆け抜けたのです。誰のものでしょう、あ、と声にならない声が緩やかに消えていきました。

「願ってみましょうか」

自然とそんな呟きが口から漏れました。

アネットとムーンはびっくりしたように顔を見合わせてから、うん、と頷いてくれました。

また、すうっとひと筋、流れ星。

「「「もう一度皆に会えますように」」」

声が重なりました。またもや顔を見合わせた私達です。

「これは…三回言えたってことでいいのか?」

「僕ら反則かな?」

おずおずと問うてくる二人に私は苦笑するしかありません。私も同じことを考えていたので。

「これで反則なら、神様は随分酷い御方ですよ」

囁いて頭上を仰ぐと、奇跡のように美しい星空で再びひと筋の星が滑ってゆきました。

―それはどうしてか、青くも見え、黄色にも見え、オレンジにも見えたのです。


***


夢を見た。

柔らかで、温かで、穏やかな夢。

眠気で重たい瞼を、僕は必死に持ち上げていた。

見覚えのある青いバンダナが目の前で揺れている。その人は僕をぎゅっと抱き締めてくれているようだった。向かい合って抱き締められているせいで、顔はよく見えない。痛いくらいに力を込めるその人は背が高くて、綺麗な黒髪が何故か懐かしく思えた。

ん…?

隣にはジストがいて、オレンジのバンダナの誰かを泣きそうな顔で抱き締めていた。その子は嬉しそうに抱き返しながら、やたらとくしゃみを連発している。

あれ…?

うわあぁ、とアネットの悲鳴が聞こえて振り向くと、彼女は黄色いバンダナの小柄な子に勢いよく抱きつかれていた。アネットは必死にひっぺがそうとしているが、その顔はやはり泣きそうに歪んでいる。アネットを襲っている子の顔は、この場の誰よりも鼻水と涙でぐしゃぐしゃだ。


ああ。

ああ、そうか。


見覚えがあるどころじゃない。

僕は、僕らは、この人達が誰だか知っている。分かっている。だって。

―だって、同胞きょうだいだもの。

僕が顔を上げると、僕を抱き締めていたジェイドはふわりと笑って、僕の頭を撫でてくれた。笑んだ形の口元が、やっと会えたな、という風に動いた気がした。

アネットに抱きついたままのパーズは、顔をぐしゃぐしゃにしながらも何かを楽しそうに捲し立てていて、アネットが喧しいとでも言うようにそれを躱しつつ、優しい手付きで彼の頬を拭っている。ニキスが舌っ足らずな口調で話しているのを、ジストが泣き笑いのような表情で聞き入っているのも見えた。

幸せな、ただひたすらに幸せな時間。

僕はジェイドを見上げて、あのね、と口を開きかけた。彼も何だ?とこちらを見てくれた。

しかしそれなのに、僕は言いたいことを飲み込むしかなかった。

枕をぎゅうっと抱き締めて、僕はそっとジェイドの肩の向こう側を指差した。ジェイドはきょとんとしたものの、すぐに振り向いてくれた。

ああ、と吐息のようなジェイドの声が空気に溶けた。

―朝日。

星と同じように白く、でも星のそれよりも遥かに柔らかく、温かい光。優しく包み込むような光は、今の僕らにとっては夢の終わりを告げるものだった。

アネットとジストが、我に返ったように目を瞬かせる。どちらともなく、戻らなきゃ、と呟いたようだった。

パーズとニキスが嫌だ嫌だとでも言うように二人の袖を引き寄せる。ジェイドは僕のそばを離れ、そんな彼らの手を取って静かに首を振ってみせた。

ジェイドとニキスとパーズ。

ジストとアネットと僕。

広がる朝日のベールにくるまれて、僕らは無言で立ち尽くしていた。

光が一段と強くなった気がした、そのときだった。

「ねえ!」


***


「ねえ!」

気がつくと、ボクは三人の片割れに向かって叫んでいた。輝きを増す朝の光の中、皆の顔が霞み始めている。

やだ。

嫌だよ。まだ、もう少しだけ。

―あと、ほんの少しでいいから。

「ボク達は、元気にやってるから!…皆の分も、ネージュを支えてるから!」

だから、だからどうか、心配しないで。

格好良く言い切りたかったのに、ボクの声はみっともなく震えてしまう。目の前がぼやけて、ボクは思わず下を向く。

するとそのとき、背中に二つの手が触れた。

「パーズの言う通りだ。我輩達のことは心配するな」

ジェイドが静かに言うと、

「そうだよ…へっくし!多分皆と同じくらい、僕らも頑張ってるからさ」

小さくくしゃみをしてから、ニキスも明るく言った。

三人は、顔を見合せたようだった。

ぱちくりと瞬いた彼らの瞳は、光を受けてきらきらと潤んでいた。

真っ先に振り返ったのは、アネットだった。猫のように吊り目がちの黒い瞳をきっとさせて「心配なんかしてないわよ!」と大音声を張る。

「心配なんかしてない!だって分かってるもん!アタシ達がいないからって、あんた達がずっとぐじぐじ泣いてるわけないって…!」

「アネット…」

「だから、貴方達も心配しないでくださいね」

ジストがほんのりと笑んでそう言った。

「私達も、元気にやってますから」

ねぇムーン、とジストはもの柔らかにムーンに話を振る。ムーンはあどけない仕草でこくこくと頷いた。

「うん、僕達元気だよ。ちゃんとリュミエールのそばにいるもん」

ムーンはきっぱり言い切ったものの、「あ、でもね…」と言い淀んだ。

「でもね、時々凄く寂しくなるんだ…六人揃っていたら、どんなに楽しいだろうって」

「我々もだ。それこそ、夢の中でだけでも会いたいと思うほどに」

ジェイドの言葉に頷く。そんな彼に、ムーンはぱあと嬉しそうな顔をした。

「じゃあ、三人とも、僕達のこと忘れないでいてくれる?」

ボクらは思わずぷふっと吹き出す。そして誰からともなく「勿論」と言った。

「忘れるわけない。同胞きょうだいなんだから」

ボクが微笑むのと同時に、さあっと風が吹き渡った。爽やかで、どうしてかとても切ない香りのする風。

光が弾けて、視界が雪に覆われたようになる。あまりにまばゆい、別れの瞬間だった。名残惜しむ間も無く、さよならを言う間も無く、互いの姿が見えなくなってしまう。


―約束だよ…?


誰のものとも知れぬささやかな祈りが、朝露のようにひっそりと純白の中に染み通っていった。


***


柔らかい温もりと、ほんの少しの涼しさに誘われて我輩は目を開ける。


アタシ自身が見ていたものがやっぱり信じられなくて、何度も何度も手を見つめる。


僅かな寂しさを振り払うように繰り返されるくしゃみが、今はどことなく孤独だ。


周りを見渡すと、ふわあぁと欠伸をして目を覚ました二人が、何だか寄る辺ない目をして私を見つめてきました。


僕の視線を受け止めた二人は、僕よりも眠たそうな様子でしばしぼうっとくうを見遣っていた。


朝がこんなに切なかったこと、あったかなぁ…とボクは寝惚けた頭で考える。


きっと我々は皆、同じ夢を見ていたのだろう。


片時も忘れることのない、アタシの同胞達きょうだいたちの夢。


優しい夢の名残のように、朝雲がゆるゆるとたなびいている。


私達が願いをかけた星々は、いつの間にやら見えなくなっていました。


でも、見えなくても―会えなくても、星も皆も、いつもそばにいてくれるはず。


隣り合う鏡像みたいに、ね。住む世界が分かたれていても。


「おはよう、皆」

誰のものにも聞こえる囁きが、ほんの少しの明るさをまとって、淡く解けていった。




















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