これから・・・・

この文章を書き始めたころは、パパちゃんの退所まであと1か月。

5月の初めだったように思う。

自分で自分の時間をコントロールできるのがあと1か月・・・といったところでかなり落ち込んでいた。

退所した後は長い、長い介護生活になる。どんなサービスを受けるのか・・・本人はどの程度の成果があるのか、ないのか不安しかなかった頃。


文章を何度書いては消して、あれもこれもと書きたいと思って。

時間だけが過ぎていった。


二人の親が亡くなったことで、事務手続きが多くて。


やっとめどがつき、ほっとしたころ頃でもあって。


体調も悪い日があったりして。

私どうやって元気をだしていたんだっけ?

毎日どうやってすごいしていた?


前の自分が思い出せない。

何をしていた?何をすればいい?


後で思えば・・・喪失感・・・なんだろうな。




パパちゃんとはお正月から半年間、外泊は2回。通院や諸事情での面会が4回ほど。


コロナ禍でもろもろの宣言下で会えたのはそれだけだった。

言葉に理解できればテレビ電話などできたのだろうけど・・・そこまで理解はとてもできない。


5月の下旬から、退所後に何をするか、どこに行くか、どうやって過ごすか新しく契約したケアマネージャーさんと相談しながら何度も見学をしたり、電話で確認したりして。


パパちゃん本人がこだわりのある人で、自分で決めたい人だったので特別外出を申請してなんとかいくつか見学した。


良かったり、よくなかったり。

少しづつだけど退所後の予定が立ってきて。




そして6月終わり・・・誕生日を過ぎた頃・・・パパちゃんは家に帰ってきた。




今年は誕生日をお祝いできなかったけど。


特に何も言わなかったけれど、これからはずっと一緒だからいいよね。

というか・・・仕方ないというか・・・(汗)



今、退所してからは、激動の時間が過ぎた。


あっという間。


時間の流れ方がちがう。


ノアちゃん、コトちゃんの時間にパパちゃんのデイに行く日、行かない日・・・自宅でのお風呂、歩く練習のお散歩。新しいお医者さん、看護師さん。


介護以外でもやらなくてはいけないことが多くて。ほんとだったら、元気だったら二人でできるのに・・・と思ったことも何度か。来客や外出が多くてあわただしい。

予定の波をなんとか乗り切って、家事をこなして毎日が過ぎていく。




退所したその日、新しい先生の診察日で、私もパパちゃんの様子がわからない時期で。



最初のリハビリ病院のリハビリで言語が一番伸びなくて・・・嫌だと言って一番やる気がでなかった話して、これからは少しずつ言語を伸ばしていきたい・・・コミュニケーションをとれるようにしたいと希望を話したとき


病後鬱だったのかもね


とさらっとおっしゃられた。


リハビリの中で言語が一番最後に伸びるとは、聞いていたけれど。最初の半年の在宅介護の時はコミュニケーションが取れなくて苦労した。



病後鬱・・・



夜、病室で泣いている声を聴くことがあると聞いたことがある。いつだっけ?誰の入院の時だっけ?パパちゃんだったかな。


夜、泣いている風ではなかったですよ。どうしても夜になると泣いてしまう人がいて・・という話を聞いたのはどこでだったか。



病後鬱・・・の言葉がなぜかストンの自分の中に落ちていった。


そうだよね。つらかったよね。

だって動けないんだもん。しゃべれないし。言いたいことも子渡場が出ない。

私たちが何を言っているかもまったくわからないし。


つらくて大変だったんだよね。


その時初めてリハビリ病院で言われた「本人が一番つらい」「お元気になられた後、倒れてからしばらくの入院の事は靄がかかっているような記憶しかないとおっしゃっていた方もいるんですよ」というところにつながって。


わけもわからない状態になったパパちゃんが一番大変だったんだよね。


と思えた。


そっか。そうだったんだ。


リハビリ病院に入院してしばらくして、面会室で二人でジェスチャー付きの連想ゲームで会話する。仕事は・・・(どうなった?)自動車(の免許更新はどうなった?・・・)とか。

仕事はできないよ。免許は来年更新だけれど、運転は難しいよ(無理だよ)と返事をすると「あ~~~ああ⤵」とため息交じりのいったがっかりした声をよく聞いていた。


私は「だって、しょうがないじゃん」と言っていたね。


しょうがない。としか言えなかったし。


どこで、踏ん切りをつけたのかな。

リハビリ病院を退院するとき、どうしても自宅に帰りたくて、在宅介護になった。

右、左もわからなくて。言葉で説明しても理解できなかった日々。


障がい者自立支援センターに入所する日はもう戻ってこれないと思ったのか涙をうかべて家のほうを向いて「バイバイ」と悲しそうに言ったのを覚えている。


わからないなりに理解しようとしていたんだよね。


月に2回は帰ってくるんだよ。


言葉で私が言ってもその頃は理解できなくて。迎えにいくと帰れることを分かったのかな。「次は(いつ家に帰れるの?」とカレンダーを持ってきて聞く。その頃、あまり表情が豊かではなくて。発話もはっきりしていなくて。理解するのが難しくて、よくわからなかった。




だから、久しぶりの暮らしに

テレビでメジャーリーグの時間帯を探して、見て。大谷がホームランを打つと「おお~~⤴」って喜びの歓声を上げるときびっくりした。


「勝ってるの?」と聞いて「うん」と返事をするのをびっくりして聞いた。

ツイッターを見てることに驚き、充電してほしい時には「ん~~~」と私を呼んで「充電!」と言えるのはほんとありがたいと思った。


暑い日に冷房つけてほしいことを『暖房』と言ってしまう。

それでも、私たちはわかるよ。冷房したいということを。

冷房!冷房入れるのね!というと単語を覚えるときもあるし、覚えない時もある。

自分の意志で伝えてくれることが嬉しい。

ジェスチャーを入れて、あれこれ言おうとしてくれていることが嬉しい。

右に麻痺はあって、装具をつけなくては歩けないけれど。普通のスピードでの会話を理解するのはとても難しいけれど。ゆっくり、パパちゃんのペースでゆっくり。何事も。できることはたくさん増えていて。色々なことが楽しみになってきた。


夢の国や、鉄道博物館、もしかしたら旅行も行けるかもしれない。



前は・・・半年の在宅介護の時は外出はとてもハードルが高かった。


「待って」もわからない時期だったからかもしれないけれど、ショッピングモールに行くのもとても大変だった。


あるショッピングモールでは、『みんなのトイレ』はみな右側に手すりがついているタイプしかない。左麻痺用のトイレの作り。補助バーも付いていたから、言葉の理解がある障がい者なら、こっち持って、ここで回転して・・・と指で刺しながら使えるのかもしれない。でも、同じ形でないとパニックしてしまう当時のパパちゃんは、そのトイレは使えない。この取っ手をこの手でつかんで・・・と指さし指示を出しても、いつもと違う順番だと焦ってわからなくなってしまう。結局使えなかった。



夢の国では左向き、右向きのみんなのトイレがあって、その場所と向きもHPで見る事が出来る。そんな施設もあるのに・・・


外に行く練習と思って行ったトイレ。トイレに行くのをやめてしまった。どの階のどのトイレも同じ向き・・・・それを見てがっくりして・・・

切なくなった。

広くて介助バーをつけておけば『みんなのトイレ』でしょ・・と言われているみたいで。・・・見えないバリアーを感じた。



エレベーターに乗るのもベビーカーの人がいるとパパちゃん遠慮しちゃうし、エレベーターを使うのもすいません、ありがとうございますを何度も何度も言って・・・初めての時はずごく疲れた。





今は言葉の理解も少しはできるから。そしてたくさんの失態をして私の心の余裕もある。時間帯とか、トイレの確認とか、事前準備がいれば外出はどんどんできるかなって思う。コロナがおさまれば。



入所していた支援センターの方と話す機会があった時に感謝を言った。

「こちらでの生活(訓練)が良い方に向いたのですね。パパちゃんさんの努力ですよ。」とおっしゃっていた。



どれだけ毎日こつこつと努力をしたのだろう。黙々と毎日をすごしていたのだろう。決められたことをするのはできるけれど、新しい情報は入るまでに時間がかかる。どれだけ、戸惑いながら生活リハビリで身につけていったのだろう。


「パパちゃんさんは穏やかな人なので~」とおっしゃっていたのも印象的で。


ある時・・・パパちゃんの入所が終わりのほうにノアちゃんが


うちの人たちは穏やかだったから施設に入れたんだろうね。これが、暴れる人だったりしたら大変だったね。


と言った。私は本当にそうだね・・と答えたと思う。


大変だから・・・殺人事件になったりするんでしょ?


と続けて言ったように思う。

時々見るニュース。介護疲れの殺人や無理心中。

私も何か歯車がずれたら、同じようにしていたかもしれない。



今、大変な人もいる中でおだやかであるだけで・・・本当にありがたい。

そして子供にこんなことを言わせるのは・・・子供と介護が近いんだろうな。



最近、コトちゃんが学校から持ってきたプリントの中にヤングケアラーのプリントがあった。一人で抱え込まないで。相談できるところはあるよ。こういった手伝いはヤングケアラーと言うんだよ。と絵付きで相談先が書いてあった。

2年前私が相談できるんだよ、とコトちゃんに言った場所も入っていた。


介護は人手がいる。フルタイムで働いていたら間に合わない。


大人だって介護離職でその先の本人の老後が問題になる時代。


親が働いていたら、介護の担い手は子供たちに降りてきてしまう。

生活をするためには働かなくては行けなくて。介護はで協力しなくては行けなくて。

みんなで少しずつ支えられたらいいのだけれど。

若者の人生を無理に押し付けてしまうのは・・違うと思う。私だって好きで介護をしているわけではなく。時々嫌になる。大人だってそうなんだから、情報が少ない子供は声を大にして助けを呼べないと思う。


介護サービスですべてを担えるわけではないけれど。どうしても子供が介護の担い手になるならば・・・介護が終わった後子供の夢に復帰できる社会であってほしい。人生のレールを遠回りしても過ごしていける社会が、なんとかできないかしら?と思う。




じゃあ、私は?

介護が部分的に終わって抜け殻になりそうな予兆があるけれど。

私は??




体力は前よりなくなっている。


車いすを車に出し入れするとき。

上がんない!上がらないよ。前より重い車いすを使っているけれど・・・。


前はこんなじゃなかった。

介護していてもこんなんじゃなかった。



膝が痛い。しゃがめない。高いものが届かない。重たいものが持てない。


ありゃ。

この20年怠けたツケが来たのか・・・あたし、おばちゃんを通り越しておばあちゃんね。


「実年齢は50代だけど。体は75歳。」


そんな言葉が自然と口から出て、納得してしまった自分。

それなら、車いすが出せなくてもしょうがないね。膝が痛くても。重たいものが持てなくても。


出来ないけど、工夫をしよう・・・そうしよう。



それで・・・これからの私個人はどうする?

実年齢50代で体力年齢75歳の私は??どうするの?



先に書いた、介護を卒業したママ友も、親の介護が終わって時間ができてもあまりやる気が出ない・・・介護をしてない同年代(50代)は旅行や外出やと楽しそうにしているけれど・・・外に出る気がなかなか出ない・・・と言っていたのを思い出す。コロナの時期というのもあるのでしょうが。


私も同じように思う。

半分燃え尽きちゃったかな。私。



まだ二人分見送るまで頑張らなくてはいけないけれど。

どうやってやる気を出していたのか。

前の自分はどうしていたのか。


あまりよく思い出せない。



2月舅:黒じいじと3月に実母:白ばあばが亡くなった時、戸籍謄本を集めた。私の知らない人の名前がずらり。


それぞれの先祖。

命のバトンをつないでくれた人たち。



それぞれの人に苦労や悩みがあったはず。


でも、もう皆知らないし、わからない。



時間が流れていけば、わたしのこともみな知らないし、わからない。


だったら、先祖がそうだったように目の前にあることを粛々とこなしていこうと思う。

生きていればこそ、落ち込みもして、浮き上がれる時もあって。もがくときもあるけど、うまくいくときもあって。

だから、生きていこうと思う。死んでいいよと終わりの時まで。


最近は[ALEXANDROS]の曲をよく聞く。気分を上げたいときによく聞いていたバンド。



一番になったって二番になったって結局最後は皆消えていくんだ。

僕が死んだって何もの残らないから、生きているうちは死んでたまるか。



『Ran Away』の一説。

まったくその通り。


歌の内容は介護とは違うけれど。歌詞が勇気づけてくれる。



思ったことと違う10年になりそうだけれど。

子供たちは巣立ちの10年になるだろう。


巣立った後の私は??

私は何になる?どんな10年にするのか。

私という人間は何をする?


このままでいいなんて思わない。


シンプルに。中学の時からしたかった「自分が作るお話」を綴ろう。

私にしかできない世界を綴ってみよう。

それが将来になるとか、ならないとかではなくて。誰も見なくても・・・いいじゃない!母でも妻でも誰かの娘でもなく、介助者でもなく。ただの私でいるために。



倒れた翌日。コトちゃん、ノアちゃんが不安で興奮する中。生計をどうするか・・・心配していた時に言った言葉。冗談半分、本気半分、小説家になるとか・・・ネットショップを開業するとか?在宅でできることを探した。何も売るものが思い当たらないのに。


絶望の中から、何の根拠もなく口から出た言葉だけれど。


その時にも前出の『神様は超えられない試練は与えない』と同じく『ピンチはチャンス』もすっと頭の中に出てきた言葉。


何の根拠もなく。何のチャンスなんだろう?現実はこんなにひどいのに?自分がどんどんなくなるのに?と思っていたけれど。



今は何かできるかもしれない。

毎日の忙しい中に心は震え立つ。



二年たってやっとそこまで思えるようになった。

そこまで余裕ができたのかな。



日々、は介護で大変で。ちょっとしたご褒美は、前はライブだったけど、今は夜や夕方出かけるのは難しく、ライブは無理。では私の何がリフレッシュになるのか、改めて周りを見てみた。



猫をなでること。

シアトル系コーヒーチェーン店の毎月の新作を飲むこと。



かなと思う。


よく周りを見つければ、何かはあるのだろう。


やっとそこまで見えるようになってきた。



現実の世界は大変で流されても、その経験を糧に脳内で想像・妄想していく。

世界は広いよ。

目の前の世界は一つしか見えないけれど。

色々なところにアンテナを張って


まだまだできることはあるはず。




どんな人と新たな縁ができるのか。過ごしていくのか。

ちょっと楽しみ。



パパちゃんが戻ってきて一か月たった今でも思える。


私にしかできないこと。お話づくり。家族を守ること。次におくること。




自分にしかできないことを見つけてライフワークにすることを教えてくれたのは実父:白じいじ。戦争で焼け野原に立った青年が父親になって小さな私におしえてくれた。


休みの日は自室の机の上に本をたくさん広げてものを書いている、お父さん。外国の本があったり、難しい数字の雑誌だったり。遊んでほしい年ごろの子供は「お父さんは何の勉強をしているの?」と聞いたらしい。仕事以外で好きなことを勉強する。誰にもできないことをする。そう教えてくれた人で。



そんな白じいじも同居してから、介護してから、ぶつかることも多くて。邪険にすることもおおかった。

ある日偶然YouTubeで『ある老人のつぶやき』という動画を見たら。


涙が止まらなかった。白じいじと重なることが多くて。ずっと我慢してくれていたこと。しかたがないね、しょうがないねとあきらめてくれたことを思い出して。

何度見ても、いつ見ても涙が止まらない。

私のほうこそ白じいじに甘えていたんだよね。



後悔がない介護はきっとないだろうと思う。

なるだけ後悔が少ない介護が出来たらと思う。


長生きすることが辛いんじゃあ、若い人たちだって嫌になる。

年寄だって嫌になる。


みんなが笑顔になる方法はないかしら?




そのあたりもこれからの私のライフワークになったりして?




ヤングケアラーも、普通するお手伝いと、介護の境があいまいで。


我が家の今の状態ではコトちゃんの高校見学の時、どうしてもノアちゃんにパパちゃんの見守りをしてもらわなくてはいけない。


見守りができないとノアちゃんに我慢してもらわなくてはならない。


なんとかできるようにデイサービスとかケアマネさんとかに相談はしているけれど。

なるだけうまくいくように努力はするけれど。どうしても難しいタイミングもある。パパちゃんが元気だったら、二手に分かれてできることもあるのに・・・悔しく思うことも多い。どうしてもコトちゃんに我慢してもらう時が多くなる。

その積み重ねがヤングケアラーのつらいときかなと想像したり。一人親と同じなのかなと考えたり。


高齢者介護と違う介護のかたち。

途中で障がい者になっても障がいはまちまち。


これからはずっと一緒に生きていく。


ともかく、模索してみよう。失敗したり、反省したり怒ったりしながら。

私らしく。

私達らしく。


これから。

新しい家族の形で。












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【エッセイ】51歳11ヶ月17日の夫が倒れました ~介護3.5人目 介護生活再スタートとそれからの日々 福江まーさ @marsa-f

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